翌日の朝。
俺は柏先輩の教室の前に立っていた。
もし佐奈霧さんが柏先輩を狙うつもりなら、朝のうちにここに来て彼女を呼び出すかもしれない。クラスメイトを疑いたくはなかったが、これも柏先輩のためだ。
だが俺の前に現れたのは意外な人物だった。
「……あれ、柳端?」
「……」
柳端は俺の言葉に返答することもなく、何も言わずに俺を見ている。
何で柳端がここに? こいつは柏先輩が嫌いなんじゃないのか?
そういえば、柳端は棗に関して何か知らなかったのだろうか。いや、知っていたはずだ。知っていたからこそ棗を止めようとして刺されたんだ。
「柳端、棗がやったことは黛さんから聞いたよ」
「……!」
その言葉に反応して、柳端はこちらを睨みつけてきた。
「なあ、棗はどういった悩みを抱えていたんだ? きっとあいつは大きなストレスに耐えきれなかったんだ。そうなんだろ? そしてお前はそれを知ってあいつを止めようとしたんだろ? でもどうして俺に相談してくれなかったんだ?」
「萱愛……」
「俺たちはクラスメイトじゃないか。俺に相談してくれればきっと棗を……」
その時。
「ぐうっ!!」
突然俺の視界が激しく動く。それが、俺が柳端に殴られたせいだと理解するのに数秒かかった。
倒れはしなかったが、大きくよろめく羽目になった。
「な、何をするんだ!」
「お前、お前なら香車を救えたというのか!? 柏の手から!? 何もわかっていないお前が!?」
棗を救う。やはりあいつは大きな悩みか何かを抱えていたのか……
「棗は柏先輩に恋心か何かを抱いていたんだろ? それが叶わないから暴走した。そうじゃないのか?」
「……柏 恵美は人の心を惑わす悪魔だ。香車は何も悪くない」
「柳端、全てを柏先輩のせいにするのは良くない。棗が暴走したという現実を受け入れるべきだ」
「……」
例え棗の暴走に柏先輩への想いがあったとしても、全責任を柏先輩が負わなければならないなんてことは無いはずだ。
「『現実を受け入れろ』だと? 自分に都合の悪いことは一切聞き入れないお前が?」
「え?」
「自分の考えは正しいと信じて疑わず、『自分は他人の間違いを正してやっている』という傲慢な思想に囚われたお前が? 冗談のレベルが高すぎて笑えないな」
「な、何を言っているんだ? 棗も柏先輩も間違っているじゃないか。俺の言っていることの何がおかしいんだ? むしろ棗を全面的に肯定しているお前こそどうかしている!」
もしかしたら柳端も棗の死以降、精神を病んでいるのかもしれない。だから棗の死の責任を柏先輩に被せようとしているんだ。
「萱愛、一つ言っておいてやる。お前があの場にいたら、香車を助けることは絶対に不可能だったよ」
「……!」
「おやおや、君が人を殴るとはね。随分と珍しいものを見せてもらったよ」
その時、教室から柏先輩が出てきた。
「大丈夫かね、萱愛くん? どうやら唇が切れているようだが」
「え?」
唇に手をやると、指に赤い液体がついた。殴られた時に切れたようだ。
だが次の瞬間、柏先輩は自分のハンカチを俺の口に当てて血を拭う。
「せ、先輩!」
「じっとしていてくれないかな? 手元が狂ってしまう」
「だ、大丈夫ですよ!」
「まあいいじゃないか。ふむ、血は取れたようだね」
柏先輩は血のついたハンカチに指を当て、一滴の血を指にとる。
「え? なにを……」
「しかしね、君たちが見るのは私の血であって欲しいのだよ」
そして血のついた指を自分の首に押し当て、横に引く。
「……!」
「お前……!」
「『彼』はまだ私を狙っている。次に君たちが見るのは死体になった私かもしれないことを心に留めておきたまえ」
そして首に赤い線をつけた柏先輩は教室に戻っていった。
「……柏恵美、俺はお前を許さない」
静かにつぶやいた柳端もまた、教室から離れていった。
一人残された俺は、この異常な光景に頭の処理が追いつかず、しばらくたたずむしかなかった。
昼休み。
俺は教室を出ようとした佐奈霧さんを呼び止めた。
「佐奈霧さん」
「どうしたの萱愛くん?」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、大丈夫かな?」
「……うん、いいよ」
ちょっと不満そうな顔を見せた気がしたが、佐奈霧さんは教室に戻ってくれた。
「それで、何を聞きたいの?」
「あのさ、柏先輩のことなんだけど」
「……そのことなんだ」
あれ? 柏先輩の話題なのに何か残念そうな……気のせいか?
