恵美と暮らすようになって、六年の月日が経った。
血縁関係のない俺が恵美を引き取るには膨大な手続きが必要だったが。恵美には両親どころか親戚すらいなかったことから、彼女の後見人になることには特に障害はなかった。
そして俺は恵美の自宅に引っ越し、彼女と一緒に住むことになったが、恵美は言動だけじゃなく行動も大人びていた。
「斧寺くん。前にも言ったが、洗濯物はすぐに干してくれないかね? 濡れたままだと雑菌が増えてしまうよ」
「あ、ああ、すまん」
「それと、掃除をする時は高いところの埃から取り除いてくれたまえ。床に落ちた埃をまた掃除することになってしまう」
「お、おう。わかった」
俺は以前から家事というものがものすごく苦手であり、ことあるごとに恵美に小言を言われていた。ガサツすぎるのは自覚していたが、小学生の女の子に小言を言われる自分が情けなく思えた。
しかし、不思議と悪い気はしなかった。恵美が俺を保護者として認めてくれているのかはわからなかったが、俺は恵美を本当の娘のように愛することができた。実家にいる時は親父と姉の険悪な雰囲気のせいで心が休まる時がなかったから、初めて家族と過ごす安らぎを得たと感じた。
もちろん、この安らぎを得るまでは平坦な道のりじゃなかった。いくら親父が命がけで守った子供という経緯があるとはいえ、恵美を引き取った当時は近所の人間や同僚の警察官たちからも、いかがわしい目的なのではないかと白い目で見られていた。
さらには四年前に義兄である陽泉が過剰防衛で人を殺めてしまい、身内に犯罪者が出てしまったという理由で俺は警察官を退職せざるを得なくなった。
幸いにもすぐに警備会社での仕事が見つかり、収入は大きく落ち込むことはなかったが、失職した当時は恵美にも苦労をかけてしまった。
しかしそれでも恵美は、俺に対して嫌悪の感情を向けることはなかった。いや、俺にだけじゃない。恵美は誰に対しても、怒りや憎しみ、嫌悪といった感情を向けなかった。
以前、俺は三者面談で学校に出向いたことがあった。恵美は俺の横で大人しく座っていて、向かいに座っていた中年の女性教師はニコニコと笑いながらこう言った。
「恵美ちゃんは誰ともケンカせずに、いい子に過ごしていますよ」
教師は心底喜ばしいといった様子でそう言っていたが、当の俺はどうしても不自然さを拭えなかった。
俺もそうだったが、子供というものはもっと感情のコントロールが出来ないものなんじゃないだろうか。恵美のように誰も嫌わず、誰とも衝突しない子供が正常な状態と言えるのだろうか。
だから俺は、念押しするように質問してしまった。
「あの、恵美はクラスでどんな調子なんですか? 何かを我慢しているとか、言いたいことをはっきり言ってないとか、そういう様子はありませんでしたか?」
「いえ、全くありませんよ。本当に、手のかからなくていい子です」
『手のかからなくていい子』。おそらくは、この教師にとって大事なところはそこなんだろう。恵美が大人しくしていれば、自分の評価が下がらなくて済む。この人が恵美のことをちゃんと見ているとは思えなかった。
三者面談が終わった後、俺は恵美に問いかけた。
「なあ、恵美。何か気に食わないことや、嫌なことがあったら俺に言ってくれ。俺はお前の世話をするって決めたんだから、遠慮なく言ってくれていいんだぞ」
「ふむ、君に心配をかけてしまったようだね。だが、私は特に遠慮しているつもりはないよ。今の生活に満足をしているとは言い難いが、不満もない。私は私の望む『絶望』を求めて、日々生きている。文句を言うつもりはないよ」
「……そうか」
恵美のその発言が、逆に俺を不安にさせた。こいつにとって、ただの保護者にすぎないのかもしれないが、それは仕方ない。だが俺は、恵美を本当の娘として育てているつもりだ。そんな俺が、娘の感情を読むこともできずにこのまま大人になるのを見届けるだけでいいのか。そんな不安があった。
この六年、俺はまだ恵美の望む『絶望』とやらを理解できていない。もしかしたら一生理解できないのかもしれない。だとしても、恵美が自分の望みを抑えて生きている状態が望ましいとは思えなかった。
そんなある日、恵美に言われて部屋の掃除をしていた俺の目にあるものが飛び込んできた。
「あれ、こんな名刺もらってたかな?」
