【4年前 10月12日 午後1時21分】
「もう少しかかるか……」
柏さんとの廃工場での一件で自分で自分を刺した後、僕は入院することになった。傷はそこまで深くはないが、本調子に戻るのはもう少し時間が必要だろう。
本当なら、あの場で柏さんを獲物として殺すつもりだった。彼女の願いを叶えて、僕自身の願いも叶えるつもりだった。
そう、『自分の殺人衝動を満たしたい』という願いを。
柏さんとの一件で僕は完全に思い出した。幼い頃の殺人の記憶を。
その日、僕は父さんに連れられてどこかの自然公園にいた。そこで何が起こっていたのかは知らないけど、気づいた時には僕の目の前には背中に刃物が刺さった小柄な男性が倒れていた。
その人が誰かなんて知らなかった。たぶん父さんの知り合いの誰かくらいに思っていた。当然、僕とその人に繋がりなんてものはない。
だから僕は、安心してその人にトドメを刺せた。
ああそうだ、僕の願いはあの時から決まっていたんだ。
自分が他人の人生を一方的に壊す感覚。他人の人生を壊しても自分の人生は壊れないという確信。それらを自分の幸せとして喜ぶ心。
それこそが、僕が――棗香車が抱えている物の中身だ。
だから僕は嬉しかった。僕の本性を知った上で僕に協力して喜んで命を捧げてくる人間がいることが。
柏さんは最高の獲物だ。どこまでも僕に都合が良くて、どこまでも僕を受け入れてくれる。『他人を殺したい』なんて絶対に許されないであろう欲求を、彼女は自分の願いを叶えてくれる大切なものとして肯定してくれる。
僕の本性は彼女にだけ見せたい。柏さんだけが僕の本性を知っていればいい。幸四郎や母さんには見せてはならないだろうし、見せたくない。
いや、もう一人僕の本性を知っていても問題ない人がいた。
「香車くーん、いるー?」
聞き慣れた高い声と共に、まるで同年代にすら見える女性が入ってくる。
「あ、いたいた。こんにちは香車くん。入院したって聞いたからびっくりしたよ」
「すみません朝飛さん。お忙しいところ」
「いいって、いいって。かわいい甥っ子がケガしたって聞けばお見舞いの品も持っていくしお姉ちゃんの手助けもするよ」
そう言いながら朝飛さんは持っていたカバンから衣服や本、和菓子などを取り出してサイドテーブルに置いてくれた。
「それでさ、香車くん。一応確認したいんだけど」
「なんですか?」
「気に入った人でも見つけたの?」
朝飛さんは笑顔を浮かべてそう問いかけてくる。周りから見たら親戚のお姉さんに『好きな女の子でもできたの?』とからかわれている光景に見えるんだろうけど実際は違う。朝飛さんはこう聞きたいんだろう。
『気に入った獲物でも見つけたの?』
「ええ。久しぶりですよ、あんなに心が動いた相手は」
「そうなんだ。よかったねえ、香車くんにふさわしそうな相手が見つかって」
機嫌が良さそうに荷物を整理する朝飛さんを見て心を許しそうになるも、警戒は解かないでおいた。
母さんの妹である朝飛さんは僕の本性を悟っている。そして僕も朝飛さんの本性を悟っている。お互いにハッキリと口にしたことはなかったけど、僕と朝飛さんが同類であることはなんとなくわかっていた。
だから幼い頃の僕は朝飛さんを警戒していた。自分の本性を母さんや弟の槍哉にバラされたくなかったし、バラされそうになったらどうやって朝飛さんを消してしまおうかも考えていた。
そんな僕に対して朝飛さんは何かと笑顔を向けてくれた。その笑顔を見ると決まって槍哉が朝飛さんに甘え始めるのを見て、試しに僕も見よう見まねでやってみたら、槍哉は僕を頼ってくるようになった。
その頃から僕は、朝飛さんを当面の敵ではないと認識した。
「ところで香車くん、今日は紹介したい人を連れてきたんだけど、呼んでもいいかな?」
「紹介したい人ですか?」
朝飛さんの交友関係についてはほとんど知らないし、連れてこられたところで何を話せばいいのかはわからない。
だけどこのタイミングで朝飛さんが連れてくる人がどういう人なのか興味はあった。
「いいですよ、入ってもらってください」
「じゃあ呼んでくるね、クロエちゃーん」
朝飛さんが声をかけると、20歳前後くらいの黒髪の女性が入ってきた。長身でスラリとした体格に反して、妙にオドオドした態度が目につく。
「ひっ! あ、あの! はじめまして! な、楢崎久蕗絵です。あ、朝飛さんの、その、友達です」
「はじめまして、棗香車です。朝飛さんの甥です」
