レストランでの食事を終えた私たちは、再びホテルのエントランスに戻っていた。
「あー、夕飛さん。じゃあ、さっきも言いましたけど、この辺りで記念撮影をしましょうか」
「一応聞くけど、何の記念なの?」
「いやだなあ。ボクと夕飛さんの距離が縮まった記念に決まってるじゃないですか」
「今日のやり取りで私との距離が縮まったと思うなら、精神科の診察を勧めるわ」
「あーあーあー、それなら心配いりませんよ。ボクは精神科医志望なので」
「アンタが精神科医になったら、また『希望』をバラまくんでしょうね」
「ええ、そうですよ」
あっさりとそう答えた兄に対して、夕飛さんは呆れたようにため息を吐きながらも、兄の要望に応えた。
「じゃ、さっさと済ませちゃって頂戴。それでアンタが満足するなら、付き合ってあげる」
「あっははは。やっぱりボクは夕飛さんのこと好きですよ。さて、と。じゃあ朝飛さん、ボクたちがあっちに並ぶんで、撮ってくれますか?」
朝飛さんにカメラを渡し、私は兄の隣に立ち、もう一方の隣に夕飛さんが立つ形に並んだ。
カメラを渡された朝飛さんは、先ほどの殺気を放つこともなく、無表情でカメラを構える。
「じゃあ、お姉ちゃん。撮るよ」
「あ、ちょっと待ってください。せっかくなんで、腕組んでもいいですか?」
兄は夕飛さんに左腕を差し出した。
「全く、アンタの無遠慮さにはもう尊敬の念すら感じるわ」
素直に兄の左腕に自分の右腕を絡ませて、夕飛さんはカメラに目を向ける。
「朝飛、さっさと写真撮って帰るわよ」
「うん、じゃあ何枚か撮るよ」
そしてカメラの電子音が鳴ると共に、兄は笑顔を浮かべた。
「いやー、よかったよかった。これでボクと夕飛さんが一緒に食事をした記念ができたなあ」
「そう、よかったわね」
「あ、そうだ。一応、これがボクの連絡先です。もしよかったら、またご一緒しませんか?」
兄が差し出した名刺を、夕飛さんは奪うように受け取る。
「……弟さんを真っ当に育てるなら、考えてあげてもいいわ」
「あーあーあー、ボクは今までもどんてんくんを真っ当に育ててきましたよ。何もやましいことはしていないです」
「私に弟を虐待する手伝いをしようとした男が、よく言うわ」
「それは勘違いですよ。あー、でもそうですね。強いて言うなら……」
そして兄は私に背を向けて、夕飛さんと向き合う。
「夕飛さんがボクに協力してくれたなら、どんてんくんに不必要な『希望』を完全に潰せたんですよね。ボクと夕飛さんが自分を助けてくれる“かも”しれないという『希望』だけを抱けたんです。そうならなかったのは、非常に残念だなあ」
その言葉を聞いて、私の背筋が凍った。
兄の言う私に不必要な『希望』。それはおそらく、私が兄から解放されたいという願望だ。
だが兄は、その願望を潰すことで、私に残された『希望』を兄だけにしようとした。私自身が抱いている願望を、不必要なものと断定した。
兄は、私の願望を潰すことで私を『希望』に縋らせようとしていたのだ。
その言葉は夕飛さんにとっても不快だったのか、彼女の拳が握りしめられていた。
「……アンタ、さっきの誓約書の内容、忘れてないわよね?」
「もちろんですよ。ボクは『希望』を失いたくはないので」
「なら、大人しくしていることね。そうでないと、朝飛がアンタのところに飛んでいくわ」
「わーかりました。大人しくしていますよ」
そしてその言葉を最後に、この奇妙な会合は終わりを告げた。
それから六年後。
兄は言葉通り、私を苦しめることはなくなった。以前のように、世間的に理想の兄を演じきっていた。
しかし私の方は、兄への信頼を取り戻すことはなかった。いくら兄が私に好意的に接しても、慈愛に満ちた顔をしても、その裏に私の願いを潰し、兄が望む『希望』を与えたいという本性があることを既に知っていたからだ。
そのうち、兄は大学を卒業し、医師免許を取得した。医者としてのキャリアを順調に積み始めた兄を両親は歓迎したが、私にはそれが恐怖でしかなかった。
おそらく兄は、精神科医になった後も患者に『希望』を振りまくのだろう。私に与えられなかった『希望』を、自分の患者に与えようとするのだろう。
しかし私に何かができるわけではなかった。結局、両親は高校生になった私には興味を向けなかったし、相変わらず兄と比較されて育った私には兄から与えられる『希望』もなければ、自身がこうなりたいという『願望』もなかった。
