幼い頃の私には、十二歳年上の兄、空木晴天こそが人生における手本だった。
私が小学校に入る頃には、兄は医学部に合格し、医者としての成功を両親から嘱望されていた。親の興味はまだ能力がはっきりしない次男より、輝かしい将来を送る可能性が高い長男に注がれているのが、言葉ではわからなくても感覚で理解できた。
しかし当の兄本人は、私の世話を焼きたがった。自分の勉強を疎かにすることはなかったため、両親も兄が私の面倒を見ること特に咎めなかった。
兄は私と一緒に遊んだり勉強を教えることに一切嫌な顔をしなかった。その日も学校の宿題がわからないと言ったら、兄が丁寧に教えてくれた。
「どーんてんくん。どんてんくん。宿題はできたかなー?」
「うん、できたからちょっと見てくれる?」
「あーあーあー、どんてんくんは偉いねー。ボクが教えたことをちゃんとわかってくれる。本当にいい弟だよ」
幼心に、よその家庭における兄弟よりも私たちの仲は良好なのだと理解していた。小学校のクラスメイトたちは、『兄ちゃんに殴られた』とか、『妹が泣いてばかりでむかつく』などと、兄弟に対する文句を並べていた。
しかし同時に、私にはある疑問があった。
「あの、兄さん。どうしてぼくにかまってくれるの?」
兄は時間がある時は必ず私の傍にいてくれた。両親が私に対して深く関わってこない代わりに、兄が私の悩みも寂しさも受け止めてくれた。それが喜ばしいことであることはわかっていたが、なぜそこまでしてくれるのかが疑問だった。
なぜなら、兄は自分のやりたいことをやってないのではないかと思ったからだ。
幼い私は、兄に悩みも不満も寂しさもぶつけ、甘えながら生きてきた。しかしそれが当然のことではないことにも気づいていた。兄は自分のやりたいことを我慢しているのではないか。私の存在が、兄の足を引っぱっているのではないか。そう思っていた。
そんな私の質問に、兄はこう答えた。
「ボクはどんてんくんに構いたいから構っているんだよ」
爽やかな笑顔でそう言ってのける兄の言葉を嘘だとは思わなかった。しかし、兄が私の面倒を見ることに楽しみを感じるのであれば、その理由が何なのか気になった。
両親は私のことを見てくれない。私に価値を感じていない。それなのに、兄は私のことを見てくれる。その違いが何なのか気になった。
そして月日が流れ、私は十歳に、兄は二十二歳になった。そんなある日、私は父に呼び出された。
「曇天、昨日のテストの結果を見たぞ。なんだあの点数は」
私の父は私に怒りの形相でそう言った。当時、私立の小学校に通っていた私は、既に学校の授業につまずくことが多くなっていた。その結果、テストで平均点をわずかに下回ってしまったのだ。
「晴天はあんなに頑張っているのに、なぜお前は頑張らない? そんなことだから、お前はいつまでも晴天を困らしているんじゃないのか?」
父にとって、結果を出している者は『頑張っている人間』であり、そうでない者は『頑張っていない人間』だった。私は決して勉強に手を抜いていたわけではなかったが、それを言ってもただの言い訳としかとられなかった。
しかしそんな私に対しても、兄は助け舟を出してくれた。
「あーあーあー、お父さん。その辺にしておいてくれないかなあ? ボクはどんてんくんの頑張りを見てたからさ」
「……晴天がそう言うなら、いいだろう」
父は兄を見て、すぐに顔を逸らしてその場から離れた。私には、父が兄を少し恐れているようにも見えた。
いや、実際そうだったのかもしれない。既に兄は中堅企業の会社役員を務めている父よりも大きな社会的成功を掴むであろうと周囲から予感されていた。父自身も、そんな兄に強く言えない背景があったのかもしれない。
「どんてんくん、大丈夫かな? お父さんに何かきついことを言われたら、すぐにボクに相談してくれていいんだよ」
「兄さん、なんでぼくのことを助けてくれたの? 悪いのはぼくなのに」
私としても、兄のように優秀ではない自分を嫌悪していた。自分がもっと努力すれば、怒られていないのだと思い込もうとしていた。
そんな私に、兄は優しく微笑んだ。
「ボクはね、どんてんくんの『希望』になりたいんだよ」
「『希望』?」
「どんてんくんは、自分を責めやすいところがあるからね。ボクが君の『希望』になることで、生きることが素晴らしいことなんだと示したかったんだ」
「で、でも、ぼくは……兄さんみたいに頭も良くないし、誰にも好かれてないよ。兄さんに助けてもらう資格なんてないよ」
「あーあーあー、かーんちがいしているのかなあ、どんてんくんは」
「え?」
そして兄は、私の顔を両手で掴み、目線を上に向かせた。
「助けてもらう資格がどうとかじゃないんだよー。ボクが君に生きていてほしいんだ。そのために、ボクは君の『希望』になろうとしていているんだよー」
――兄のその言葉が、『生きていてほしい』という嘘偽りのない言葉が。
