「御神酒先生!」
僕が倒れている御神酒先生を見たのは、受験が終わった三月。学校の中庭でのことだった。先生は腹部から血を流し、流れ出した血がコンクリートの地面に染み込んでいく。
そして倒れている御神酒先生の傍らには、血の付いたナイフを持った男子生徒が立っていた。天然パーマで眼鏡をかけた、見るからに勉強に打ち込んでいたという印象を受ける男だ。
「お、お前! お前が先生を刺したのか!? 何でこんなことをしたんだ!」
ハンカチで止血をしながら男子生徒を睨む。だが男子生徒は意外な返答をした。
「お前のせいだ……お前のせいで僕は大学に落ちたんだ!」
「な、なに!?」
「お前と、御神酒のせいだ! 御神酒がお前ばっかり贔屓して僕たちのことを蔑ろにしたから、僕は成績を落としたんだ! 全部お前等が悪いんだ!」
その男子生徒は駆けつけた教師に取り押さえられて警察に連れて行かれたが、後から聞いた話によると、一部の生徒の間で御神酒先生の悪い評判が回っていたらしい。曰く、御神酒先生が僕ばかり熱心に指導して、自分が担当する生徒への指導がおざなりになっていたという話だ。
しかし、御神酒先生が担当する生徒全てが成績を落としたわけではないため、その男子生徒は逆恨みで先生を刺したのは間違いなかった。だがこのことは、僕の心に深い傷を付けた。
僕が初めからもっと真面目に授業を受けていれば。もっと御神酒先生の手を煩わさないように気をつけていれば。こんなことにはならなかったんだ。
しかし、僕が本当に後悔するのはこの後のことだった。
数週間後、僕は大学に入学したことを伝えるため、御神酒先生のお見舞いに行った。
「失礼します」
病室のベットで体を横たえる先生は髪が目元まで伸び、その目を覆い隠していた。
「……君か」
「先生、具合はどうですか?」
「……」
先生は僕の質問には答えずに、しばらく無言の状態が続いた。
「仲里」
突然の声に、僕は体を震わせた。
今までの御神酒先生の声とはかけ離れた、突き刺すような暗く冷たい声。呼び捨てで呼ばれたのも初めての経験だった。
「……なんでしょうか?」
「……私は、今までの自分の行動が間違っていたとは思わない。お前という一人の生徒が夢を追う手助けをすることには成功した」
「……はい」
「だが同時に、結果的にではあっても私が一人の生徒を不幸にしたのも事実だ」
「それは……!」
それは、御神酒先生が気に病むことではない。そう言おうとしたが、寸前で言葉を飲み込んでしまった。それを言ってしまうのは、御神酒先生の信念を否定するのと同じだ。過程がどうであれ、御神酒先生の行動によって一人の生徒が罪に問われてしまったのだから。
だが御神酒先生は尚も冷たい声で言葉を続けた。
「私に間違っていた所があるとしたら、持つ信念を間違えたことだ」
「せ、先生、何を言ってるんですか?」
「関わった生徒全員を救う? 何とも馬鹿げたことを言っていたものだな私は。私に何が出来る? 一人の生徒を救うだけでこれだけの代償を払った私にそんなことが出来るはずがない」
「……」
その時、御神酒先生の声色が微かに震えているのに気づいた。だが、それを指摘する気にはならなかった。
「だから私は、持つ信念を変える」
「え?」
「私はこれから、幸せになれる見込みのある生徒は救う。だが、そうでない生徒は……」
そして、起きあがって僕を見る。
「容赦なく、見捨てる」
その目つきは以前のような快活さが消え失せた、冷たく、鋭いものだった。
「ちょっと待ってください! あなたがそんな……」
そんなことが出来るはずがない。誰よりも生徒全員を救いたいと願っている御神酒先生に、そんな選択が出来るはずがない。
「もう決めたことだ。非力な私ではその方法でしかより多くの生徒を救えない。私は教師として何としてもより多くの生徒を幸せにしなければならない」
もしそんな選択をしようものなら――
