それは、七年前のこと。私が中学二年生に上がると同時に転校した学校でのことだった。
「はっ、はじめまして。今日からこの学校に転校してきましたっ、黛瑠璃子、です。よろしくおねがいします」
つっかえながらどうにか自己紹介を終えた私に対して、新しい中学校のクラスメイトたちはまばらな拍手で出迎えた。
「はい、ありがとうございます。じゃあ黛さんは、そっちの後ろの席に座ってね」
担任である40代後半であろう男性教師は、あまり抑揚のない声で廊下側の角の席に座るように指示してきた。やっぱり、この人も別に私に興味ないんだろうな。
そもそも4月に転校生が来たところで、二年生に上がってクラス替え直後である生徒たちにとっては私は単なる新しいクラスメイトの一人でしかない。さっきの自己紹介も私だけが行っているのではなく、クラス全員がやっていることだ。『転校生』という物珍しい要素も、この状況では薄れているんだろう。
一方の私は、新しい環境に慣れる必要があった。他県から引っ越してきたわけなので、当然のことながら知り合いなんて誰もいない。前の学校における数少ない友達も連絡先やSNSのアカウントは知っているけど、特にやり取りをすることもなかった。周りのみんなが小学校の頃からの友達や一年生の頃に関係を築いた友達と盛り上がっている中、私は一から関係を築かないといけなかった。
新学期と同時に転校して一週間後。私は早くもその問題に躓いていた。
「あ、あの、次の教室って、どこ、なんですか?」
「は? そんなの事前にわかっておいてよ。アンタ休み時間ヒマそうなんだしさー。校内だってうろつけるでしょ?」
「……ごめんなさい」
移動教室の場所を同じクラスの女子たちに質問しても、嘲るような返答しか来なかった。理由はわかっている。既に完成されていた人間関係の輪に、私が入る余地がないのと、その輪に強引に入り込むほどの能力が私になかったからだ。
昔からそうだった。私には強い意志がないし、周りや他人に対する興味も薄い。だから周りも私に対して興味なんてないし、受け入れることもない。そのくせ他人に受け入れられないことにしっかり傷つく自分が嫌いだった。
なにかひとつでも、自分を言い表す要素が欲しかった。もっと言えば、自信が欲しかった。勉強の習慣は昔からあったから、成績だけは周りより良かったけど、あくまで学校内での話だ。全国のトップクラスと比べられるわけもない。
誰かに自分を導いてほしかった。私のことを意識してほしかった。そうすれば私の自分のことが好きになって、自信がつくのだろうと他力本願で自分勝手な考えを抱いていた。
何も行動していない人間に自信なんてあるわけがない。この頃の私は、それを理解していなかった。
新しい学校で誰とも会話をしない日々が一か月ほど続いた頃。クラス内にちょっとした騒ぎが起こった。
「ねえ、4組の工藤くんのこと聞いた!? 芸能事務所に声かけられて断ったらしいよ!」
「聞いた聞いた! 工藤くんイケメンだもんね! でも、なんで断っちゃったのかな?」
「なんか付き合いたい子がいるからそういう活動はしたくないんだって! もしかして、この学校の子だったりして!」
教室で大声で話しているから盗み聞きもなにもなかったけど、要は4組の工藤とかいう男子に彼女がいるかどうかで盛り上がっていたみたいだった。
そういえば、工藤明路という名前は何度か聞いたことがある。背が高くて顔がよくて清潔感がある男子として学校内で何かと名前が上がる男子だ。遠くから顔を見たことはあるけど、確かに格好良かったし、人気者なんだろうなとは思っていた。
だとしても、その工藤くんに私が関われるわけもないし、今の話題に乗れるわけもない。そう思うと自分がいかにこの空間における異物なのかを思い知った。
その日の放課後。授業が終われば部活に所属してない私は帰る以外の選択肢がないので、さっさと荷物を纏めていた。
「ちょっとすみませーん。マユズミさん、いますかあー?」
思いもよらぬタイミングで名前を呼ばれたから咄嗟に身体が震えてしまった。声の方向を見ると、茶髪で胸元を開けた派手な見た目の女子がニヤニヤと笑いながら腕を組んで立っていた。
えーと、この人は確か2組の……名前が出てこない。一方でクラスメイトたちは彼女と仲がいいのか、その顔を見るなり近寄って行った。
「あれ、ミーコじゃん。どしたの?」
「えー? いやさー、このクラスにマユズミさんって人いるじゃん。その人にさー、ちょっと耳寄りな情報があるんだよねー」
『ミーコ』と呼ばれた女子は、私の姿が目に入っているはずなのに、なぜか直接は話しかけてこなかった。そういう遠回しなやり方は好きになれないから、無視して帰ってしまおうか。
「なんかさー、4組の工藤くんがマユズミさんに話があるんだってー」
「は?」
ミーコさんの言葉に、自分でもわかりやすいほどに動揺してしまった上に、声まで出してしまった。工藤くんが私に話がある? なんで? 会ったこともないのに?