当時の私にとって、どれほどの救いであったか。言葉では言い表せなかった。
だがその『希望』は私にとって暖かい光ではなく、身を焼き尽くす炎であることを知るのは、その一週間後のことだった。
その日、兄は大学での研究が大詰めになり、帰りが遅くなると連絡があった。両親と三人だけで過ごすのは、私にとっては恐怖でしかなく、気分は憂鬱だった。
そして、父が仕事から帰ってきた時、事件は起こった。
「曇天! 曇天はいるか!」
帰ってくるなり、父は私に向かって怒鳴り込んできた。そうされる心当たりは全くなかったので、既に私は泣きそうになっていた。
「曇天!」
「な、なに? お父さん」
「お前、晴天が書いていたレポートを捨てたらしいな。どういうつもりなんだ!」
「は……?」
父の言葉をまとめると、兄が大学の課題でまとめていたレポートのデータを、私が消去したと主張していた。
しかし当然、私はそんなことをした覚えはない。兄が所有するノートパソコンに触れてすらいないし、小学生の私が大学生の研究内容など知るはずもなかった。
しかし父は、私への怒りを収めなかった。
「そんなに晴天が羨ましいんだったら、お前がもっと努力して晴天に追いつけばいいだろう! 足を引っぱるとは、本当にお前はクズだな!」
「待ってよお父さん。ぼくはそんなことしてないよ」
「嘘をつくな! さっき晴天から連絡があった。『曇天にパソコンを貸した後に、保存していたはずのデータが消えている』とな! バックアップは取っていたからなんとかなったらしいが、これで晴天が単位を落としたらどう責任を取るつもりだったんだ!」
「し、知らない。ぼく、そんなことしてない!」
理解が追いつかなかった。心当たりのない悪事を咎められていることについてもそうだが、何よりもあの兄が私を疑っているという事実を理解できなかった。
兄さんはぼくの『希望』のはずだ。ぼくが生きるための『希望』になってくれる人のはずなんだ。
私の頭に、その言葉がぐるぐると回っていた。
「来い! お前みたいな卑怯者にこの家にいる資格はない!」
「ま、待って! ぼく、本当に知らないんだよ!」
「まだ言うか! 見下げはてたヤツだな!」
父は私の腕を引っぱり、家の外に連れ出した。そして道路に私を蹴り出すと、扉を閉める。
「しばらく外で頭を冷やせ! 謝罪の意思が見られるまで、お前を家には入れん!」
扉が閉められ、夜の道路に一人投げ出された私は、呆然と座っているしかなかった。
十数分後。
「なんで……? なんでこうなっちゃったの?」
私は泣きながら、夜の街を歩いていた。玄関を叩いてみがが、扉を開けてくれる様子はなく、絶望した私は当てもなくさまようしかなかったのだ。
「兄さん、なんで……? なんでぼくを疑ったの……?」
兄は私をいつも助けてくれる。そう思っていたのに、兄は私を疑った。父に怒られたことよりも、兄が自分を信じてくれなかったことの方が、私にはショックだった。
しばらく街を歩いたが、やがて空腹に耐えかねて私は座り込んでしまった。しかし道の真ん中で座り込むと通行人に舌打ちされたため、近くにあったビルの軒下に座り込んだ。
季節は秋だったが、夜になれば当然のごとく冷たい風が吹く。寒さが私を更に追い詰めたが、その時の私にはもうどうでもよかった。
この世に、『希望』なんてない。もう、生きていたくない。
「ねえ、君。どうしたの?」
そんな私に声をかける人物がいた。顔を上げると、スーツを着た女性が私を覗き込んでいた。
「あ、す、すみません。すぐ、はなれます……」
また怒られると思った私は、その場を離れようとしたが、女性に腕を掴まれた。
「待って。もしかして、迷子なの? 大丈夫。おばさんは怒ってるんじゃなくて、君が心配になってただけだよ」
「……はなしてください。ぼくは、もういいんです」
「何がいいの? 君みたいな子供が、わかったようなことを言うんじゃないよ」
女性が強い言葉で𠮟責してきたことに驚いたが、不思議と父の怒鳴り声とは違い、恐怖はしなかった。
「とりあえずさ、ご両親の連絡先とかわかる? 私が電話してあげるから」
「……お姉さんは、どうしてぼくを助けようとしてるの?」
「どうしてって……ま、私も人の親だからかな。自分の子供が迷子になっていたとしたら、誰でもいいから助けてほしいってなると思ったからよ」
女性はしゃがみこんで私と目を合わせる。不思議とその目を見ると、安心した。
「君、名前は?」
「空木……曇天です」
「そう。私はさ……ああ、今は違うんだったわ。とりあえず、『夕飛』と呼んで頂戴」
女性は……夕飛さんはそう言って微笑んだ。
そしてこの出会いが、私が兄の思想から決別するきっかけになったのだ。
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