「例え、この心が罪悪感に潰され壊れてしまったとしても」
その先には、破滅しか待っていない。
「そんな、もういいじゃないですか! 先生は十分頑張りました! そんな自分からも他人からも責められる生き方をしなくてもいいじゃないですか!」
「だめだ。私は教師だ。教師として生きると決めたのだ。このやり方でしか教師としての職務を全うすることが出来ないというのであれば、私はいくらでも責められてやる」
「そんな……」
気づけば、僕は涙を流していた。
僕のせいだ。僕のせいで御神酒先生はこんな過酷な選択をしたんだ。どうしてもっと早く僕は自分の愚かさに気づかなかったんだ。どうしてこんなことになってしまったんだ。
「仲里、かつてお前を救った者として、これだけは言わせてもらう」
「……なんですか?」
「決して、私のような人間にはなるな」
※※※
「……これが、かつて御神酒先生に起こったこと……僕の罪の全てだよ」
仲里先生の話が終わり、俺は無意識に握り込んでいた拳を開いた。
こんな、こんな残酷なことがあるだろうか。御神酒先生だって仲里先生を救うために精一杯の努力をしていたはずだ。それが裏目に出てしまうなんて……
「で、でも、それは仲里先生が悪いわけじゃ……」
「確かにね。僕はその後、誰からも責められることは無かったよ。でも、僕は自分を責め続けた。このことを僕の罪として意識し続けた」
……仲里先生の罪。そして、御神酒先生の罪。
似ている。自分が正しいと思った行動が、結果的に誰かの不幸を招いてしまったという点で、俺と御神酒先生、仲里先生はあまりにも似ている。そしてその罪を背負う決意をした所まで似ている。
「だから僕は、御神酒先生に復讐をされても仕方がないと考えている」
「え?」
そう言えば、仲里先生は言っていた。『この遺書は御神酒先生の復讐なのかもしれない』と。
「僕は御神酒先生を、傷つきながらも歩き続けなければならない地獄に落としてしまった。ならばこの遺書の中には、僕への恨みの言葉が入っているのかもしれない……」
「そんなはずはありません!」
俺の大声に仲里先生が驚く。俺はそれだけは、それだけは否定したかった。
「御神酒先生は……きっかけはどうであれ、ご自分で選択した生き方の責任を、他人に押し付けるような人ではありません! ましてや、教え子であるあなたに……!」
「……なぜそう言い切れる!? 御神酒先生だって人間だったんだ! それなら……」
「ひひひひひ……そのようなことがあったのですね……」
しかしそこで、話を黙って聞いていた閂先輩が口を開いた。だが彼女は俺たちのやり取りを聞いても全く動揺した様子もなく、いつもの笑い声を上げていた。
「さて……仲里先生の罪はともかく、思わぬ収穫がありましたねぇ……」
「え?」
「仲里先生、このUSBメモリーはお借りしても?」
「……ああ、好きにしなよ」
仲里先生からUSBメモリーを受け取ると、閂先輩はスタスタと教室の扉に向かっていく。
「ちょ、ちょっと先輩! あ、仲里先生、お話ありがとうございました」
「ああ……」
お礼もそこそこに、俺は仲里先生を置いて閂先輩の後を追った。
「先輩! いきなりどうしたんですか?」
「ひひひ、新たな心当たりが出来たのですよ……おや、丁度目的の人物が来てくれたようですね」
「え? ……あ」
廊下を歩く俺たちの前に現れたのは、閂先輩が目星をつけたもう一人の人物。
「よう萱愛、お前また人を殺したんだってな」
勝ち誇った笑みを浮かべて俺を見る、借宿長世だった。
「ひひひ、初めまして借宿氏……三年の閂と申します……」
「おっと、生徒会長サマには用はねえの。俺が用があるのは萱愛だ」
「な、なに?」
借宿は閂先輩を押し退けて俺の前に立つ。そして自信に満ちあふれた顔で言った。
「萱愛、お前に質問があるんだけどよ」
「質問?」
「御神酒を殺したのが、俺だって言ったらどうする?」
読み終わったら、ポイントを付けましょう!