私に残ったのは、圧倒的な『生きづらさ』だけだった。
そんなある日のこと。兄は家に帰るなり、上機嫌に鼻歌を歌いながら私に語り掛けてきた。
「どんてんくん。どうやらボクが求めていた存在に出会えたみたいだよ」
「……どういうことですか? 兄さん」
私は兄を恐れるあまり、普段から敬語を使っていた。
「あーあーあー、ボクが考える『希望』を真っ向から否定する子に会ったんだよ。すごく変わった子でねえ。詳細は言えないけど、『絶望』を求めてやまない子なんだよねえ」
「兄さんは、その子をどうするつもりなんですか?」
「あー、そりゃもちろん、『希望』を持てるように尽力するよ。だってさあ」
兄はいつも通りの爽やかな笑顔を浮かべる。
「その子が『希望』を持てるようになれば、ボクはみんなに『希望』を与えられるだろう?」
――その言葉を聞いて、私は悟った。
もし、兄が言う『絶望を求めてやまない人物』が兄に屈した時、誰も兄を止める人間がいなくなると。
だから私は、内緒で兄の職場に足を運び、その人物を見極めることにした。
そして見たのだ、その人物……柏恵美を。
一目でわかった。この柏恵美という少女こそ、兄と対極の理想を求める人物であると。彼女が理想にたどり着けた時、私は兄を克服できるのだと。
柏恵美……柏様が求める『絶望』がどんなものなのかはその時点ではわからなかった。しかしこれだけは確信していた。
私にとって、柏様の境地に達することが、理想なのだと。
※※※
「……それでアンタは『死体同盟』を創設したってわけ? エミを守るために」
「そうです。私が柏様の境地にたどり着きたいという目的もありましたが、柏様が兄に屈することは何よりも避けたかったので」
曇天さんが語った過去を聞き終えて、私はわかったことを整理した。
空木晴天の目的は、他人の願いを潰して自分が思う『希望』を植え付けること。
晴天は弟である曇天さんを支配しようとして、夕飛さんとやらに阻止されたこと。
そして晴天にとっても、エミは倒すべき敵であること。
これらのことから、私はひとつの結論を導き出す。
「空木晴天が仮にエミを諦めるとしたら、エミが晴天の予想を超える必要がありそうね」
「ええ、私も同感です」
エミが晴天に屈するということは、『絶望』を求めるのを諦め、『希望』に縋るということ。
だが逆にエミが晴天の予想を超えて『絶望』を求め続けていれば、晴天はエミに『希望』を与えるのを諦めるかもしれない。
それならばエミが負けるはずがない。私が知っているエミは、どこまでも『殺されたい』と願い、どこまでも『絶望』を求めている。
あんなヤツに、エミが負けるはずがない。
そこまで考えたところで、部屋のインターホンのチャイムが鳴った。どうやら、さっきも話に出てきた夕飛さんとやらが来たらしい。
「ようこそお越しくださいました夕飛さん。カギは開いておりますのでお入りください」
曇天さんが対応すると、玄関の扉が開き、一人の女性が入ってくる。
グレーのスーツを着たその女性の顔は、確かにさっきの画像に映っていた女性……
「……!!」
コイツは……!!
なんでだ、なんで気づかなかった。なんでさっきの画像を見た時点で気づかなかった。
コイツは、コイツの顔は……!!
「待てっ! 黛!」
左手を腰のスタンガンに伸ばした私を柳端が制止してきたが、そんなことで止まるわけにはいかない。
「離しなさい! アンタ、コイツの正体を知ってて私に会わそうとしてたの!?」
「ああ、そうだ。お前が武器を構える可能性があったから、俺が仲介役としてここにいる!」
そうだ、よくよく考えてみれば、なんで柳端がこの夕飛という女を知っているかを考えるべきだった。
「全く、危機察知能力が異常に高いとは聞いていたけど、ここまでとはね」
私を見て、夕飛は微かに笑う。
やめろ、その顔で笑うな。その顔で見るな。その顔で私を語るな。
「すみません、夕飛さん。でも、コイツがこうなるのも仕方ないんです」
「あらあら、柳端くん。そんな他人行儀じゃなくて、『おばさん』って呼んでよ」
「は、はい……」
柳端がこの場にいる理由。つまり夕飛は柳端とも縁が深い人間ということ。
「まあ、わかっているとは思うけど、自己紹介させてもらうわよ」
やめろ、やめろ、その名前を言うな。
「はじめまして、私は棗夕飛。香車と槍哉の母親です」
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