「『愛の泉』、萱愛陽泉、ね……」
午前の講義が終わったと同時に、私は閂に呼び出されて大学の近くの喫茶店に入った。中に入ると、既に席に着いていた閂と、同じく呼び出されたらしい樫添さんが私を出迎えた。
そして私が何の用事なのかを問いかける前に、閂が口に出した名前が萱愛陽泉。そう、先日ファミレスで会った、あの異質な男だった。
「かなりの危険人物だという予感はしていたけど、まさか萱愛の父親だったなんてね」
「ひひ、こちらもまさか黛先輩が萱愛陽泉氏に遭遇していたとは思っていませんでした……」
閂はいつもの通りに小さく笑っているが、その目は笑っていない。コイツからしてみれば自分の恋人の父親が危険人物であり、かつ自分たちの平穏を脅かす存在なのだ。笑い事ではないのだろう。
ちなみにエミはこの場には同席していない。私としては、エミに萱愛陽泉に関する話を聞かせること自体が不都合だ。なので彼女には一人で昼食を取ってもらっていた。
「ひひっ、それで先ほどお話しした通り、萱愛陽泉氏は柳端氏を殴打し、萱愛氏を恐怖させる存在でございます……私としても、これは由々しき自体でしてねえ……」
「なるほどね、確かに危険なヤツだっていうのは間違いないみたいね」
「ええ、ええ、そうなのですよ。黛先輩としても、これは他人事ではありません……なぜなら」
「その萱愛陽泉が、萱愛の知り合いであるエミに危害を加えないとは限らない」
「ひひひ、理解が早くてなによりです……」
閂はエミの存在を持ち出して、私にも警戒をするように促しているが、こいつの真意はそこではないだろう。
「で、でも黛センパイ。今の時点で、その萱愛陽泉って人が、柏ちゃんに接触する可能性は低いんじゃないですか?」
「確かにね。萱愛はそこまで頻繁にエミに会ってるわけじゃない。エミをこの先萱愛に会わせないようにすれば、当面の危機は回避できる」
確かに話を聞く限り萱愛陽泉は危険な男だ。私も直接会った時にその危険性を直感した。さらに陽泉はエミの後見人である斧寺識霧とも何らかの関係がある。警戒しておくに越したことはないだろう。
だけど樫添さんの言うとおり、現時点で萱愛陽泉がエミに何らかの危害を加える可能性は低い。ならば私たちがするべきことは、今まで通りエミを守る。それに尽きる。しかし……
「アンタはそれじゃ困る。そうよね、閂香奈芽さん?」
「ひひひひ……」
小さく笑う閂を見て、自分の予測が当たっていることを確信する。そもそも閂がこの話を私にしてくる時点でおかしなことなのだ。この女が何の裏もなしに、わざわざエミに迫る危険を教えてくるわけがない。
そして今回の件で一番危機に瀕しているのはエミではなく萱愛小霧。閂の愛しい愛しい恋人だ。それを考えれば、閂の目的はひとつ。
「萱愛を助けるために、エミの危機を利用して私たちをアンタに協力させる。アンタの狙いはそこでしょう?」
「ひひっ。ご明察でございます」
やはり閂は私たちを萱愛救出に利用するつもりなのだ。だが、それに対する私の返答は決まっている。
「でもね、私はアンタに協力する気はさらさらないわ。萱愛には悪いけど、これはアイツの家族の問題。それなら萱愛自身で乗り越えてもらわないといけない。違う?」
今回の件で一番やっかいなのは、陽泉が萱愛の父親であるという事実だ。仮に萱愛が遠くの土地に引っ越そうとしても、陽泉の許可がなければそれは難しいだろう。そして陽泉は萱愛を自身から離そうとはしない。そうであれば、萱愛自身で父親を説得してもらうしかない。これは萱愛家の問題であり、私たちの問題ではないのだ。
「ですが黛センパイ、このまま萱愛を見捨てるというのも……」
「気が引けるのはわかるわ、樫添さん。でもあなたなら、私がこういう時に誰を優先するか、わかってるでしょ?」
「……はい」
そう、私はもう選んでいる。
柏恵美を殺させない。柏恵美を自身の支配下に置く。私は自分のエゴのために、彼女の願望を潰した。その選択をした人間が、今さら彼女以外の人間を優先するなど許されない。
私が守るべき人間の数は、既に満員なのだ。
「それに見捨てるなんて言ってない。萱愛自身で乗り越えろって言ってるだけ。陽泉は確かに危険かもしれないけど、父親が過保護なら自分で振り切るしかない」
