「小霧くん! やっと、やっと会えたね!!」
「陽泉さん……」
俺たちの前に現れた男は、萱愛の右手を両手で握り、歓喜の声を上げている。その両目からは涙を流し、感極まったといった様子で頭を下げて、萱愛の手を自分の額に当てた。
「良かった……もう一度、小霧くんにこうして触れることができた……本当に良かった……」
「……やっぱり、帰ってきてたんですね」
「ああ。本当ならもっと早く君と霧華さんに会いたかったんだけどね。すぐに戻ったら迷惑がかかるかもしれないってことで、一年ほど借りたアパートに住んでたんだ」
陽泉と呼ばれた男は萱愛の手から両手を離し、涙を拭う。そして今度は萱愛の顔に触れた。
「こんなに……こんなに大きくなって。ごめんね、長いこと君を放っておいて、本当にごめんね。でも大丈夫。もう二度と僕は小霧くんから離れたりしないよ」
「は、はい……」
感情を露にしている陽泉に対し、萱愛の表情は尚も恐怖に歪んでいる。その様子が、この二人の再会が決してお互いに望ましいものではないということを表していた。
「ひひ、少しよろしいでしょうか」
だが閂は、いつもの調子で陽泉に話しかけた。
この様子を見ても、怖気づくことなく入っていくのが閂香奈芽という女だ。
「おや、なんだい? 君は……見たところ、小霧くんの学校の生徒ではないみたいだけど」
「ひひひ、申し遅れました。私、閂香奈芽と申します。M高校の卒業生でございまして、今日はこちらの萱愛氏と柳端氏に会いに来たのでございます……」
そう言うと、両手でスカートの端を摘んで頭を下げる。この挨拶にも、もう慣れてしまった。
「ああ、そうか! 君たちは小霧くんのお友達かぁ! ごめんごめん。久しぶりに小霧くんに会えたと思ったら、君たちのこと、見えてなくって。ごめんね、小霧くんと話してたんだよね」
うっかりしていたとでも言いたそうに頭を掻き、俺たちに謝ってくる。だがそれでも、陽泉は萱愛の傍を離れようとはしなかった。
「でもさ、申し訳ないんだけど、今日はちょっと帰ってくれるかな? なにせこうして小霧くんと直に話すのは十年ぶりくらいなんだ。君たちはこれまでたくさん、小霧くんとの時間を過ごしたんだろう? だから今日は僕に譲ってくれないかな?」
「……ひひひ、そう言われて萱愛氏をあなたに引き渡すというのも、難しい相談でございますね」
「え、なんで?」
本当になぜかわからないといった顔をしている陽泉に、俺も口を出した。
「わかんねえのかおっさん? どこの誰とも知らない大人から、黙って萱愛を置いて帰れって言われても、出来るわけねえって言ってるんだよそいつは」
「ひひ、要約すれば、柳端氏のおっしゃった通りでございます……」
俺と閂は萱愛と陽泉の間に入り、萱愛をかばうように立つ。だがその時、後ろから予想外の言葉が投げつけられた。
「や、柳端。それに閂先輩。こ、この場は、帰ってくれないか?」
後ろを見ると、震えた声で俺たちに話しかけた萱愛は、まるで縋るような目をして俺の肩に手を置いていた。
だが、そう言われて素直に帰れるほど、この状況はまともとは思えない。
「帰れと言われても、そんな震えてるお前を置いて帰れるわけねえだろ! 第一、こいつはなんなんだよ!?」
「こ、この人は……」
「あー! そうかそうか、そうだよね、どこの誰とも知らないおっさんに、いきなり小霧くんを渡してくれと言われても受け入れられるわけないよね。そうだったそうだった」
陽泉は合点がいったという具合に手を叩き、数回頷く。そして俺たちに微笑みかけた。
「心配いらないよ。なにせ僕は、『愛の泉』って呼ばれてる男なんだ」
「愛の、泉?」
「ほら、ここに書かれている名前に『愛』も『泉』も入っているだろ?」
陽泉は俺に免許証を差し出す、それには――
名前の欄に、『萱愛陽泉』と書かれていた。
「……は?」
カヤマナ、ヨウゼン?