年齢的には朝飛さんの友達でもおかしくはない。だけどこの人には何か朝飛さんとは違う意味で異質なものを感じる。
「お二人はどういう関係なんですか?」
「前にクロエちゃんが私の職場に職場体験でやってきてね、その時からの友達なんだ。それとね……」
朝飛さんは僕に顔を寄せて囁く。
「私の『夜』のことも知ってる」
それを聞いて思わず声を上げて驚きそうになった。
『夜』というのが朝飛さんや僕が抱える本性を指す言葉なのは知っている。だけど朝飛さんはその『夜』を隠すために相手を安心させる術に長けている。それなのに朝飛さんの『夜』を見抜く人間の存在が信じられなかった。
「私からしたら、クロエちゃんは邪魔なんだよね。なのにこの子って自分を不安にさせてくれる人が近くにいてほしいんだって。だからさ……」
「わかりました。その先は言わなくていいです」
クロエさんがここにいるってことは、僕のことも知ってるんだろう。だったらやることはひとつだ。
「朝飛さんの『夜』は僕が解放しますよ」
そう言ってクロエさんを見ると、彼女はあからさまに身体を震わせ始めた。
「あ、ひ、あ……」
「とりあえずクロエさんと話してもいいですか?」
「うん、いいよ。それじゃ私はお姉ちゃんに連絡してくるから」
朝飛さんが病室を出ていった後、改めてクロエさんに声をかける。
「あの、いいですか?」
「ひっ! はいっ!」
「……」
さっきから妙に僕に対して怯えた態度を見せてくるけど、無視して話を進める。
「あなたは朝飛さんが抱えるものを……『夜』を知ってるんですね?」
「は、はい。初めて会った時から、私のことを殺せるかどうかって見定めてくれたんですよ。それがわかった時、この人の傍にいればずっと不安になれるって思ったんです」
「でも朝飛さんはあなたを排除しようとはせず、代わりに僕を紹介したんですね」
「そうですよ。香車くんの側ならもっと不安になれるよって言ってました」
要するに厄介払いで僕に押し付けてきたのか。確かに朝飛さんからしたら自分の本性を知る人間に傍にいてもらったら困るだろうし、その気持ちはよくわかる。
でも僕は朝飛さんがこの人を嫌う理由がもっと他にあるような気がしてならなかった。
「それでですね、今日は香車くんに頼みがあって来たんですよ」
「頼みですか?」
「ええ。エミちゃんの次は私にしてくださいって頼みに来たんです」
その名前を聞いた瞬間、僕の身体は即座に動いていた。
「ひっ!」
クロエさんの肩を掴み、こちらに引き寄せてもう片方の手で首を掴む。
「……知ってること、洗いざらい吐いてください」
「ああ、いいですね……こわい、こわい、うれしい……」
「僕はあなたが柏さんとどんな関係なのかと、どこまで僕のことを知っているのかを洗いざらい吐けと言ってます。さっさとしてください」
「ダメですよ」
しかし僕の腕はクロエさんの肩から強制的に剝がされた。
「ぐうっ……!?」
「あれえ? まだ本調子じゃないんですねえ。本来の香車くんだったら、私のことをもっと完璧に押さえつけてくれるんでしょうね。ああ、こわい、こわい」
なんだこの人、ものすごく力が強い。傷の痛みもあるし、力づくで聞き出すのは無理か。ならどうするか……
『自分を不安にさせてくれる人が近くにいてほしいんだって』
ああ、そういうことか。朝飛さんは僕にちゃんとヒントをくれていた。
「すみませんでしたクロエさん。ちょっと僕も驚いてしまっただけなので、放してくれますか?」
「あ……」
申し訳なさそうな表情を作って謝罪の言葉を口にすると、クロエさんはガッカリしたように手を放した。
どうやらこの人に対して殺意や敵意を向けるのは逆効果らしい。
「それで、なぜあなたは柏さんのことを知ってるんですか?」
「エミちゃんは私の従姉妹なんですよ。まあたぶん向こうは私のこと覚えてないと思いますけど」
「なら僕と柏さんの関係を知っている理由は?」
「さっきの朝飛さんとの会話から推測しました。あなたが気に入る人は、きっとエミちゃんだろうって」
……なるほど。カマをかけられたわけか。
さて、どうしようか。このままこの人を野放しにはしておけないし。かと言って力づくで殺せる相手でもなさそうだし。
「それで、私のお願いは聞いてくれますか?」
「柏さんの次はあなたにしてくれと? 僕だって誰でもいいわけじゃないですよ」
