「センパイ! 黛センパイ! 聞こえてますか!?」
ベッドに横たわる黛センパイに必死に呼びかけても、こちらに返答がない。脈もあるし呼吸もしているのに、目を閉じたままだ。ただ眠っているだけだとしても、ここでセンパイの意識が戻らないとまずい。私たちがいるのは敵のアジトの中なんだ。センパイを連れ出して脱出できなければ、私たちの勝利はない。
「樫添くん! ルリはまだ目を覚まさないのか!?」
柏ちゃんには部屋の入口に立って、沢渡たちがこちらに戻ってこないか見てもらっている。だけど長くは時間をかけていられない。そもそも朝飛が柏ちゃんに出会ったらアウトなんだ。
そんな私の焦りをよそに、どんなに声をかけても、顔を叩いたりしてみても、センパイがこちらに返答してくることはなかった。
「ダメ! 全然起きない!」
どうする、どうする、どうする!?
頭を働かせようにも、恐怖と焦りが私の思考を埋め尽くしていく。この部屋のすぐ横にあの女が、棗朝飛がいる。獲物に一切の情けも容赦もない、『狩る側の存在』がいる。その事実が私の体に恐怖となってのしかかり、正常な動きが出来なくなる。
ここで失敗すれば黛センパイだけでなく、私も死ぬ。生き返ることなんてない。人は死んだら生き返れない。そんな当たり前な事実は知っていたけど、理解してはいなかったことに今さら気づいた。
今すぐここから逃げ出してしまいたい。黛センパイも、柏ちゃんも柳端も見捨てて逃げ出せたら私一人は助かるかもしれない。そ「んな最低な考えすら、今のこの瞬間では最善手として扱いそうだ。
「樫添くん!」
だけどそんな最低な女を、柏ちゃんは見捨てなかった。
「どうやら、ルリをすぐに起こすのは難しいようだね」
その言葉で私の考えが整理され始める。そう、黛センパイの意識をこの場で取り戻すのは難しい。だったらまずは私たちだけでも別荘を出て、そこから警察に通報すればいい。どちらにしろ、センパイはまだ生きているんだ。空木晴天に他に仲間がいないのであれば、沢渡と朝飛さえ押さえれば助けられる。
「柏ちゃん、一旦ここを出るよ! 柳端たちと合流して!」
「いや、残念ながらそうはいかないようだ」
「え?」
「柳端くんに何かあったようだ。このままいくと、ルリだけでなく、柳端くんも危ない」
「そんな!?」
柳端が朝飛と対峙しているのだとしたら、確かにアイツの身も危ない。この部屋に立てこもって警察に電話ができたとしても、柳端を助けられないかもしれない。
「う、ん……?」
その時、下から小さな声が聞こえた。
「!! センパイ! 目が覚めましたか!?」
「……あ、あ……」
「私です! 樫添です! 聞こえますか!?」
「かし、ぞえ……さん……」
よし、こっちの声は聞こえてる。まだ意識はハッキリしてなさそうだけど、助け出せる。
「柏ちゃん! 黛センパイが……あれ?」
部屋の入口にいたはずの柏ちゃんの姿がない。まさか、何かあった!?
