【6月7日 午前10時50分】
「あれ? そういやアンタ、バイト先にいた……弓長って言ったっけ?」
「え? あ……!!」
竜樹さんは生花を見て一歩下がった。どうやら俺たちはまずい現場を見てしまったらしい。
「……柳端先輩?」
一方で、紅林もまた俺の存在に気づいたようだ。さっきまでは辛そうに顔をしかめていたが、俺を見た瞬間にその顔に安堵の色が浮かび、同時にこちらに歩み寄ってくる。
「先輩……遊びに来てたんすか?」
「あ、ああ。それよりお前、ここで何して……」
「柳端くん、悪いけどさ、ソイツには近づかないでくれるかな?」
俺たちの会話は、竜樹さんによって遮られた。
「これは僕たちのプライベートな問題なんだ。君に割って入ってもらいたくない」
「いや、割って入るつもりはないですよ。紅林は同じ高校の後輩なので、声をかけようとしただけです」
「ならもう声はかけただろ? 離れてくれ」
なんだ? 竜樹さんがここまで苛立っているのは初めて見る。プライベートな問題なら俺が関わるのはやめた方がいいんだろうが、さっきの紅林の様子も気になった。
「あの、紅林が何か失礼なことをしたんなら、俺が代わりに謝ります」
「そういう問題じゃない。これは……」
何かを言いかけた直後、竜樹さんの視線は俺の後ろにいた綾小路に向いた。
「……そっちの子、もしかして綾小路さん?」
「え? ……あ!」
声をかけられたことで、綾小路もまた怯えたような表情を浮かべていた。一瞬、事態が吞み込めなかったが、直後に気づいた。
「綾小路さんだよね? 覚えてるよ。君が店の金に手をつけたの」
竜樹さんは、かつて綾小路をバイトの先輩として指導していた。だからコイツがなんでバイトを首になったのかも知っている。
「なに? 柳端くんって綾小路さんと一緒に遊ぶ仲だったの? 真面目な子だと思ってたけど、ショックだなあ」
「それこそプライベートな問題ですね。口を出すべきじゃないでしょう」
「だったらこっちの問題にも口を出すなよ。それとも、自分だけは例外とか馬鹿なこと言い出すつもりか?」
「そんなことは……」
「そんなんだから、友達の自殺も止められなかったんじゃないの?」
「……!」
わかっている。竜樹さんは普段はこんなことを言う人ではないとわかっている。香車のことについても、仕事をする上で信頼できる人だと思ったから詳細を伏せつつも話したんだ。
だとしても、今の言葉は聞き流せない。俺の感情を止められない。俺の気持ちを制御できない。
気づけば、右手を握りしめていた。そしてその拳を振り上げ……
「ぐっ!?」
その前に、生花の蹴りが竜樹さんの腰辺りに炸裂していた。
「……さっきから聞いてりゃ、タラタラと言い訳がましい野郎だね。気に入らないんなら、さっさとかかってきなよ」
「く、ふざけんなよ……! 年下の女がいい気になりやがって……!」
「ヒャハハ、キレてんのかい? ほら、かかってきな。アタシをぶちのめせるんなら、幸四郎のこともぶちのめせるだろうさ」
「どいつもこいつも、僕をバカにしやがってよお!」
竜樹さんの怒号が店に響き渡り、周りの客も異変に気づき始めた。だがこれは逆にチャンスだ。
「綾小路、それに紅林。さっさと逃げるぞ」
「え?」
「今なら竜樹さんは生花に気を取られてる。ここはアイツに任せるぞ」
「う、うん!」
二人の手を引き、後ろを振り返らずに必死で走った。
【6月7日 午前11時20分】
「はあ、はあ……」
「だ、大丈夫? 柳端くん」
「ちょっと……傷が痛んだ……」
人通りの少ない裏手に逃げたはいいが、そのせいで腹の傷が痛んでしまった。綾小路も少し息が上がっているようだ。
「お前の方こそ平気か? その……竜樹さんのことは?」
「平気だよ。ていうか落ち込む権利なんてない。アタシが悪いんだから」
そう言いながらも、綾小路の身体は微かに震えていた。過去の過ちを突き付けられて全く動揺しないはずがない。ただ、『気にするな』とも言えなかった。そう言ってしまえば、コイツがますます自分を責めてしまうのはわかっている。
だからまず、紅林から事情を聞き出すことにするか。
「おい紅林。竜樹さんと何があったんだ?」
質問を投げかけても、俺の方を見ることなく俯いている。しばらく時間を置くべきかとも思い、何か飲み物でも買ってくるかと自販機に目を向けた時だった。
「せん……ぱい……」
弱々しい小さな声で、紅林は俺の背中から抱き着いてきていた。
「お、おい、何やって……」
