「うん、うん、こっちは予定通り進んでる。そっちは、お姉ちゃんとは会えたの? そう。じゃあ頼んだよ」
アタシの横で空木晴天に連絡を入れていた朝飛嬢は、電話を切った後にこちらを向いた。
「沢渡さん。晴天さんはお姉ちゃんたちと会ってるみたい。こっちはとりあえず黛さんをあの場所に案内しようか」
「あいよ。おーい、まゆ嬢。行くよー」
アタシが呼びかけると、まゆ嬢――黛瑠璃子は無言で立ち上がり、こちらに従う。特に文句を言うわけでも、皮肉を言うわけでもない。ま、仕方ないか。
「それで、朝飛嬢? 晴天はなんて言ってたんだい?」
「うん。お姉ちゃんたちに私たちの目的を伝えるって。まあ、私たちというより晴天さんの目的なんだけど」
「ヒャハハ、アンタはそれでいいのかい? 晴天の目的とアンタの目的……ちょっと違うんじゃないのかい?」
「確かにね。でも、今はそれでいいよ。晴天さんがどういうつもりでいようと……」
朝飛嬢の体から、冷たい空気が流れる。
「最終的に願いを叶えるのは、私だから」
それを見たアタシの中に、確かな高揚感が湧きあがった。
楽しい。今、この空間に身を置いていることが、ものすごく楽しい。朝飛嬢は別に晴天を敵視しているわけじゃない。それどころか、自分の願望――朝飛嬢は『夜』と呼んでいた――を叶える手助けをしている晴天にはむしろ感謝しているかもしれない。
だけど仮に晴天が自分の邪魔をしようものなら、恩人だろうが恋人だろうが関係ない。一瞬でその命を奪う決断を下すんだろう。朝飛嬢はそれができる。
このアタシに対してもそうだ。今は協力関係にあるけど、アタシが朝飛嬢の敵に回った瞬間、この命は無くなるかもしれない。
だけどそれがたまらなく楽しい。こんな時間を過ごせることがたまらなく嬉しい。『生きていてよかった』と、心から思える。
後のことなんて関係ない。アタシが死ぬかもしれないなんて心配はしなくていい。むしろこんな楽しい人間とはもっと早く出会いたかったとすら思う。
朝飛嬢は黙ってアタシの横に立つまゆ嬢に後ろから腕を回し、その体を抱くように密着する。
「黛さん。あなたのお友達……柏恵美さんだっけ? さっき会ったけど、とてもいい子だね。うん、とてもいい子。とても私にとって都合のいい子」
その言葉に対してまゆ嬢はピクリと反応するけど、特に抵抗はしなかった。
「あんなにか弱そうな子は初めて見たよ。すごいね。私も職場で小さい子供と大勢接してきたけどさ、その子たちよりも簡単に死んじゃいそうだよね。目を離したら、すぐに死んじゃいそう」
そう語る朝飛嬢は、無邪気そうに、そしてどこか妖しい笑顔を浮かべていた。
アタシと出会ってからも朝飛嬢は何回かこの笑顔を浮かべていたけど、その度に思うことがある。
棗朝飛という女は、他人を『殺せるか、殺せないか』でしか見ていない。
「ああ、柏恵美さんかぁ。放っておいたら死んじゃうんだろうね。あんなに私に都合のいい子が死んじゃうなんてもったいないなあ。どうせだったらあの子で私の願いを叶えたいなあ」
うっとりとした顔でそう語る朝飛嬢に対して、まゆ嬢の体の震えが大きくなる。しかしそれでも、まゆ嬢が言葉を発することはない。
「うん、わかってるよ。それは我慢する。だって約束だもんね? 黛さん」
そして朝飛嬢はまゆ嬢から離れて、アタシに向き直った。
「じゃあ、行こうか。あんまり晴天さんを待たせても悪いし」
「ヒャハハ、了解」
アタシと朝飛嬢でまゆ嬢を挟み込むように歩く。アタシたちは特にまゆ嬢を拘束してるわけじゃないから、周りから見ても特に怪しいところはないだろう。
さて、ここからはもっと面白くなりそうだ。今頃、晴天はリーダー……空木曇天と棗夕飛に取引を持ち掛けてるんだろう。最終的に自分の願いを叶えるのは恵美嬢か朝飛嬢か、それとも晴天か。
どちらにしても、アタシが楽しいことには変わりない。
そう考えてみると、晴天の話に乗って、朝飛嬢とコンタクトを取って本当によかった。
※※※
晴天から受け取った名刺に書かれていた名前……棗朝飛。
おそらくは、棗のボウヤの親族なんだろう。晴天がなんでこんなヤツと知り合いなのかはどうでもいい。重要なのはコイツがアタシを楽しませてくれるかどうかだ。
『……もしもし、棗ですが』
通話口から聞こえてきたのは、若い女の声だった。名刺には『保育士』と書いてあったから、そこは特に意外なことでもない。
「もしもーし、アンタは棗朝飛サンでよろしいですかー?」
『そうですけど。あの、どちら様でしょうか?』
「アタシは沢渡生花っていいます。空木晴天からアンタのことを紹介されたんだけど、話はいってるのかい?」
いつのまにか敬語がなくなってしまったけど、ま、いいか。
さて、棗朝飛サンとやらは晴天の名前を出して、どういう反応をするかな。
『……晴天さんが言ってた、私の願いを叶えてくれる人というのは、あなたなの?』
「アンタの願い?」
『うん、私の『夜』を解放したいっていう願い』
