柏恵美の理想的な殺され方

さらす
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第二十話 お見通し(7月4日 午後9時02分)

公開日時: 2024年1月18日(木) 12:03
文字数:3,637


 【7月4日 午後9時02分】


『もしもし、萱愛だ。お前、今どうしてるんだ? 何か立て込んでいるのかもしれないが、録音に気づいたら連絡してくれ』


 携帯電話に記録されていた留守番電話を再生すると、萱愛が俺を心配する声が発せられていた。

 どうやらアイツも俺が姿をくらませたことに気づいたようだ。だが今の俺が返事をするわけにもいかない。


「ねえ、お兄ちゃん。その人が萱愛さんだよね?」


 なぜなら、今の俺は『スタジオ唐沢』でこのメッセージを再生し、紅蘭にもそれを聞かれているからだ。


「唐沢先生が言ってたんだよね。萱愛小霧って人が波瑠樹さんを惑わせて竜樹さんに引き渡しちゃったって。困った人だね、波瑠樹さんをあんなに危ない人に任せちゃうなんて」


 言葉の内容に反して、紅蘭はくすくすと笑っている。その様子を見たことで、コイツがどういう人間なのか俺の中でひとつの結論を出した。


 紅林鈴蘭は、最初から他人などアテにしていない。


 俺のことを『お兄ちゃん』と呼び、妹のように甘えたような態度で接してくるものの、それは俺が紅蘭の兄という役割を引き受けたからそうしているだけだ。事実として、紅蘭は『スタジオ唐沢』の仲間である波瑠樹が危機に陥っているにも係わらず、特に心配するような態度を見せない。今の紅蘭には、柳端幸四郎という『兄』がいて、その兄を上手く利用すれば自分の手を動かさずとも波瑠樹を連れ戻せるし、もし俺が期待外れだったとしたら自分で竜樹さんを打ちのめして波瑠樹を連れ戻せばいいとでも思っているんだろう。

 どちらにしろ、紅蘭にとって兄である俺を利用して波瑠樹を連れ戻しても、自分が直接連れ戻しても、そこに大きな違いはない。


「ねえお兄ちゃん、どうしよっか? 唐沢先生からは波瑠樹さんを連れ戻しに行けって言われてるんだけど、わたし一人じゃ無理だよ。助けてくれない?」

「……わかった。お前の目的は果たしてやる」

「ありがとう! あ、それじゃあさ、まずその萱愛って人にも協力してもらおっか。その方が話が早いでしょ?」

「萱愛がお前に協力するとは思えないな。さっさと竜樹さんに接触した方がいいだろう」

「そんなことないよ。萱愛さんがどんな人か知らないけど、わたしが頼めば聞いてくれるでしょ」


 そう言いながら、紅蘭は上目遣いで媚びるような卑屈な笑いを浮かべる。


「だってわたし、弱いのに竜樹さんに立ち向かわないといけないんだから」


 ……どうやらコイツは、自分の弱さを利用すれば俺も萱愛もたやすく利用できると思っているらしい。その思い込みこそが紅蘭が他人をアテにしていないことの最大の証拠だ。会ったことのない萱愛のことはもちろん、ここ一ヶ月間行動を共にした俺のことも、「可哀そうなオンナノコを無条件に助ける馬鹿な男」としか思っていない。自分以外の人間を何も理解していない。


 だから、俺が紅蘭のウソをとっくに見抜いていることにも気づいていない。


 紅蘭が竜樹さんの『妹』として彼と交際し、迫られていたのは事実なんだろう。だがおそらく、それは紅蘭自身が望んだ状況だ。竜樹さんを惑わし、自分に迫るように仕組み、誰かの同情を誘うためのものだ。

 それに気づいたのは綾小路たちが『スタジオ唐沢』に乗り込んできた時だ。


『わたしが欲しいのはわたしを守ってくれるお兄ちゃんなんだよ。でも竜樹さんはわたしに迫ってきて、わたしに頼ろうとしてきた。そんなお兄ちゃんは必要ないんだよね』


 あの時点で紅蘭は竜樹さんを見限っていたし、立ち向かうこともできた。つまり弓長竜樹は紅蘭にとって強大な敵ではないし、竜樹さんに付きまとわれていても自力で解決できる。

