「大丈夫ですか? 柳端さん」
ハンカチで俺の口の汚れを拭い、空木が声をかけてくる。
しかし当の俺は、その声に応える余裕はなかった。
棗香車。俺の親友だったはずの男。そいつが内に秘めていた欲望は、あまりにも俺の理解から遠すぎた。
人を殺す。その行為はこの俺、柳端幸四郎にとって、あまりにも重く、嫌悪感を抱かせるものだった。だが香車は、その行為を日常に組み込もうとしていた。予行演習でさえ俺を苦しませるそれを、香車は日常的に行おうとしていた。
俺は香車を理解したかった。だがその結果、俺の得た理解とは香車が自分とはあまりにも遠いという現実だった。俺と香車は対極に存在した。どうしても人を殺せない人間と、どうしても人を殺したい人間。それが、俺と香車だったのだ。
治りかけているはずの左腕が痛む。いや、実際に痛みを感じているのかすらわからない。これは俺の心が悲鳴を上げているだけなのかもしれない。親友を気取っておきながら、俺は香車のことを何も見ず、何も知らなかった。
俺は、あまりにも、あまりにも愚かだった。
「柳端くん、大丈夫?」
俯く俺に声をかけてきたのは、『死体』となっていたはずの綾小路だった。綾小路は腹や口から血を流しながら、俺の顔を覗き込んでくる。
ああ、よかった。綾小路はやはり生きていたんだ。わかりきっていたことのはずなのに、思わず安堵してしまう。そもそも最初から綾小路を本当に殺すなんて話ではなかったのに、それでも俺は安堵してしまう。
「ごめんね。もしかしたら柳端くんの力になれるかと思ったんだけど、こんなことになるなんて……」
綾小路は俺に頭を下げてくる。俺はそれを見て、思わず質問してしまう。
「お前は……俺に怒ってないのか? 疑似体験とはいえ、俺はお前を殺した。そのことに、何も感じてないのか?」
自分でも不思議なことを聞いたと思った。そもそも、ドラマや映画で殺される役なんていくらでも出てくる。その殺される役を演じているヤツらが、作中で自分を殺した人間を恨むはずがない。だから綾小路だって、俺に対して何も感じていないはずだ。
だが綾小路は、俺に対してこう答えた。
「怒ってないけど、嬉しいとは思ったよ。仮に柳端くんがアタシを殺したんだとしたら、君にさんざん迷惑かけた分を、償えると思うから」
まだ血の気を失っている顔で、俺に微笑みかける。その時始めて、俺は綾小路を『美しい』と感じた。
「俺は、これを求めているのか?」
誰に向けられたわけでもない、俺の口から自然に出た言葉だった。俺は今の綾小路のように、『死体』となることを望んでいるのだろうか。
俺は香車のことをまるで理解できなかった。香車を助けることはできなかったし、香車に協力することもできなかっただろう。
だけど、もし。もし俺が香車の助けになれる方法があるとしたら。
それは、香車に殺されて『死体』となるしかないのかもしれない。
「柳端さん、どうやら結論が出つつあるかもしれません」
空木は再び俺に視線を合わせる。
「あなたも我々と同じく、『死』を求めている人間なのかもしれません。今のあなたは、綾小路さんに羨望を抱いている。『理想の死に方』に辿り着いた彼女を羨ましいと思っている。もしそうなのだとしたら、我々はあなたを歓迎します」
そう言いながらも、空木の表情は特に友好的なわけでもない、無表情だった。
だが空木の言葉は俺の心中を言い当てている。俺は『死体』となった綾小路を『美しい』と感じた。自らの望む死に方に辿り着いたこいつに、俺の理想を見た。
だとしても、俺にはまだ受け入れられないことがある。
「……空木さん。あなたは香車が、『人を殺すこと』を日常に組み込むつもりだったと言った。もしかしたら、本当にそうなのかもしれない。だが、不可解なことがある」
「なんでしょうか?」
「アンタはどうしてそれを知っている? アンタは香車と出会ってもいないはずだ。『狩る側の存在』という言葉も知っていた。アンタは、何者なんだ?」
そう、人殺しの疑似体験のショックで忘れかけていたが、空木は香車を知っているような口ぶりだった。生花から聞いたのかもしれないが、空木は単なる伝聞以上の情報を握っているように感じられた。
「何者か、と聞かれれば、私は『死体同盟』という非公式のサークルの代表と答えるしかありません。それ以外であれば、単なるフリーターですよ」
「俺は一般的な立場を聞いているんじゃない。アンタは俺にとってなんだ? 俺はどうしても、アンタが何かの目的があって俺に近づいているように思える。俺を『死体同盟』に勧誘しているのも、単なる偶然ではないはずだ」
空木は俺の名前を事前に知っていた。つまりこいつにとって、俺は単なる新規メンバー候補ではない。俺を『死体同盟』に入れることに、なにか重大な意味があるのだ。
「私の目的でしたら、皆さんと同じ、『理想的な死に方』に辿り着くことですよ。そのために柳端さん。あなたの協力が必要だというだけです」
そこまで言われて、俺はようやく気づいた。
『死体同盟』の目的は、『理想的な死に方』に辿り着くこと。そして空木は、生花をメンバーに加えた上に、香車や『狩る側の存在』についても調べ上げている。
これらの情報の中心にいる人間。『死』や『狩る側の存在』という要素に深く関わる人間。それは一人しかいない。
