柳端と閂先輩と別れた後、俺は陽泉さんと共に自宅に向かっていた。陽泉さんは歩きながら周りを見渡し、感慨に浸るように呟く。
「いやあ、この街並みも久しぶりだなあ。あ、あの百貨店まだあったんだね! 懐かしいなあ、あそこのフードコートでよく小霧くんとご飯食べたよね?」
「そうですね……」
「そうそう、小霧くんって椎茸嫌いなのに霧華さんに好き嫌いはダメだって強く言われてたから、泣きながら食べてたんだよなあ。昔から小霧くんは僕やお母さんの言うことをちゃんと聞く、いい子だったよね」
次々とその口から思い出が語られるが、俺の頭は校門の前で起こったことをまだ考えていた。
柳端は大丈夫だろうか。思い切り殴られて、鼻から血を流していた。意識はあったが、何か後遺症が残ったりしないだろうか。
いや、それ以上に閂先輩と柳端はまだ俺と関わろうとするだろう。特に閂先輩は、もしかしたら陽泉さんに明確な敵意を持ってしまったかもしれない。そうなると、先輩と陽泉さんがぶつかるのは目に見えている。
それはまずい。いくら閂先輩でも、陽泉さんをどうこうできるとは思えない。陽泉さんは俺の父親であり、そして……
「小霧くん? こーきーり、くん?」
「あ、は、はい!?」
閂先輩のことを考えていて、陽泉さんの呼びかけに気づくのが遅れたらしい。陽泉さんの大きな手が、俺の顔に触れる。
「どうしたの? もしかして、僕の話がつまらなかったかな? まあ、小霧くんも年頃の男の子だもんねえ。お父さんと仲良く話すって感じでもないかなあ」
寂しそうに顔を伏せて、自嘲するように笑うのを見て、俺も心が痛む。そうだ、陽泉さんは十年ぶりに俺と二人きりになれたんだ。それを忘れてはいけない。
だけど、だけど俺はどうしても考えてしまう。
「あの、陽泉さん」
「なんだい?」
「さっき俺といた友達の……柳端幸四郎っていうんですけど、彼について何か思うことってありますか?」
「え?」
俺の質問に対して、陽泉さんは目を丸くして、不思議そうな顔をした。
「なんでそんなこと聞くの?」
「あ、いや、俺の友達について……陽泉さんはどう考えてるのかなって……」
「うーん、そうだなあ。僕としてはねえ、さっきの男の子の方はちょっとやんちゃしてそうに見えたから、あんまり小霧くんと付き合って欲しくはないかなあ。髪の長い女の子の方は、ちょっとよくわからないかな」
「そうですか……」
「それにしても、よく考えたら意外だなあ。小霧くんのことだから、もっと優等生タイプの友達が多いと思ってたんだけど、あんなやんちゃそうな男の子とも付き合ったりするんだねえ」
「い、いや、柳端は、ああ見えて真面目なんですよ」
「あ、そうなの? なるほどなあ、やっぱり小霧くんはちゃんといい友達を持っているんだなあ」
嬉しそうに頷く陽泉さんだったが、俺が求めていた返答は出てこなかった。
「あの、陽泉さん、それだけ……ですか?」
「え、なにが?」
「あ、いや……なんでも、ないです」
俺は怖くてそれ以上聞けなかった。もしこれ以上追求したら、認めざるを得ないからだ。
――陽泉さんが、柳端を殴ったことに対して、何の罪の意識を感じていないことを。
しばらく歩いて、俺たちは自宅の前に着いた。7階建ての賃貸マンションの4階にある一室。それが俺の自宅だ。
そしてその自宅に今、陽泉さんが戻ってきた。
「……さて、いよいよか」
陽泉さんも、緊張した面持ちになる。今日は俺の母親、萱愛キリカは仕事を早上がりすると言っていた。今思えば、それは陽泉さんを出迎えるためだったのだろう。
「小霧くん、頼むよ」
「わかりました」
促されるままに、俺は自宅のチャイムを押す。呼び出し音が鳴った直後、中からドタドタと歩く音が近づいてきた。
扉が開けられると、中からふくよかな体型をした女性が――俺の母さんが現れ、俺と陽泉さんを見る。そして陽泉さんと目を合わせた直後、両目から涙を流した。
「ただいま、霧華さん」
「……陽泉さん!」
涙を流しながら、母さんは陽泉さんに抱きついた。一方の陽泉さんも、母さんをしっかりと抱きしめ、その胸で母さんの思いを受け止める。
「やっと、やっと帰って来れたよ、霧華さん。長い間、会えなくてごめんね」
「いいんですよ……あなたが、あなたが私たちを思ってくれてるのがわかってたから……」
母さんと陽泉さんは、マンションの廊下であるにも関わらず、二人して感情をむき出しにしていた。愛する二人が十年ぶりに触れあうことが出来たのだから、それは喜ばしいことなのは違いない。