……『夜』と来たかい。おそらくは、その『夜』と呼んでるものが、棗朝飛の欲望なんだろう。
そして同時に『夜』とやらは、この社会において到底持つことが許されないものであることを、直感した。
「ヒャハハ、ま、電話じゃ詳しいことまでは話せないだろうさ。どうだい、今度アタシと直接会っちゃくれないかい?」
『いいよ。晴天さんの知り合いなら、会ってあげる。その代わり……』
「なんだい?」
『私を止めるようなことは、言わないでよ?』
電話越しでもわかった。この女は自分の欲望を抑えられることをひどく嫌っている。
……いいじゃないか。仮にアタシがこの女に殺されるのだとしても、そんな終わりも悪くない。
数日後。
アタシは棗朝飛との約束通り、街中にある喫茶店に来ていた。全国にチェーン展開されている、特に空いても混んでもいない、普通の店だ。
向こうが指定してきた午後一時に、アタシは店の奥にある席でアイスコーヒーを啜っていた。よく意外だと言われるが、アタシは時間はきっちり守る女だ。時間通りに行動しなかったことで『絶頂期』を逃すことは避けたい。
「こんにちは。あなたが沢渡生花さん?」
顔を上げると、そこにいたのは10代半ばと見間違えそうな童顔の女だった。身長も見たところアタシと大差ない。服装が割と落ち着いた色合いなので、遊びたい盛りの子供とは違うと認識できたけど、それでも制服を着れば高校に入学したてだと言っても通るだろう。
そして何より特徴的なのは、こちらを安心させるような穏やかな表情だった。アタシはこの表情に見覚えがある。
そう、あの棗香車のボウヤだ。目の前にいる女はあのボウヤに似ている。似すぎている。
「ヒャハハ、はじめまして。アタシが沢渡生花ですよ。そういうアンタは、棗朝飛でいいのかい?」
「うん、そう。それにしてもなんか意外だね。晴天さんの知り合いっていうから、もっと年上の人を紹介されるんだと思ってたけど、若い子だったんだね」
「それを言うなら、アタシの方も同じ気持ちさね。まあ座りなよ、じっくり話をしようじゃないか」
「じゃあ、遠慮なく」
棗朝飛は……朝飛嬢はアタシの向かいに座り、店員にアイスカフェオレを注文した。
「改めまして、私は棗朝飛っていいます。普段は保育士をしています」
「あー、そうだ。晴天から名刺を受け取った時から思ってたことなんだけどさ、アンタはなんで保育士になったんだい?」
アタシの質問に対して、朝飛嬢は少し間を置いて答えた。
「お姉ちゃんに……私の姉にね、勧められたの。『アンタは自分より弱い人間と関わっていた方がいい』って」
「アンタの姉貴かい?」
「姉は、私が自分の中にある『夜』を上手くコントロールすることを望んでいると思ってたの。私も他になりたい職業があるわけじゃなかったから、その提案を受け入れたの」
「だけどさ、保育士ってのは世話してるガキに傷一つ付けないように神経を尖らせなきゃいけない仕事じゃないのかい? そんな仕事をしてたら、『夜』を解放したいって望んでるアンタにとっちゃ、むしろストレスにならないかい?」
「そんなことないよ。今の仕事はすごく気に入ってる。お姉ちゃん……姉に感謝したいくらいに」
朝飛嬢が微笑みを浮かべる横で、若い女の店員がアイスカフェオレを持ってきた。
「アイスカフェオレをご注文のお客様は……」
「はい、私です」
朝飛嬢に促される形で注文の品をテーブルに置いた店員の動きが、朝飛嬢の顔を見て突如止まった。
「あの、何か?」
「あ、ああ、すみません。その、すごく優しそうな人だなって思って、見とれちゃいました」
「ふふ、職場でもよく言われます。『あなたになら安心して子供を任せられる』って」
「そうなんですね! 私もなんか、直感で信頼できる人だなあって思いました! あ、すみません……突然変なこと言っちゃって」
「いいえ、気にしないで。お仕事頑張ってね」
「あ、ありがとうございます。失礼します」
店員は顔を赤くしながら一礼して仕事に戻った。
「随分と優しいんだね。仕事の時もそうなのかい?」
「うん、そうだよ。さっき『ストレスが溜まらないのか』って言ってたけど、全然そんなことないもの。だってさ」
朝飛嬢はまだ、店員の心を開いた微笑みを浮かべている。
「その気になればいつでもめちゃくちゃにできる存在に囲まれてるって、すごく幸せなことでしょ?」
――不思議な気分だった。
今、目の前にいるこの女は、保育士としては絶対に言ってはいけないであろうセリフを言っている。そんなことはアタシにだっていくらなんでもわかる。
しかしそれでも、棗朝飛の顔はアタシに安心感を与える。さっきの店員のように、心を許してしまいそうになる。
それが棗朝飛の恐ろしさだ。相手の心を開かせることに長けているのに、本人の心の奥では『夜』を解放させたいと願っている。
もし、この女が本気で『夜』を解放させたいと思った時……
それを止められる人間なんて、誰もいないんだろう。
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