「アンタの目的は俺じゃないということか。俺はアンタが真の目的を達成するための通過点にすぎない。アンタが本当に『死体同盟』に迎えたいのは……」
「……」
「柏恵美」
そうだ、考えてみれば当たり前だった。『死』や『死体』といった要素にあれほどまで近い人間は他にいない。柏は常に自分がそうなることを求めている。
つまり最初から、俺は柏をおびき出すためのエサだったというわけだ。俺を『死体同盟』に加入させて、柏がこいつらに関わらざるを得ない状況を作り出すために。
「アンタは柏をおびき出すために、俺をここまで追い詰めたってことか。随分と回りくどいことをしてくれるな」
「一応言っておきますが、私は柳端さんも迎え入れたいと考えております」
「……俺は、『死体』になりたいわけじゃない。アンタの思想も理解できない」
「いえ、柳端さんは我々を理解しつつあります。先ほども申し上げた通り、あなたは『死』を求めている」
俺はその言葉にもう反論できない。
「……とりあえず、少し休ませてくれ。とてもじゃないが、今の俺はとてもアンタと会話できる状態じゃない」
「かしこまりました。では、寝室をご用意いたします」
そう言って、空木は部屋を後にした。
――俺はその後、洗面所で顔を洗い、空木に通された寝室のベッドに横たわると、直後に意識を失った。
どれくらい寝ていたのかはわからない。目を覚ました俺の視界に最初に入ったのは、髪の長い女の姿だった。
「俺は……どのくらい寝ていた?」
「一時間くらいよ。気分はどう?」
身体を起こしてみると、まだ左腕にズキズキとした痛みが残っていた。だが、意識を失う前にはあった強烈な嘔吐感は、もうほとんど残っていない。
「たぶん、もう大丈夫だ」
「あら、若いから回復も早いのね。羨ましいわ」
「アンタも、『死体同盟』のメンバーなのか?」
「そう、鎚屋麗。この家の主よ。よろしくね」
槌屋麗……確か、選手生命を失ったが莫大な遺産を受け取ったとかで、一時期マスコミに追い回されてたマラソンランナーの女だ。なるほど、『死体同盟』のスポンサーということか。
「お目覚めでしたか、柳端さん」
俺が目を覚ましたのを見計らったかのように、空木が寝室に入ってきた。それと入れ替わりで、槌屋は杖をついて寝室を出て行く。
「じゃ、空木さん。後はよろしくね」
「承知しました。さて、柳端さん。ご気分はよろしいでしょうか?」
「……回復はした」
「なによりです。ではこれからどうされますか? 柳端さんが望むのであれば、この場所にいつでも出入りをして構いませんが」
「……とにかく、今日は帰らせてくれ。俺は、もう少し考えたい」
「かしこまりました」
俺の言葉に頷いた空木は、寝室の扉を開ける。
深々と頭を下げて、部屋を出る俺を見送っていた。
館の玄関には、綾小路が待っていた。俺が寝ている間に身体を洗ったのか、身体から石けんの匂いが微かに香っている。
「柳端くん、途中まで送ってくよ。まだ気分が悪そうだし」
「……好きにしてくれ」
そう言いながら、俺は綾小路の顔を直視できなかった。先ほど『死体』となっていた綾小路の美しさが、まだ俺の頭に残っている。その動揺を、悟られたくなかった。
館を出て、駅までの道を歩いている間、綾小路と俺は無言だった。お互いに相手の領域をむやみに侵したりしない。そんな暗黙の了解があるかのようだった。
そのまま歩いて、駅が見えてきた頃、綾小路は俺の前に立つ。
「柳端くん。『死体同盟』はどうだった?」
「……わからない。『理想的な死に方』を求めるなんて、俺には理解できない」
「そう? でもアタシさ、柳端くんにアタシの『死体』を見てもらって、嬉しかったな」
「なに?」
綾小路は微笑みながら、背伸びをして俺に顔を近づける。
「だってアタシ、死ぬ時は柳端くんが傍にいたらいいなって思ってたから。アタシが散々迷惑かけた柳端くんに、アタシの『死体』を見てもらって、許されたかったから」
「俺に、許される?」
「柳端くんだけじゃない。アタシは多くの人に迷惑をかけた。だからアタシは無様に死んでやっと許される。柳端くんにそれを見届けて欲しかったの」
「そんなの……ただの自己満足じゃないのか?」
「そうかもしれない。だけど、柳端くんも同じでしょ?」
綾小路は、俺の耳元に顔を近づけて囁く。
「君も、棗って人に許されたいんでしょ?」
そう言って、綾小路は俺から離れた。
「アタシも柳端くんも、誰かに許されたくて『死体』になることを望んでる。だからアタシさ、死ぬときは柳端くんと一緒がいいな。君がアタシのことを見てくれてなくてもいい。それがアタシの理想の死に方なんだと思う」
「……やめてくれ。俺は……」
俺は香車に許されなかった。俺は香車を知らなかった。だから香車は俺を切り捨てた。
じゃあそんな俺は何を求める? そんなの、ひとつしかない。
棗香車に殺されて、やっと柳端幸四郎は許される。
「じゃあね、柳端くん。またあの館で待ってるよ」
離れていく綾小路の背中を見ている俺には、既に殺意が向けられているような気がした。
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