「そうですか。香車くんに断られるなら、別の人にしましょうか。例えば……」
そしてクロエさんは僕を見下ろして誘うように微笑む。
「柳端くんとか」
――この瞬間、僕はこの人を嫌う理由を明確に理解した。
「……僕があなたのお願いを聞かなかったら、幸四郎に僕の本性をバラすと?」
「そうは言ってませんよ。でも、柳端くんが私に敵意を向けるとしたら、あなたに関わることでしょうね」
「わかりました。どうやら僕はあなたの存在を許せそうにありませんし、柏さんの次はあなたを狙いにいきますよ」
「あははっ! よかったぁ……これで私はずっと不安になれます」
そしてクロエさんはベッドから離れて頭を下げる。
「それじゃ、香車くん。エミちゃんのことはよろしくお願いしますね」
そう挨拶して病室を出て行ったけど、要はこう言いたいのだろう。
『エミちゃんのことは確実に殺してくださいね』
おそらくは朝飛さんも僕と同じ理由で彼女を嫌っている。
あの人は自分を不安にさせてほしいと言いながら、周りの人間を操作できるものだと思っている。僕を見て必要以上に怯えた態度を取るのも、そうすれば相手が苛立つとわかっているからだ。だから朝飛さんも僕もあの人を嫌っている。
好きなことをして生きていきたい僕らにとって、自分の行動を操作しようとする相手は許しがたい存在だ。
「失礼するよ。香車くん」
聞こえてきた芝居がかった口調の声で、曇っていた心が一気に晴れやかになる。気をつけないと顔が緩んでしまうかもしれない。
目を向けると、初めて出会った時と同じく底知れない魅力的な微笑みを浮かべた女性が立っていた。
ああそうだ、僕はこの人を魅力的だと感じている。『自分こそが君の第一の犠牲者だ』と名乗り出てきたこの人を。僕の願いを叶えてくれて、同時に自分の願いを叶えようとしているこの人を。
「柏さん、今日は早いですね」
「ああ。柳端くんに見つからないように時間をズラしたのだよ。彼は私を嫌っているようだからね」
「助かります。僕としても幸四郎には悟られたくないので」
僕を気遣ってくれるその優しさがたまらなく嬉しい。そして彼女の願いが僕の願いと一致していることがたまらなく嬉しい。神様がいるかどうかなんてわからないけど、僕と柏さんを引き会わせてくれた存在がいるなら、泣いて感謝を述べるかもしれない。
だけど今日の柏さんは、どこかソワソワとしているように見えた。
「どうかしましたか?」
「……ふむ、私としたことが少し妬いているようだ。獲物の分際で君の心が他の獲物に向くのを妨げる権利などないというのにね」
「ああ、さっきの人のことですか」
どうやらクロエさんとの会話を立ち聞きされていたらしい。
「私の後にも君の愉しみを与えてくれる人間がいるのは喜ばしい限りだよ。それなのに私は、一瞬でも君の心が他の獲物に移ってしまうのが我慢ならないらしい。まったく、我ながらはしたない限りだよ」
そう言った柏さんはいつもの微笑みを浮かべたままだ。だけど僕は確かに感じた。
柏さんの声が微かに震え、その顔が少しだけ赤みがかっているのを。
ああ、うれしいなあ。こんなに魅力的な人が、こんなに理想的な人が、こんなにも僕を悦ばせてくれる人が、他の誰でもないこの僕に命を捧げたいと思ってくれてるんだ。こんなに嬉しいことがこの先あるんだろうか。
だから僕は絶対にこの人を他に譲りたくない。もちろんさっきの楢崎久蕗絵とかいう許しがたい女にも邪魔されるわけにはいかない。
「安心してくださいよ。今の僕は柏さんしか見ていませんから」
そう言うと、柏さんは一瞬目を丸くした後に再び微笑んだ。
「……嬉しいよ、香車くん」
絶対に誰にも渡さない。柏恵美は僕の『獲物』だ。
だから万が一、あの女が柏さんにちょっかいをかけることがあるなら、対策方法も教えておかないといけない。
「そうだ、さっきの女性がもし柏さんに何かしようとしてきたら、絶対に何も手を出さずにその場に留まっててください」
「なぜだね?」
そう、僕はもう楢崎久蕗絵の弱点もその対策方法も予想がついている。僕がこの先、楽しく生きていくにはあの女を確実に消さないといけない。
「あの人って、自分を嫌っていない人は攻撃できないんですよ」
だから僕は、あの人への嫌悪感を消した状態で、ゆっくりあの人を殺せばいい。
なんのことはない、簡単なことだ。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!