「エミ! そいつに近づいちゃダメ!」
「残念だが、今回ばかりは君の支配から外れることになりそうだ。この男から逃げるということは、私が今まで積み上げてきたものを全て捨てることを意味するのだよ」
エミが私の叫びを聞き入れてくれない。それほどまでに今回の彼女の意志は固い。
「う、くっ……!」
守りに行こうにも、さっきまでの無理な動きと肩の傷で身体が思うように動かない。このままじゃまずい。
「樫添さん!」
「はい!」
ならば樫添さんを頼るしかない。彼女なら私の意図を瞬時に汲んでくれる。エミを守るために動いてくれる。
だけどそれが、裏目に出た。
「あーあーあー、そういう見え透いた動きはよくないね!」
「ぐっ!?」
エミの前に立とうとした樫添さんは、苦悶の声と共にその場に崩れ落ちた。何があったのかを確認する前に、私はさっきの出来事を思い出していた。
「スタンガン……!」
「うん、そう。黛さんが柏さんを守るための武器だよ。そういう情報はちゃんと言っておこうね」
そうだった。さっきアイツにスタンガンを奪われたんだった。
「さて、柏さん。ボクと決着をつけるって言ったね? ただね、ボクとしてもそろそろ君が『希望』に縋る姿を見せてもらいたいんだよね。だから、こうすることにしたよ」
そう言って、晴天は私に近づいてくる。
「黛さん。せっかくだからもう一度ボクに協力してよ」
「ふざけないで……! アンタなんかに私が……!!」
「ダメダメ、無理はよくないよ」
逃げようとしても、既に身体は限界を迎えつつあった。
だったら、せめてコイツの動きだけでも……!
「あ、ぐっ!」
だけど晴天に肩の傷を掴まれ、その痛みが私の動きを止める。目がチカチカして、前がよく見えなくなる。
「ほら、無理しないでって。動かないなら、これ以上痛くならないからさ」
首筋に硬いものが当てられた。たぶん、さっきのスタンガンだ。
「さて! 柏さん。これがボクが君に与える最後のチャンスだ。もしここで、ボクが提示する条件を呑んでくれたのなら、君に黛さんと平穏無事にこの先の人生を送れるという『希望』を与えてあげるよ」
「条件という綺麗な言い方をしなくていいよ。はっきり言いたまえ、君の要求はなんだね?」
「あーあーあー! じゃあはっきり言おうか!」
晴天の声にはもう、いつもの能天気さはない。怒りと激しさをより増している。
「この場で、『私も黛さんも殺さないでください』って命乞いしてくれればいいよ」
……そんな、そんなの。エミにそんな言葉を言わせるのか。
ずっと『狩る側の存在』に殺されたいと願ってきたエミに、どんなに手を尽くしても容赦なく殺されるという『絶望』を手にしたいと望んでいたエミに、自分と私を殺さないでくれなんて言葉を吐かせるのか。
そして晴天は、その命乞いを必ず聞き入れるだろう。絶対に聞き入れられてしまう命乞いをしたという事実は、エミの心を一生涯縛り付けるだろう。当然だ。
エミにとってそれは、自身が望む『絶望』を放棄し、脆い『希望』に縋りついたことを意味する。
「さて、どうするんだい、柏さん? 君が命乞いをしてくれれば、ボクは黛さんを離すよ。うん、誓ってあげてもいい。あーあーあー、君だってさ、黛さんが死ぬのは怖いでしょ? そりゃそうだよね。黛さんを助けるためにここまで来たんだもん。それに、自分が死ぬことだって本当は怖いはずなんだよ。そうでしょ? この場でそれを認めてくれれば、君は『希望』を抱いて生きていくことができるんだ」
「……」
「あーあーあー!! いいなあー! 本当に『希望』はいい! みんなこの世界で生きていたいんだよ! 死ぬことなんて考えたくもない! みんなが『希望』を抱いて生きていること! これがボクの理想なんだ! 柏さんも結局は命を失うのが怖いんだ! それが人間の本来の姿なんだから、君はここで救われるんだよ!」
違う。エミは本心から、心の奥底から『絶望』を求めている。私はそれを何度も思い知らされてきた。何度も命の危険を搔い潜ってエミを救ってきたけど、エミの『絶望』を求める心だけは消し去れなかった。だから私は、エミを支配するという形でしか彼女と関われなかった。
こんな私がエミの全てを理解しているなんて言えるはずもない。もしかしたら、私以外の誰かはもっとエミを理解しているのかもしれない。
だけど、その誰かは晴天じゃない。晴天であって、いいはずがない。