廊下に出て様子を見ると、柏ちゃんは部屋を出てすぐの位置にいた。
そして彼女と対峙しているのは、昼間に会ったあの女……棗朝飛。
「残念だが、タイムアップだ。柳端くんから離れてもらえるかな?」
柏ちゃんの発言で、朝飛の背後に苦悶の表情を浮かべた柳端が倒れていることにようやく気付いた。
「やな……」
「来てくれたんだ、柏さん。やっぱりあなたも素敵な子だね」
思わず駆け寄ろうとした私の動きが、朝飛の微笑みを見たことで止まってしまう。
なに、これ? すごく、心地いい。というか、この人が本当に柳端を傷つけたんだろうか。なぜかそんな疑問が浮かんでくる。
いや、気を許してはダメだ。アイツの顔は棗香車に似ている。アイツもあの顔で、柏ちゃんと黛センパイを容赦なく殺そうとした。顔の優しさと、内に秘めた残酷さは関係ない。
「『狩る側の存在』としての技能は備えているようだね、棗朝飛」
一方で柏ちゃんは動じていなかった。また朝飛と顔を合わせれば、自分の願望に引っ張られてしまうかと思ったけど、今はきちんと朝飛と向き合っている。
「あれ、柏さんはお気に召さないんだね。私の笑顔。これやると、職場の子供もその親御さんも、みんな私に心を開いてくれるんだけど」
「そうだろうね。あなたのやり方は香車くんにとてもよく似ている。それだけに残念だ。あなたの殺意が私に向かないということが」
「ああ、そっか。柏さんが好きなのって、こっちだよね」
その言葉の直後。
「あ……」
朝飛の手が、あまりにも自然に、柏ちゃんの首をいつのまにか掴んでいた。
「柏ちゃん!」
「邪魔するの?」
「っ!!」
朝飛は今、私を横目でチラリと見ただけだ。だけどそれだけで、それだけで私の頭に膨大な情報が割り込んできた。
『もう一歩踏み込んだら、先にお前から殺す』
一瞬で私はその意思を理解させられた。ハッタリじゃない。脅しでもない。単なる事実。
『邪魔をしないなら殺さないでおいてやる』という朝飛の考えを示したに過ぎない。私が抵抗するとか、助けを呼ぶとか、そういう可能性を全て織り込んだうえで、尚も朝飛は『もう一歩踏み込んだ』私を確実に殺す意思を見せている。そして私はどうあがいても殺されるという未来を突き付けられている。
ダメだ。これ以上は行けない。敵うわけがない。こんなヤツに。
「……ああ、心地いい……」
動きを止めた私に対して、柏ちゃんは恍惚の笑顔を浮かべていた。今、朝飛の殺意を真っ向から受けているのは彼女だ。ほんの少し向けられただけで私の体を縛り付けたそれを受けて、柏ちゃんはまるで快楽を貪るかのように体を震わせている。
「うん。やっぱりいい子だね柏さんは。私にとって、本当に都合のいい子。すごいなあ。こんな子がいたんだなあ。香車くんが夢中になるのわかるなあ」
「……あなたは、私を殺すのかね?」
「そうしたいんだけどね。晴天さんはそれを望んでないのと、今の私のお目当ては黛さんなんだよ。だから、今日は……黙っていてくれる?」
「なぜ、私じゃない? ルリよりも、私の方が殺しやすいだろう?」
「うーん、それがそうでもないんだよね」
柏ちゃんと朝飛の会話を聞きながら、動けずにいた。黛センパイのところに戻ることも、柳端の傍に駆け寄ることもできない。動いた瞬間に殺されるという予感が私の行動を止めていた。
「エ、ミ……」
その時だ、私の後ろから小さな声が聞こえたのは。
「黛センパイ!」
さっきまでいた部屋から、フラフラとした足取りで黛センパイが出てきていた。
よかった、まだ意識は完全には戻ってないかもしれないけど、少なくとも歩ける程度には回復している。なにより、センパイがこの場に来てくれた。柏恵美を必ず救う人が、ここに現れた。
「……エミから、離れて」
「うん、わかった。それがあなたとの約束だもんね、黛さん?」
あっさりと柏ちゃんから手を離した朝飛は、今度はセンパイにあの優しげな笑顔を向ける。一方でセンパイも、ゆっくりと朝飛に向かっていく。
「……ルリ?」
柏ちゃんが呟いたことで、私も気づいた。
おかしい。黛センパイがあまりにも無防備に近づいていく。目の前には棗朝飛が、『狩る側の存在』がいるのに。
「まーゆずーみさん。ちょっとここだと邪魔が入っちゃうから、場所移そうか?」
そう言って、朝飛は傍に寄ってきた黛センパイの腕を抱く。それに対してセンパイは特に抵抗しなかった。
「ルリ、何をしてる? なぜ君は……」
「……エミには、手を出さない。それが、アンタとの約束。そうでしょ?」
「うん、そうだよ。あなたのこと、気に入ってるからね。黛さん」
「何を言ってるん、ですか? 黛センパイ」
なんで、こんな。なんでこうなってる?
「……私は、エミを守りたい。エミに生きていてもらいたい」
「そ、そうです! センパイはいつも柏ちゃんを……」
「でも、エミは私を守らなくていい」
「……は?」
「私がいなければ、エミが生きていけるなら、それでいい」
力なくそう呟いたセンパイを、朝飛は後ろから抱きしめた。
「ああ。本当に黛さんはいい子。私にとって、すごく都合のいい子。よかった、こんな子に会えて。これで私の願いがようやく叶う」
そして辺りに、冷たい空気が放たれた。
「私の『夜』を、解放できる」
その時私は、黛瑠璃子が自ら棗朝飛の『獲物』になりに行ったのだと知った。
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