そう、ここに俺たち一家がやっと再会できたのだ。喜ぶべきことのはずだ。以前の俺だったら……母さんの考えを盲信していた俺なら、無理矢理にでもそう思い込もうとしただろう。
だけど、今の俺は世の中の正義がひとつではないことを思い知っている。だからだろう。
今の俺は、陽泉さんに恐怖を抱いている自分をごまかすことはできなかった。
数分後、ひとしきり感情を出した母さんは落ち着きを取り戻し、俺を見て顔を赤らめた。
「ご、ごめんね、こーちゃん。お母さん、恥ずかしいところ見せちゃったわね」
「いや、いいよ。陽泉さんが、帰ってきたんだから仕方ないよ」
「こら、こーちゃん。『お父さん』、でしょ」
「いいんだよ、霧華さん。小霧くんだって久しぶりに僕と会うわけだからさ、まだ恥ずかしさがあるんだよ」
「あら、そうなのこーちゃん? それじゃダメよ。お父さんのことはちゃんと『お父さん』。お母さんのことはちゃんと『お母さん』って呼ぶものでしょ?」
「まあまあ霧華さん。とりあえず、中でゆっくり話そうよ」
「それもそうね。中でお茶でも飲みながら、久しぶりに一家団らんを楽しみましょうか」
母さんと共に、俺と陽泉さんは自宅に入る。
「母さん。とりあえず、荷物置いて着替えてくるよ」
「わかった。じゃあ終わったら、リビングに来てね」
「……うん」
母さんに断りを入れて、自室に入って椅子に腰掛ける。その瞬間、今までの疲れがどっと押し寄せた。
「陽泉さん……母さん……」
俺は先ほどのやり取りを思い出していた。陽泉さんは母さんのことを『霧華さん』と呼ぶ。夫が妻を名前で呼ぶのはなんら不思議なことではない。だけど母さんを知る人間からすれば、驚くべきことだ。
なぜなら、母さんは自分の名前を病的に嫌っているからだ。
萱愛キリカ――俺の母さんは高校の教師をしている。だが二年ほど前、なんらかのトラブルがあって、突然転任になったそうだ。
もちろん俺はそのトラブルの内容など知らされていないが、母さんが自分の名前を呼ばれるとヒステリーを起こしたかのように激しく怒ることを知っている。だからトラブルもそれに関係していることは想像できた。
母さんが名前を呼ばれると怒る理由は、おそらく母さんが自分の父親……斧寺霧人を激しく毛嫌いしていて、そしてその『霧』の字を受け継ぐ自分の名前のことも嫌いだからだろう。
だから母さんは、よほど公的な文章で無い限り、自分の名前を『萱愛キリカ』と表記し、職場でも自分のことを名字で呼ばせることを徹底している。俺も母さんのことを『母さん』と呼ぶように徹底的に指導された。
だけど陽泉さんだけは、母さんのことを名前で呼べる。それだけ母さんにとって陽泉さんは大きな存在なのかもしれない。俺に『小霧』と名付けたのも陽泉さんの発案らしい。そうでなれけば、母さんが息子の名前に大嫌いな『霧』の字を付けるわけがない。
だけどやはり母さんとしては俺のことを『小霧』と呼びたくはないようで、一貫して『こーちゃん』と呼んでいた。そのことに少し寂しさを感じながらも、俺はこれからのことを考えなければならなかった。
萱愛陽泉。俺の父親が、これからどう動くか。
先ほどの柳端とのやり取りを見ても、これまで通りの付き合いを柳端や閂先輩と続けるのは危険すぎる。それに……陽泉さんの『過去』を知ったら、柏先輩がどう動くかわからない。
識霧さんには陽泉さんの存在を徹底的に隠すようにはお願いしたが、何らかの偶然で柏先輩と陽泉さんが出会ってしまうかもしれない。そうなればあの柏先輩のことだ。おそらくは……
「こーちゃん、まだお着替え時間かかるの? そろそろご飯にするわよ」
「あ、うん、今行くよ」
母さんが俺を呼ぶ声に従い、リビングに向かうことにした。
「いやあ、久しぶりに霧華さんの手料理が食べられるんだなあ。こんなに嬉しいことがあるだろうか」
「ふふ、たくさん食べてね」
陽泉さんは顔をほころばせながら、母さんと仲むつまじく話す。その光景を見れば、誰もがこの空間を幸せな家族団らんの場だと感じるだろう。
だけど俺の心は、未だに陽泉さんへの恐怖を拭えずにいた。それでもいずれその恐怖を克服しなければならない。
「小霧くん、じゃ、僕たちの再会を祝って乾杯しようか」
「は、はい」
「僕たちの、家族の幸せを願って、乾杯!」
なぜなら、陽泉さんが俺の父親であるという事実はどうあっても覆せないのだ。
たとえこの人が――
12年前に人を殺して、刑務所に服役していた、殺人犯だとしても。
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