【2年前 6月12日 午後4時12分】
月日は経ち、識霧くんと何度か連絡を取って交流していくうちに、彼の甥である萱愛小霧くんを紹介された。
小霧くんが高校に進学し数ヶ月が経った頃、彼は疲れた様子でうちの教室に来た。
「こんにちは、唐沢先生」
「やあ小霧くん、いらっしゃい。なんだか元気ないじゃないか」
「……実は、学校で色々ありまして」
その言葉の直後、小霧くんは堰を切ったように自分の身に起きた出来事を話し始めた。
自分が中学の同級生を自殺に追い込んでしまったこと。
その同級生の友人に恨まれ、襲われたこと。
自分の罪を自ら学校内に広めて、責任を取ったこと。
「自分で選んだことなので、後悔はありません。ですが、今でも俺は怖いんです。また間違った行動で誰かを追い詰めてしまうんじゃないかって……」
「小霧くん、怖いのは仕方ないよ。それならいっそ、『もう今の学校では誰とも関わらない』っていうのを受け入れて進むしかないんじゃないかな」
「関わらない、ですか……」
「意外とね、絶望的な状況の方が幸せだったりするんだよ。私も昔そうだったからね」
清美さんとの別れや霧人先生の死を経験した上での発言だったが、小霧くんはそれに意外な反応を見せた。
「……なんだか、柏先輩みたいな考えですね」
「柏先輩?」
「あ、すみません。柏恵美っていう学校の先輩がいるんですけど、その人も今の唐沢先生と同じような考えを持っていたので……」
「……か、しわ、えみ?」
いや、いくらなんでもそんなはずはない。そんなに珍しい名前じゃないし、単なる同姓同名の別人だろう。
そんな私の動揺に気づくはずもなく、小霧くんは話を続けた。
「正直、俺の中の常識というか価値観とは全く異なってる人で、不思議な人なんですよ。喋り方も妙に芝居がかっているんですけど、不思議と俺のじいさんに似た雰囲気があって……」
「なあ小霧くん、ひとつ聞きたいんだけどその人ってこんな口調だったりする?」
私はかつて霧人先生を指導した際の台本を引っ張り出してセリフを読んでみた。
『そうやって自分の考えを全て相手に伝えるのが君の甘いところだよ。少しは建前というものを身に着けたまえ』
すると小霧くんは目を丸くして頷いた。
「そ、そうです。まさにそんな感じです。え、なんでわかったんですか?」
「……君のおじいさんも、このような話し方だったからね」
「そうだったんですね……もしかして本当に、柏先輩ってじいさんと知り合いだったりして……?」
そこまで聞いた時、私の口は既に動いていた。
「小霧くん、その人の顔写真とかってある?」
「え? あ、はい。こんな人ですけど……」
携帯電話の画面に表示された少女の顔は、私がかつて交際していた女性に近いものだった。
「……そんな、そんなことって……」
間違いない、この子は清美さんの娘だ。
だけどどうしてだ? なんでよりによってこの子が、霧人先生を受け継いでいるかのような人間になってるんだ?
まさか本当に彼女は霧人先生の生まれ変わりだとでも言うのか? いや、そんなはずはない。彼女が生まれたのは霧人先生が亡くなるより前だ。霧人先生も生前、柏恵美について言及して……
『もしかしたら、私と彼女が交流すれば、お互いの足りないものを補えるのかもしれないね』
……まさか、本当に、そうなのか? そもそも霧人先生は、そのために亡くなったとでも言うのか?