「たとえ私の全てを理解する者がいたとしても、それは君ではないよ、空木晴天」
だからエミは、晴天に屈することはない。
「へえ、強気なことを言うじゃない。だけど、状況わかってるの?」
「状況がわかっていないのは君の方だよ。君が掴んでいる人間は、私の全てを支配し、私の望みも欲望も全て叩き潰した恐るべき支配者、黛瑠璃子だ。『狩る側の存在』ならいざ知らず、君程度に後れを取るわけがないだろう」
「だけど実際に、黛さんはボクの手中にあるんだよ?」
「それが間違いなのだよ。ルリを見てみたまえ」
その言葉が合図だった。晴天は、エミの言葉通りに私のことを確認しようとしてしまった。
だから私は、その目に向かって催涙スプレーを浴びせることができた。
「ぐっ!?」
予想外の反撃だったのだろう、晴天は目を押さえてよろめきながら後ずさっていく。
「エミ!」
一方の私も上手く動けなかったけど、そんなことは構わない。とにかくエミを守るために傍に行かなければならない。
身体を動かせ、エミを守れ、彼女の命を絶対に失わせるな。
その思いを胸に、私はエミの傍まで戻り、晴天の手から脱出した。
「さて、ルリは再び私を支配するために戻ってきたよ。君の負けのようだね」
「ぐ、ううううっ!! くそっ! あーあーあーあー!! よくも、このボクに! 君みたいな、生きて何かを成そうともしない、クズみたいな人間が! 生きることを放棄するような、傲慢なヤツが! このボクの邪魔を!」
晴天は低い声で叫びながら前も見えずに暴れている。だけどその発言の中に、コイツの本音があった。
「ああそうだよ、空木晴天。君の言う通りだ。私には生きて何かを成そうという望みはない。正確に言えば、生きて何かを成し遂げることはあっても、そこに私の理想はない。なぜなら私が真に求めているのは、生きて積み上げてきたものを徹底的に容赦なく壊されるという『絶望』だ。だから私と君は相容れない」
「あーあーああああああ!! なんで、君みたいなヤツが! 死ぬことを恐れてないんだ! なんで君は! 『絶望』を受け入れているんだ! 君がボクより優れているはずがない! ボクは! ボクはずっと『希望』を追い求めていたんだ! 他人を生かすために動いているボクこそが、『絶望』を超えられるはずなんだ!」
「君が『希望』を追い求めていた? そんなはずはないよ。君の本当の願いはさっきの言葉通り、『ずっと生きていたい』というものだ。だが君は、その願いが叶わないことを知ってしまった。願いが叶わないことを知った上で、それでも『ずっと生きていられるかもしれない』という『希望』を追い求めることをしなかった」
「医学も学んでいない君にわかるわけがないだろ! それがどんなに無謀なことか!」
「そうかもしれないね。私にわかるのは、君は確実に叶う願いしか追い求められないということだ。『希望』を追い求めた先にある、願いが叶わずに志半ばで死ぬという『絶望』を恐れた。だから偽の願いを抱いた」
「ぐ、ううううううっ!」
「なんてことはない。私たちが出会うずっと以前に、君は自分から『希望』を手放していたのだよ」
もし、空木晴天が本当に『希望』だけを追い求めていたのなら。
『ずっと生きていたい』という本当の願いを諦めずに、わずかな可能性にも賭けられるはずだった。例えそれが誰から見ても叶わないものであったとしても、自分だけはそれを追い求められるはずだった。
だけど晴天はそれをしなかった。ずっと生きていられないことを恐れ、周りの人間も自分の『絶望』に引きずり込もうとした。自分の本当の願いから逃げた。
自分の前に提示された『希望』を信じ切れなかったのは、他ならぬ空木晴天自身だったのだ。
「ボクが『希望』を手放しただって……?」
晴天はまだ前が見えていないようだ。このスキにどうにか逃げないと。
だけどアイツはエミの声を頼りにこっちに向かってきた。
「あーあーあーあああああああ!! 君が、ボクの! ボクの『希望』を! ボクの願いを! ボクを超えていくなあああ!!」
「くっ! エミ!!」
晴天が叫びながら向かってくる。私は咄嗟にエミを庇い、その身体を抱いた状態で倒れこんでしまう。その後ろを、晴天が走り抜けていく。
「がっ!?」
その直後。
晴天のうめき声と共に、アイツの身体が地面に倒れこみ、地面に血が広がっていった。
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