 それがわかった時点で、俺は紅蘭から離れることはできた。だが……


「柳端くん、紅蘭ちゃん……」


 その時、俺たちの会話を横で聞いていた女が、ゆっくりと俺に近づいて来た。

 男である俺よりも背が高く、それでいて恐ろしいほどの美貌と、何かに怯えるようなオドオドした態度を兼ね備えた女。その態度がどうしてもこちらを苛立たせた。


「あの、あの、波瑠樹くんがお兄さんに連れ去られちゃったんですよね? あ、そ、その人って、怖い人、ですか?」

「うん、怖い人ですよ。わたしからしたら、すっごく怖い人」

「だ、だったら……私も一緒に行っていいですか? 怖い人なら私も会ってみた……」

楢崎ならさきさん、アンタまで来なくていい。竜樹さんは俺と紅蘭で何とかする。それでいいだろ?」

「あひっ! す、すみません! そうですよね、ダメですよね、ダメですよね……」


 わざと強い言葉で拒否したが、この女……楢崎久蕗絵にとってはこれが効果的らしい。そしてコイツこそが、俺が『スタジオ唐沢』に関わることを決意させた最大の理由だ。


「あの、でも、紅蘭ちゃん。波瑠樹くんのことは、ちゃんと連れ戻してきてね? こ、紅蘭ちゃんも、戻ってきてね? そうじゃないと……」


 その言葉の後、楢崎は俺たちを見下ろしながら呟く。


「……私の周りから、怖くて安心できない人たちがいなくなっちゃいますから、ダメですよ?」


 不安そうな態度と言葉とは裏腹に、その目には冷たく黒い感情が宿っていた。


「だ、大丈夫ですよ。クロエさん、心配性だなあ」


  紅蘭も楢崎の目を恐れているようだ。

 そう、俺は紅蘭のウソも本当の願いも見抜いている。それでも『スタジオ唐沢』を離れなかったのは、ここの教室長である唐沢清一郎とやらが萱愛を騙して何を企んでいるのかを探るのも目的の一つではある。

 だがそれ以上に、この女の存在が俺の心に警鐘を鳴らしている。


 楢崎久蕗絵。俺はどうしても、コイツの正体を探らなければならなかった。



 【7月4日 午後10時12分】



 夜も遅くなったので自宅に連絡すると言って『スタジオ唐沢』から出た後、スマートフォンの画面に着信表示が映った。


「もしもし」

『……おや、すぐに出てくださいましたか。てっきりお楽しみの最中かと思いましたが……ひひ……』

「さっさと用件を言え。どうせお前からの連絡があると思っていたんだ」

『小霧さんからの連絡には応答せず、私からの連絡には出てくださるのですねえ……まあ、いいでしょう。柳端氏、まずはあなたの現状を教えていただきましょうか』


 電話の相手……閂香奈芽は軽口を叩きながらもこちらの状況を探るように聞いてきた。コイツの性格からして、俺が本当に萱愛と敵対している可能性も考慮しているんだろう。というかコイツ、いつの間に萱愛のことを名前で呼ぶようになったんだ?


「お前の予想通りだ。『スタジオ唐沢』って演劇教室に入りこんで、内情を探ってる。ついでに学校の後輩の遊びに付き合ってやってるのが現状だ」

『ひひっ、そうですか。あなたも女性に弱いですねえ……しかしなぜ小霧さんにそれを伝えないのでしょうか?』

「アイツはなんでもかんでも背負い過ぎだし、お前のことを最優先するのが理想だろう。俺のことまでなんとかしようとしたらパンクするだろうが」

『……お気遣いありがとうございます』


 閂にしては珍しく素直に礼を述べてきた。


「それに、萱愛には沢渡生花ってヤツに伝言を頼んでる。『お前は閂とのことだけを考えてろ』とな。お前が動けばそのうちアイツも俺の意図に気づくだろ」

『ええ、ええ、そうでしょうね。ですが『そのうち』では遅いのですよ。既に事態は動き出していましてねえ……』

「……弓長波瑠樹のことか」

『その通りでございます。まずは今日までの出来事をお話ししましょう……』


 閂はここ数日間の出来事について語り始めた。

 弓長波瑠樹が黛に告白したこと。

 閂はその告白が偽りであると気づき、黛の元カレと結託してアイツの危機を救ったこと。

 その一件の裏で糸を引いていたのは『スタジオ唐沢』の教室長、唐沢清一郎であること。


 そして、唐沢の目的が柏の中に潜む斧寺霧人なる人物の復活であること。


「……最後の部分は置いといてだ、やはり唐沢の目的は柏か」

『そのようですね。あなたが『スタジオ唐沢』に関わることになったのも、柏先輩の関係者だからでしょう……』

「どちらにしろ、竜樹さんが俺のことを萱愛に教えたことでアイツもこの件に首を突っ込むことになったわけだ。まったく、余計なことをしてくれた」

『ひひっ、そう思うのでしたら小霧さんにも事情を説明していただきたいですねえ……』

「……いや、それはまだだ。その代わりお前にやってもらいたいことがある」

『ほう?』


「俺が紅蘭の思い通りに動いているフリをしている間に、お前は水面下で動け。得意だろ?」


 萱愛に事情を説明すれば、アイツはバカ正直に紅蘭を説得しようとするだろう。だが紅蘭はそういう説得が通用する相手でもない。誰でも助けようとするアイツじゃ紅蘭の相手は無理だ。

 唐沢の目的が判明し、萱愛も騙されていたことに気づいた以上、あまり長いこと『スタジオ唐沢』に留まるのは危険だ。だからもう、俺が紅蘭の兄を演じる必要もないが、最後にひとつやらなければならないことがある。


 紅蘭を、二度と立ち上がれないくらいに徹底的に追い込んで叩き潰さなければならない。

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