一度心の中に芽生えてしまった疑念は、もう私の中から消えなくなった。
【2年前 9月29日 午後6時10分】
「……ああ、その通りだよ唐沢先生。親父は恵美の目の前で死んだんだ」
何か所もアザを作った顔でこちらを見上げる識霧くんは、観念したように言った。
「アンタを騙すつもりなんてなかった。親父のことを慕ってたアンタに、恵美を仇だなんて思ってほしくなかったんだ」
「それが霧人先生の死因を私に黙っていた理由かい?」
「それだけじゃない。親父の死は警察としても汚点だったんだ。県警の本部長だった恵美の父親と課長だった親父。その二人を殺したのが身内の警察官だったなんてのが大々的に世間に知られたら県警の信用に関わるからな。詳細は伏せる必要があったんだ」
「……柏恵美は、そんなに霧人先生に似てるのかな?」
「正直、俺もわからない。確かに親父に似た部分はあるが、まさか親父本人なはずもない。アンタだって親父が死んだことは受け入れているはずだろう?」
そう、私は受け入れたはずだった。霧人先生が死んだという『絶望』を受け入れたはずだった。
なのにその『絶望』に光が差してしまった。霧人先生は姿を変えて、まだこの世界にいるのではないかと。その『希望』が生まれてしまった。
知ってしまったらもう止められない。私はどうしても柏恵美に会って、その正体を見極めたい。彼女が本当に霧人先生本人なら、私は先生と話したい。
「唐沢先生、言っておくがバカなことは考えるなよ。もしアンタが恵美に何かしようってんなら、この場でアンタと刺し違えても止めるぞ」
識霧くんの目は本気だった。柏恵美の親代わりである彼からしたら、それは当然の感情なのだろう。
諦めるんだ。霧人先生はもう亡くなった。そんな『希望』なんてない。諦めるんだ。
だがこの出来事から一年半ほど経った時、識霧くんは義理の兄である萱愛陽泉を車で撥ねたという罪で逮捕され、私を止める人間はいなくなった。
【6月30日 午後4時01分】
そしてこの日、教え子である弓長波瑠樹の誘導により、ついに柏恵美を『スタジオ唐沢』に招くことに成功した。
私の教室に現れた柏恵美は確かに聞き覚えのある口調で、見覚えのある雰囲気で、私に自身の名を告げた。
「はじめまして。私の名前は柏恵美、おそらくは君の客人だ」
この時、確かに私は歓喜した。霧人先生がまた私の前に立ってくれているのだと、私のことを微かに覚えていてくれているのだと。また私は霧人先生に導いてもらえるのだと。そう思っていた。
だけどそれは間違いだとすぐに悟った。
事前に波瑠樹や小霧くんから得た情報、それに柏恵美本人との会話で悟った。この女は『自分が絶対に助からない状態で容赦なく殺される』という『自分自身の絶望』にしか興味がないと。誰かを救うことにも、誰かに『絶望』を与えることにも興味がなく、ただただ自分自身が『絶望』を貪りつくしたいという身勝手な欲望しか持っていないと。
それに柏恵美の隣にいるもう一人の少女、黛瑠璃子。彼女こそが柏恵美の支配者であり、『絶望』を与え続ける存在だとは聞いていた。なのにその女は『オーダー』を与えられた波瑠樹に簡単に惑わされ、『柏恵美を守り続ける』という自信を簡単に失うような女だった。
こんな女が与える『絶望』に満足し、自分一人だけが救われればいいと考える小娘が霧人先生なはずはない。霧人先生と同じ口調で、『絶望』を喜ぶ心を持っていたとしても、認められるはずがない。
【7月3日 午後1時52分】
「それとも君のことは“昔のように”『アキヒト』と呼んだ方がいいのかね?」
だが何より、何より我慢ならなかったのは、霧人先生のガワだけ真似た小娘が、よりにもよってその呼び名を知っていたことだ。
お前如きが立ち入るな。お前如きが私と霧人先生の関係に入り込むな。
たとえお前が霧人先生の記憶や心を本当に受け継いでいたとしても、“だからこそ”許すわけがない。
『絶望』こそが人を救うと考えていた霧人先生を、よりによってそんな中途半端な形でこの世界に留めたお前を許すわけがない。
だから私は、柏恵美を許せない。お前が最も苦しむ形で、相応しい『絶望』を与えてやる。
「その時は君の願いも叶えてあげるよ。君から霧人先生を解放して、本来の君に『絶対に死にたくない』と思わせた後でね」
お前が望む『容赦なく殺される』という願いは、その願いを失った後に達成させてやる。
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