俺は、生まれてからこの日まで、萱愛という苗字の人間には一人しか出会っていない。言うまでもなく、その一人とは俺の後ろにいる萱愛小霧のことだ。
だが今、目の前にもう一人の萱愛姓が現れた。年齢からしても、考えられるのはひとつだけだ。
「僕は妻と息子を、この世の誰よりも愛しているんだ。そんな僕が、愛する息子に危害を加えるなんてことはないよ。そうだよねえ、小霧くん?」
「……はい」
陽泉の言葉に、萱愛は小さく頷きながら答える。
「おい、本当なのか?」
「……」
「本当にこいつが、お前の父親なのか、萱愛!」
「……」
普段であれば、俺も素直にその事実を受け入れたかもしれない。
だが現状、萱愛は陽泉に対して恐怖を抱いている。そんな親子が、真っ当な関係だとは思えない。
しかし萱愛は、答えた。
「柳端、陽泉さんの言っていることは本当だ」
「なんだと?」
「萱愛陽泉は……俺の父親だ」
無表情で言い放った萱愛に対し、俺も閂も動けずにいる。そんな中で陽泉だけが能天気な声を出した。
「嬉しいなあ、こんな僕でも、小霧くんにはちゃんと父親だって認められてるんだなあ。今日は記念すべき日だ。じゃ、そういうことだから」
そう言って、陽泉は右手で萱愛の腕を掴み、連れ去ろうとする。
それを見て、俺は思わず陽泉に掴みかかる。
「おい待て! まだ話は……」
――次の瞬間。
俺の体は地面に激突していた。
「……え?」
状況に頭が追いついていない。なぜ俺は倒れている? 地面に叩きつけられた体が痛い。それ以上に、顔の左側が痛い。
顔に手を当てると、痛みを感じる箇所が熱を帯びている。それに、指に血が付いている。鼻から出た血が、俺の指に付いている。
ここまで事実が揃って、俺はようやく『殴られた』と自覚した。
「……あれえ? おかしいな」
体を起こすと、俺を殴ったであろう陽泉は不思議そうな顔をしている。何かを考え込むように、頭に指を当てている。
「おかしいな、これは。僕は君たちに自分が小霧くんの父親だって伝えたんだけどな。それなのになんで君たちは僕と小霧くんが一緒に帰るのを止めようとするんだろう」
一部始終を見ていた閂が、左目を細めて警戒している。だが陽泉は閂に向き直った。
「もしかして君たちは、小霧くんのお友達なのに悪い子たちなのかな? 僕たちの家族団らんを邪魔しようとする悪い子たちなのかな?」
陽泉は閂の前に立つが、その目はまるで閂を見ていない。
「それは困るなあ。小霧くんの周りに悪い子たちがいるのは本当に困るんだ。だって僕は、霧華さんと小霧くんの幸せを心から願っているんだからねえ」
そして陽泉が、閂に対してもその拳を振り上げる。それを見た閂が、鞄から何かを取り出そうとした時だった。
「待ってください!」
一触即発の状況だったが、寸前で萱愛は陽泉の腕にすがり付いた。
「大丈夫ですから! 閂先輩も、柳端も、陽泉さんが心配するような悪い人じゃないです! 大丈夫です!」
「んー? でも彼らは、僕が小霧くんの父親だと知っているのに、僕から小霧くんを引き離そうとしたよね? それはおかしいんじゃないかなあ」
「大丈夫です! や、柳端も、閂先輩も、俺のことを心から心配しているだけなんです! だから、だからこれ以上は……」
萱愛のすがり付くような説得を受け、ようやく陽泉は振り上げた腕を下げた。
「うん、そうかそうか。小霧くんがそう言うなら、僕も安心したよ。そうだよねえ、小霧くんが悪い子と付き合うわけないもんねえ」
「は、はい……」
陽泉は萱愛の頭を撫でるが、撫でられている本人はまだ体を震わせていた。
「でもまあ、今日のところは小霧くんは僕と一緒に帰るから。わかってくれるね?」
そう言って、倒れている俺を見下ろしてくる。当然のことながら、そんなことを受け入れられるわけがなかった。
「ふざけんな……てめえみたいな危ないヤツに萱愛を……」
「柳端!」
だが俺の言葉は、萱愛に遮られた。
「頼む……今日のところは引き下がってくれ……お願いだ。その傷の治療費も払う。だから、だから警察沙汰にはしないでくれ……そうでないと……」
萱愛は泣きそうな顔で俺に懇願してくる。俺はその言葉の後に何が続くのかを悟った。
『そうでないと、陽泉さんはお前の存在を許さない』
萱愛の意図を閂も察した様子だった。その証拠に、ヤツも引き下がる。
「承知しました……ですが萱愛氏。必ず明日も学校に来ると約束していただきたいですね」
「大丈夫だよ、小霧くんが高校を卒業できるように、僕がちゃんと学校に行かせるから。なにせ僕は『愛の泉』、萱愛陽泉だからねえ」
「あなたには聞いていませんが?」
「小霧くんの問題は、僕の問題なんだよねえ」
そう言って、陽泉は萱愛を引き連れて帰っていった。
俺は痛感した。萱愛に迫っている危険、それが萱愛陽泉。
間違いなく、ヤツがいる限り、萱愛に平穏は訪れない。
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