【7月30日 午前11時31分】
「生花! お前……目が覚めたのか!」
アタシを見た幸四郎は苦しみながらも少し笑っているように見えた。
ああ……いいね。アンタのそういう顔、すごくいいよ。なんだかんだ言って、アンタはアタシを見捨てなかった。だからこんなヤツらのアジトにまで付いてきてくれた。直接聞いてもアンタは否定するだろうけどね。
「クロエ嬢……悪いけどアタシはこっちに付くよ……幸四郎がいる方にねぇ!」
力を振り絞って繰り出した蹴りは、すんでのところで避けられた。
「ああ怖い、怖い、こわい。やっぱりあなたと関わってよかったですよ。こんなに怖い子が私の前にいてくれるなんて、幸せです」
「そうかい。アタシはアンタと関わるのは金輪際ゴメンだねえ!」
クロエ嬢は脅しには屈しない。この女には恐怖はむしろご褒美だ。蹴りを入れようしたところで引き下がるようなヤツでもないんだろう。
「でもいいんですか? このままじゃ柳端くん取られちゃいますよ? せっかく手に入れたのに取られちゃいますよ?」
だけどその言葉が、アタシの心からは恐怖を消し去った。
「ヒャハハ、やっぱりアンタ、なんもわかってないねえ」
「はい?」
「幸四郎を取るも取らないもないのさ。アタシにとっちゃ、大事なのは今のこの瞬間だけ。ずっと幸四郎を手元に置いとく必要なんてない」
そう、誰がなんと言おうと幸四郎は今ここにいる。アタシを見捨てなかったからここにいる。だからこの先、佳代嬢でも恵美嬢でもまゆ嬢でも好きに幸四郎を持っていけばいい。
さっきまでのアタシは失う恐怖に怯えていた。あの朝飛嬢が自分の命を狙いに来るヒリヒリした刺激を楽しむこともできずに、『絶頂期』を楽しむこともできずに負けた。そんな生き方はもうゴメンだ。失うことに怯えるくらいなら、『生きていてよかった』と思える瞬間を、『絶頂期』を、何度も得ればいい。
「欲しくなったら……また取りに行くだけさね!」
アタシは何を奪われようが、欲しい時に取り返す。それがアタシの生き方だ。
「……ああ、こわい。でも、今はどいてもらいたいですね。だってエミちゃんがいなくなってもらわないと困りますから」
「どかせてみなよ。アタシもアンタらが邪魔で仕方ないのさ」
幸四郎がコイツを敵視している以上、クロエ嬢はアタシの敵だ。
「蹴り飛ばしてやるよクロエ嬢ぉ!」
前蹴りを放ったけど、クロエ嬢は逆にアタシの脚を掴もうとしてくる。だけどそれは予想通りだ。掴まれる前に後ろに跳んで、壁を蹴って飛びかかるようにもう一度蹴りを放つ。
「くっ!?」
さすがのクロエ嬢も反応が遅れて、ガードするのが手一杯だった。
「ヒャハッ、アンタに掴まれちゃ終わりだからねえ。素早く蹴って蹴って蹴りまくってやんよぉ!」
コイツの戦い方は相手を掴んで力づくで抑え込むのがメインだ。逆に言えば掴まれさえしなきゃそれほど怖い相手でもない。
「クロエおねえちゃん!」
「エミ! 行っちゃダメ!」
「放して! 放してよ! クロエお姉ちゃんを叩かないで!」
「アンタが行くのはこっちよ!」
恵美嬢がなぜかクロエ嬢をかばおうとしている。理由はわからないけどあの様子じゃまゆ嬢が恵美嬢をこのビルから連れ出すのは無理だろう。
「生花! さっさとコイツを片づけてここを出るぞ!」
そう言いながら幸四郎が立ち上がってクロエ嬢の前に立ち塞がってくれた。ああ、いいねこれ。
「そう言って、アンタが先にやられるんじゃないよぉ? 幸四郎!」
「余計なお世話だ!」
「そうですか。みんな私のことが嫌いなんですね。うん、そうでなくちゃ」
その声を聞いて、アタシは直感した。
今までのクロエ嬢じゃない。相手に恐怖して怯えてばかりだったはずの女から、急速に別の空気を感じる。そしてアタシは、コイツから発せられる空気が何か知っている。
「私を安心させないで」
……まずい!
「幸四郎! 下がりなぁ!」
アタシの声に反応した幸四郎は動きを止めた。そのスキに幸四郎の前に出て……
「が……あ……」
……間一髪で、アタシが代わりにクロエ嬢の蹴りを受けることができた。
「ぐ、ぶぅ……」
ああ、ダメなやつだねこれ。蹴られた腹から強烈な違和感が襲ってくる。喉から熱い液体が上ってくる。口から何が出てきている。
「……生花?」
幸四郎の素っ頓狂な声が聞こえてくる。ハハ、アンタのそういう声、本当に聞いてて飽きないね。
そう思った後、アタシの身体から力が抜けてその場に受け身も取れずに倒れてしまった。
「おい……おい! 生花!」
幸四郎が駆け寄ってくる。まだクロエ嬢が前にいるのにも関わらず、アタシの顔を覗き込んでくる。
「あれ? エミちゃんたちがいませんね。ダメですよ、逃げちゃ」
クロエ嬢はビルを出て行ったけど、幸四郎はそれにも気づかずアタシから離れなかった。
「おい! しっかりしろ生花!」
「ヒャ、ハ……こうし、ろう……なに、泣いてんだい?」
「バカ野郎! お前、なんで、なんで……!」
なんで? ああ、なんで自分の代わりにクロエ嬢の蹴りを受けたことを聞いてんのかい。
まったく、アンタは本当に……ごちゃごちゃ考えるヤツだね。いちいち理由がないと納得できないのかい。
「生花! おい、携帯電話を貸せ! どこかにあるだろ! すぐ救急車を呼んでやる! しっかりしろ!」
「ヒャハハ……なんて顔……してんだい……」
メガネをかけていてよかった。必死にアタシの携帯電話を探す幸四郎の顔がよく見える。そしてアタシの心にかつてないほどの喜びと興奮が込み上げてきた。
ああ……これだ。アタシが欲しかったのって、これだったんだ。
「生花……ふざけるなよ……! ここで終わるなよ……! お前はまだ、俺に謝ってないぞ……!」
今の幸四郎はアタシのために泣いてくれている。アタシを助けるために必死になっている。他の誰でもない、アタシのために。
「幸四郎……」
「なんだ!? いや、無理して喋るな! すぐに助けてやる! すぐに……!」
ざまあみろ佳代嬢。ざまあみろ恵美嬢。ざまあみろ棗香車。
これから先、アンタたちがどんなに幸四郎の心を掴んだとしても……
「今だけは……アタシのもんだ……」
今のこの瞬間だけは、幸四郎はアタシのもんだ。
「おい! 何言ってる! まだだぞ……! お前はまだ……!」
ああ……アタシは今、『絶頂期』を手に入れている。アタシはこの瞬間のために生きていたんだ。
だからアタシは、心からこう思える。
「生きていて……よかった……」
そう呟いた後、アタシは何も見えなくなった。
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