「入学前から先輩のことは知っていたの?」
「うん。お姉ちゃんが先輩と同学年だったからさ。それで知ったんだ」
お姉さんか。確かに柏先輩は目立つというか話題に出しやすい。家族から聞いていても不思議じゃないか。
「お姉さんは柏先輩の友達だったの?」
「いや、直接は関わっていないみたい」
「あれ、それじゃあどこで柏先輩と会ったの?」
「お姉ちゃんの友達に会いに行ったときに見たんだよ。すごい格好良くてびっくりしちゃった」
「それって、いつのこと?」
「確か二年くらい前だったかな」
二年前。
もしその時から柏先輩を知っていたとしたら、棗の事件も目撃しているかもしれない。
つまり彼女も――『成香』である可能性はあるのだ。
「あのさ……二年前にこの学校で起きた事件って知ってる?」
「事件? ああ、私たちと同い年だった中学生が自殺したっていう話? 有名な話だから知っているけど、なんでその話を?」
「いや、もしかしたら佐奈霧さんもその事件を目撃したのかなと」
「……うん、したよ」
「……!」
やはり佐奈霧さんは棗の死を見ていた。
ということは、彼女は……
「そういえば、その後からよけいに柏先輩が気になり始めたんだよね。なんでだろ」
間違いない。
彼女は、『成香』だ。
このままでは彼女は柏先輩への殺意を抑えられなくなるかもしれない。そうなる前に俺が止めるんだ。
しかし、どうする?
『成香』の詳細を話しても彼女が信じてくれるとは思わないし、そもそも彼女が『成香』なら俺の言うことに従わないかもしれない。
そうなると無理矢理にでも動きを封じるか? いや、彼女はまだ何もしていない。正当な理由なしにそんなことは出来ない。
ならどうする? 彼女を監視しているか?
それが一番現実的な気がする。もし彼女が決定的な行動に出たら力ずくで止めて説得すればいい。
全ては皆を守るためだ。おそらくそれが最善の行動。
昼休みが終わり、予鈴が鳴る。
「あ、昼休み終わっちゃった。じゃあまたね、萱愛くん」
自分の席に戻る佐奈霧さんを見て、俺は必ず彼女を止めると決心した。
放課後。
「じゃあ萱愛くん。私は柏先輩に会ってから帰るね」
「うん、また明日」
柏先輩に会いに行く。もしかすると、今日行動を起こすのかもしれない。
俺は佐奈霧さんをこっそり尾行することにした。
佐奈霧さんはなぜか三年の教室ではなく、柏先輩が昼食をとっている校舎裏に向かっていた。
なんでこっちに? 柏先輩は教室にいるんじゃないのか?
佐奈霧さんは校舎の角に立って校舎裏を覗いている。俺はひとまず佐奈霧さんから見えない位置から校舎の中に入る。
ここからなら窓から校舎裏が見える。いったい佐奈霧さんは何を見て……
「……!」
俺の目に映ったのは、一人でフェンスの向こうの崖を見ている柏先輩だった。
なんでここに!? いや、それ以前になんで一人なんだ!? 樫添先輩はどうした!?
これはまずい! もし佐奈霧さんが行動を起こすとしたら今しかない!
俺は校舎を出て、すぐそばにいた佐奈霧さんに声をかけようとした。
※※※
私は『彼女』とは反対側の校舎の角から、柏ちゃんを見ている。
……これで、良かったのだろうか。
柏ちゃんは私に有沙の死を乗り越えさせてくれた。その点では彼女に感謝している。
だけど私は、どうあっても柏ちゃんの思想は理解できない。どこかで柏ちゃんに反発している。
だからだろうか、今回の『彼女』の計画に協力してしまったのは。
『彼女』の目的達成のために、柏ちゃんを利用してしまったのは。
「樫添さん」
突然背後から声をかけられ、振り返る。そこにいたのは……
「……黛センパイ」
「やっぱり、エミを一人にしたのね」
黛センパイの言うとおり、私は今、柏ちゃんの護衛をしていない。
わざと柏ちゃんを一人にしたのだ。『彼女』のために。
「黛センパイ、私は……」
「わかってる。エミに危険が及ばないのであれば、『あなたたち』の邪魔はしないわ」
「……知っていたんですね」
「ええ」
私は黛センパイから棗の影響を受けた『成香』の存在を聞いた。
そしてそれを『彼女』に話したのだ。
それを知った『彼女』は、私に柏ちゃんから離れるように要求した。私はその要求を断ることが出来なかった。だって『彼女』は……
「樫添さん、私はあなたが萱愛のことを知っていたことを不思議に思ってたの」
「……あの男が柏ちゃんの病室に来たときのことですね」
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「黛くん、萱愛くんは私を助けてくれたのだよ」
「ご、ごめんなさい。私、エミが誰かに突き落とされたとばかり……」
「いえいえ、お友達を思っての行動なら、無理も……」
「え? 萱愛?」
「え、樫添さん知り合いなの?」
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「普通に考えれば入学したばかりの新入生のことなんて知っているはずがない。なのにあなたは知っていた。だから私はこう推測したの。『萱愛のことを誰かから聞いた』って」
「その通りです」
「そして誰から聞いたのか? おそらくその人物は萱愛と同学年で、なおかつ樫添さんと親交がある人物」
「それが『彼女』だと?」
「ええ、あなたは前に償いのためにエミに復讐しようとした。そしておそらく今回の理由も償いのため」
「……」
「以前、私はあなたの電話の着信履歴を見てしまったのよ。そしてあなたは頻繁にある人物と連絡を取っていた」
「黛センパイ、もう認めますよ」
「……その人物との協力関係を?」
おそらくセンパイは感づいている。ならば隠しても無駄だろう。
「はい、『彼女』……佐奈霧緑は、皿椈有沙の妹です」
「やはりそうなのね、そしてその子の目的は……」
「想像の通りです」
彼女の目的は柏ちゃんの殺害、
……ではない。
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