「すみません……しばらくこうさせてください……でないと、わたし……耐えられないよ……」
言葉の弱さに反して、俺に抱き着く腕の力は強かった。それほどまでに、コイツの背後にある事情は深く大きな問題なのかもしれない。そう思ったら、無理やり引き剥がす気にもならなかった。
「……わかった。好きなだけそうしておけ。綾小路、お前も少しそこのベンチで休んでいろ」
「うん……そうする」
綾小路もやはり疲弊していたのか、俺の言葉に従ってベンチに座った。
「ぐっ……ううっ……」
しばらくして、背後から押し殺したような嗚咽が聞こえてきた。それがどちらのものなのかはあえて確認しないが、確実にわかっていることがある。
この嗚咽は、竜樹さんの行動の結果だということだ。
それを認識した時、先ほどのあの人の言葉を思い返してしまう。竜樹さんにはかつて俺に棗香車という友人がいたことも、その友人が自ら命を絶ったということも話していた。一緒に働く中で、その過去を茶化すような人ではないと思ったからだ。
だが実際には、竜樹さんはその過去を引き合いにして俺を揶揄した。機嫌が悪かったとか言葉のアヤだったとしても、それは俺が許せる一線を踏み越えている。そして同時に考えてしまう。
竜樹さんが紅林に危害を加えていてもおかしくはないと。
【6月7日 午前11時50分】
「すみません、落ち着きました」
目を赤く腫らしながらも、紅林は俺から離れて笑顔を見せた。だがまだその表情にはどこか無理をしているような不自然さがある。
綾小路もベンチから立ち上がってはいるが、俺に話せることがないのか、ただ黙っていた。
「……今日はもう解散するか?」
この空気ではとても仲良く遊ぶなんて出来そうにないだろう。綾小路にもあまり無理をさせたくない。
「ごめんね柳端くん……アタシのせいで……」
「お前のせいじゃないだろ、謝るな」
「でも、アタシがやったことで責められたんだし……」
「竜樹さんはお前のやったことを理由に責めたんじゃない。俺を紅林に近づけさせたくなかっただけで、理由は単なる後付けだ」
「……うん」
俺の言葉を受けて、微かに笑顔を浮かべてくれた。どうやら言葉選びは間違わなかったようだ。
「今日はありがとう、柳端くん。家に帰って落ち着いたらまた連絡するね」
「ああ、待ってる」
力なく手を振りながら離れていく綾小路を見て、竜樹さんとあそこまで揉めた以上、俺は予定よりもっと早くバイトを辞めることになりそうだなと他人事のように思った。
「紅林、お前も落ち着いたなら今日は帰れ。まだ竜樹さんは近くにいるだろうから、ここにいるとまた出くわすぞ」
「……なら、先輩が守ってくれませんか?」
「なに?」
紅林は再び俺の腕にしがみつき、上目遣いで訴えてきた。
「わたし……あの人が怖い。あの人にまた殴られるんじゃないかって……そう思ったら、ひとりでなんて帰れない……ねえ……この間言ったよね? わたしを『妹』にしてほしいって」
「お前……こんな時に変な冗談を言うな!」
思わず大声を出してしまうが、しがみつくその身体を強引に引き剥がそうとは思えなかった。それだけじゃない、上目遣いで俺に助けを求める紅林を正視できない。
「ねえ、こっち見てよ、幸四郎お兄ちゃん」
わかっている、今の紅林を見てしまえば俺は……
「わたし、幸四郎お兄ちゃんの妹になりたい。そうじゃないとわたし、耐えられない……あの人に立ち向かうなんてできないよ……」
俺は……!
「わたしを助けて、お兄ちゃん」
その言葉を聞いて、俺は思わず紅林を見てしまった。
「……あ」
わかっていても、それに逆らえない。俺はこの感覚を知っている。
俺は一度、香車の幻影に縋りついた。香車を求めて、アイツの代わりに柏を殺そうとした。
それは俺の中の香車が助けを求めていたからだ。
そして今、紅林はその時の香車に似た表情を浮かべている。
たすけて、たすけて、たすけて。
俺の心にねじ込まれていく、『守ってあげたくなる弱者』という力。見た者に強制的に使命感を抱かせる力。
「く、紅林……お前に何があったんだ? 竜樹さんに何をされたんだ?」
気づけば聞いてしまっていた。そして紅林の事情を聞いてしまえば、俺はもう戻れない。
「その前にさ、わたしは幸四郎お兄ちゃんの妹になるから、呼び方を変えてほしいな」
紅林を守る兄という立場から戻れない。
「わたしのことは、『紅蘭』って呼んで」
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