私の声が聞こえたのか、ミーコさんはこっちに近づいて来た。
「あれー? いたんだマユズミさん。今の話聞いてたよねー? 工藤くんがさー、話があるらしいよ」
「話があるって、何の用ですか?」
「えー、そこは聞いてないよ。あ、でもさー。もしかしてアレじゃない? 工藤くんって好きな人いるとか言ってたんだよねー」
「はあ」
「うん、だからさ。そういうことなんじゃなーい? ほら、チャンスだよマユズミさん。行ってきなよ」
……普通に考えれば、話したことすらない工藤くんが私のことを意識しているはずもない。ましてや好きだなんて。そんなことはあり得ない。
だけど。もし本当に、彼が私のことを好きなのだとしたら。私と付き合いたいと思っているのだとしたら。
私に興味を持ってくれている人の存在に期待してしまう。
「あの、工藤くんって、今どこにいるんですか?」
「まだ教室にいるよー。ほら、早く行きなよ。こういうのはすぐ行動しないと」
浮かれすぎてて、ミーコさんや周りの女子たちがクスクスと笑っているのも嫌な意味だと思わなかった。促されるままに教室を出て、4組の教室に向かっていった。
4組の教室にはまだ大部分の生徒が残っていて、工藤くんもいた。ミーコさんや私のクラスの女子たちも遠巻きに様子を見ている。
教室の後方で女子に囲まれて喋っている、背の高い金髪の男子。どの子に対しても優し気な笑顔で接している姿を見ると、私なんかとは住む世界が違うと思ってしまう。
でも、彼が私に話があるというのなら、行かなければならない。
「あの、すみません!」
その場にそぐわない大声を出してしまったから、工藤くんだけじゃなくて教室中の視線が私に向いてしまった。こういう時に限って普段他人と会話していないことの弊害が出てきてしまうのが恨めしい。
「はあ、なにアンタ?」
そう言ったのは工藤くんではなく、周りにいた女子だった。
「その、工藤くんが、私に、話があるって言われたから、来たんですけど……」
「は? そんなわけないじゃん! つーか誰って感じだし!」
「工藤くんがアンタみたいな地味女に用があるわけないじゃん。なに調子乗ってんの?」
女子たちに囲まれて侮蔑の言葉を投げかけられたことで、既に自分の行動を後悔し始めていた。言われてみればその通りだ。私はなにを勘違いしていたんだろう。
たぶん私はハメられたんだ。あのミーコとかいう女は私みたいな地味な女が無謀にも工藤くんに告白しようとする姿を大勢の前でさらし者にしてあざ笑うつもりだったんだ。私は他人を考えを知ろうとしなかったから、そんな想像すらできなかった。
こんな勘違い女を工藤くんが好きなわけがない。きっと誰も……
「ああ、君って1組の黛さんだよね。そうなんだよ。オレさ、君に話があったんだよね」
その言葉が、私の思考を止めた。
いや、私だけじゃない。工藤くんの今の言葉は、教室内の全員の動きを止めた。さっきまで私を罵倒していた女子たちも、ミーコたちも固まっている。
「え……?」
「なに驚いてるんだよ。オレが君に話があるって聞いたから黛さんはここに来たんだろ?」
「は、はい」
工藤くんは私の前に立って、優しく微笑んでいる。間近で見た彼の顔はくっきりとした美形で、肌も髪も綺麗に手入れされていた。なにより私より遥かに背が高く、大きいということが、彼が異性であることを私に意識させてくる。
「うん。それでさ、黛さん。お願いがあるんだけど」
「な、なんでしょう、か」
「オレと、付き合ってくれませんか?」
いとも簡単にその口から出た言葉に、私の身体はまたも固まった。
工藤くんが右手を差し出している。聞き違いじゃない。彼は、私に告白したんだ。
この私に、誰にも興味を持たず、誰にも興味を持たれないこの私に告白したんだ。
……ああ、そうだ。工藤くんって、そうだったんだ。彼は他人を外見や他人から伝え聞いた評価では判断しないんだ。ちゃんと私の中身を見て、その上で私を選んでくれたんだ。そうでないと私に告白する理由がない。
きっと私の何かが、工藤くんを惹き付けていたんだ。私には彼に告白されるほど、素晴らしい何かがあったんだ。だってそうじゃないか。こんなに格好良くてみんなの憧れの男が、私に告白してくれたんだから、そうでないとおかしいじゃないか。
だったら私に、この右手を拒絶する理由なんてない。
「……よろしくおねがいします、工藤くん」
両手で握った彼の手は、異性だということを証明するような大きさだった。
「メイジ」
「え?」
「付き合うんだからさ。オレのことはメイジって呼べよ。よろしくな、瑠璃子」
「……うん!」
感激のあまり、涙が出そうになる。家族以外に下の名前で呼ばれるのは初めてかもしれない。
「ちょ、え、なにこれ? 何が起こってんの?」
怒りと驚きが混じったような声を上げたのは、成り行きを見守っていたミーコさんだった。
「工藤くん、これ、なんの冗談なの?」
「ん、どうしたミーコ。なに驚いてんの?」
「いや、だって……なんで、黛さんに、告白してんの?」
「オレが瑠璃子に告白するのがまずいのか?」
「……くそっ!」
不機嫌そうに教室の扉を蹴って廊下に走っていくミーコさんを見て、私の心に暗い喜びが生まれた。
バカにしてた女が、メイジに選ばれてどんな気持ち?
嬉しかった。私という人間がこれで一気に認められたんだって思った。これから私は彼と一緒に楽しい日々を過ごして、それが私の自信に繋がっていくんだと思っていた。
その浅はかで他力本願な考えを持つ人間こそが、メイジにとっては格好の獲物であることも知らずに。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!