「ひひひ、確かに黛先輩のお言葉は正しいですね。それこそ、萱愛氏のように……」
「何が言いたいの?」
「いえいえ、他意はございません……では、話題を変えましょう」
閂はそう言うと、鞄からクリアファイルを取り出した。
「私も、少し調べ物をしましてね。萱愛陽泉氏について……」
「調べ物、ね。アンタそういうの得意だったわね」
閂は以前、私やエミのことを盗撮していたことがある。コイツにとっては、プライバシーなんてものは障壁にならないのだろう。
「あの方の過去を調べるのは容易でしたねえ、なにせこのような事件を起こしているのですから……」
「事件?」
『事件』という単語を聞いて、ものものしい雰囲気を感じ取る。閂のクリアファイルの中には、新聞記事のコピーが入っていた。その記事の見出しにはこう書かれている。
『路上で中年男性を撲殺 子供を守るための過剰防衛か』
そしてその見出しの横には犯人の顔写真が載っていた。
「これって……!!」
『萱愛陽泉容疑者(33)』と隣に書かれた顔写真が。
「そうなのですよ、黛先輩。どうやら萱愛陽泉氏は……十二年前に人を殺して、最近まで服役していたそうですねえ……」
「萱愛陽泉が、殺人犯?」
「この記事によれば、殺人というより傷害致死罪に問われたようですがね」
「……」
閂から記事を受け取り、内容に目を通してみる。確かに日付は十二年前のものだった。
『夜の繁華街の路上で安達義彦さん(50)を素手で何発も殴打して死に至らしめたとして、警察は〇〇市在住の会社員、萱愛陽泉容疑者(33)を傷害致死の疑いで逮捕した。警察の調べに対し、萱愛容疑者は『泥酔していた安達さんが息子を殴ったため、彼を守るために安達さんを殴った』と供述しているという。目撃者からも、安達さんが萱愛容疑者の息子を怒鳴りつけていたという証言があり、警察は事件のいきさつを詳しく調べている』
記事の内容はそういったものだった。しかし気になるのはやはり、萱愛陽泉の息子という部分だ。
「この息子っていうのは……」
「ええ。萱愛氏で間違いないでしょう」
「じゃ、じゃあ、萱愛は父親が人を殺す現場を目撃したってことなの?」
「状況から考えて、その可能性は高いですねえ」
萱愛にとっては、ショッキングな出来事だっただろう。おそらくは萱愛が陽泉を恐れている理由もそこだ。だけど問題は他にある。
「萱愛陽泉が、過去に人を殺している。しかも、息子である萱愛を守るために」
重要なのはそこだ。この記事は、ひとつの事実を表している。
萱愛陽泉という男は、息子である萱愛小霧を守るためであるなら、人を殺すことも厭わない人物だという事実。
「ひひ、黛先輩。ご理解いただけましたか? 先ほど申し上げました、今回の件が他人事ではないという言葉の意味が」
「……確かにね」
全く、相変わらずこちらの急所を的確に突いてくる女だ。つまり閂はこう言いたいのだろう。
萱愛陽泉が殺人犯だと知れば、エミが陽泉に接触する可能性があると。
それどころか、おそらく閂は私を協力させるためなら、エミに陽泉の過去を伝えるくらいのことはしてくるだろう。そうなってしまえば、エミがどう動き出すかはわからない。
そうなると、私が取るべき行動はひとつ。
「わかったわ、アンタの話に乗ってあげる」
「ひひ、乗ってあげる、とは?」
「アンタに協力してあげるって言ってるのよ。エミの周りにこんな危険なヤツをほったらかしにできないしね」
「ひひひ、ありがたい申し出でございます……」
閂はわざとらしく頭を下げてきた。やっぱりコイツはあまり好きになれない。
「で、でも黛センパイ。萱愛を助け出すって言っても、どうするつもりなんですか? 現状、陽泉は萱愛と同居してるんでしょうし」
「……それは」
確かに陽泉は刑期を終えてこの街に帰ってきたのだろう。ならば息子である萱愛から引き離すのは難しい。
「ひひ、ひひ。私もそこが問題だと考えておりましてね。ですがひとつ、名案があります」
「名案?」
そして閂は、左目を細めながら言った。
「萱愛家への、家庭訪問ですよ」
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