机の奥底に無造作にしまわれていた名刺を見ると、そこには『空木晴天』という名前と連絡先が書かれていた。そういえば、恵美と初めて会った時に不思議な医大生と話をした気がする。
そうだ、あの空木という男は言っていた。
『もしあなたがあの子を引き取るなら、ボクが全面的に援助しますよ』
なぜあの男があそこまで恵美にこだわっていたのかはわからない。それに、今は何をしているかなんてわかりようもない。
だが俺は気になった。もし、空木が今もあの時の言葉を覚えていたのだとしたら。恵美のことを覚えていたのだとしたら。
医者として、恵美の状態をどう判断するのだろうか。
気が付くと、名刺に書かれた番号を携帯電話にダイヤルしていた。数回の呼び出し音の後に、明るい男の声が聞こえてきた。
『もーしもし、空木です』
「お忙しいところ失礼します。私、斧寺識霧という者ですが、覚えていらっしゃいますか?」
『あーあーあー、斧寺さんですか! もちろん覚えていますよ。ご連絡をお待ちしてました』
「え、待っていた?」
『そーうですよ。柏恵美さんのことでご連絡してくれたんでしょう?』
「……!!」
まさか、こいつは六年もの間、ずっと待っていたというのか。俺が恵美の精神状態を把握できずに、藁にもすがる思いで連絡してくるのを。
『そーれでですね。ボクも念願叶って精神科の医者になれましてね。『神栖記念病院』に勤務しているんですよ』
「神栖記念病院……私の家からそこまで遠くないですね」
『あーあーあー、でしたらボクもあの子に一度お会いしてみたいですねー。あの子の状態はどうですか? ちゃんと『希望』を持って満足に生きていますか?』
「……そうは言い難いですね。なにせ、あの子が何を考えているのか全然わからないですから」
『そーれでしたら、一度診療に来ていただけますか? この電話で予約したことにしますから』
「お願いします」
空木晴天。こいつが何を考えて、恵美にこだわっているのかはわからない。
しかし、今の俺には他に選択肢はない。恵美のことを理解して、幸せな人生を歩ませてくれるなら、誰にだって助けを求めてやる。
一か月後。俺は恵美と共に神栖記念病院を訪れていた。
「おやおや、久しぶりに斧寺くんが私を連れ出したと思えば、病院とはね。そんなに私が心配なのかね?」
「ああ、心配だ。俺はお前の父親代わりなわけだからな」
「くふふ、君の心配も理解できないこともないがね。大方、私が何も悩まずに成長していくことに不安を覚えたのだろう?」
「そこまでわかっているなら、もっと俺に頼ってほしいもんだかな」
「頼ってはいるよ。君がいなければ、私は日々の食事にも困るのだからね」
そう言いながらも、恵美は今まで俺に悩みを打ち明けたことはない。もしかしたら本当に何も悩んでいないのかもしれないし、誰とも衝突せずに今まで生きていたのかもしれない。
だけどそれが健全な状態とは思えない。恵美の精神状態を見極めるためにも、今回の通院は必要なことのはずだ。
手続きが終わり、俺は恵美と共に診察室に入る。
「あーあーあー、斧寺さんですね。お久しぶりです」
そこには六年前と同じ、爽やかな笑顔を浮かべた男、空木晴天が座っていた。
「お久しぶりです、空木さん」
「あー、敬語じゃなくていいですよ。ボク、年上に敬語使われるの苦手なんで。よかったら晴天くんって呼んでください」
「……そうか。じゃあ晴天くん。この子があの時の子だ。恵美、挨拶しなさい」
挨拶を促したが、恵美は黙ったままだった。
「……恵美?」
なんだ? 恵美は初対面の人間に挨拶をしないような子じゃない。どんな相手に対しても、挨拶はちゃんとする方だ。
だが、今の恵美は晴天くんを見ながら黙っている。いや、よく見ると……
「斧寺くん。君は私をこんな男に会わせるためにここに連れてきたのかね?」
恵美は、明らかな苛立ちの表情を浮かべていた。
「あーあーあー、もしかして嫌われちゃったかな? まあ、お医者さんって結構嫌われることあるから、大丈夫ですよ」
晴天くんは恵美に睨まれながらも平然としていたが、俺はやはりここに来てよかったのだと思った。
初めて見る、恵美の怒りの感情。おそらく晴天くんなら、恵美の隠された感情を俺に教えてくれるかもしれなかった。
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