【1年前 10月5日 午後4時25分】
M高校に入学してから半年後、僕は高校の先輩である萱愛小霧さんに連れられて、『スタジオ唐沢』という演劇教室に来ていた。
「やあいらっしゃい、君が弓長波瑠樹くんだね。小霧くんから聞いてるよ。自分の意見を出せるようになりたいんだって?」
「……はい、そうです」
「唐沢先生、彼はちょっと大人しすぎるみたいで、学校でも変なトラブルに巻き込まれやすいんです。なので、唐沢先生なら彼に自己表現の手段を教えてあげられるんじゃないかと相談に来たんです」
別に僕は自己表現の手段なんて知りたくもないし、僕自身の意見なんてものはない。僕は誰かの役に立って、最終的に兄さんの役に立つのが目的だ。
だけど萱愛先輩は僕に『助けがいのある後輩』という役割を望んでいるようだったので、とりあえず先輩が好きそうな『大人しくて自分の意見を出せない後輩』になりきってみたら、どんどんはりきってきた先輩に『スタジオ唐沢』を紹介された。
「ふーん、なるほどねえ。小霧くんが気に入りそうな子じゃないか」
唐沢清一郎と名乗った男性は、大柄ではあるものの威圧感を感じさせない人だった。長髪を後ろで縛り、口ひげを綺麗に整えているその顔を見てると、初対面なのにどこか懐かしい雰囲気がある。例えるなら、親戚のおじさんに再会したような感じだ。
「さて、波瑠樹くん。まあいきなり演技指導を受けたいって気にならないだろうし、今日はちょっと見学ってことでいいかな?」
「はい、よろしくお願いします」
「いい返事だ。じゃあ、小霧くん。ここからはウチの人間だけで彼と話したいんだけど、大丈夫かな?」
「わかりました。それじゃあ弓長くん、また明日学校で会おう」
「はい」
萱愛先輩が一礼して帰ったのを見届けた後、唐沢先生は教室の奥に声をかけた。
「おーい、クロエちゃーん。ちょっといいかーい?」
「……はい」
呼ばれてカーテンの奥から出てきた女性を見て、思わず息を呑んだ。
高い。唐沢先生よりも背が高い。それでいてスラリとした体型の綺麗な女の人だ。サラサラとした黒髪と、ノースリーブのニットセーターから伸びる腕の白さの差が激しいけど、不自然さや気持ち悪さがない。むしろなるべくしてなったというか……多くの人が『こういう人がいてほしい』という理想像を体現したような人だ。
そしてその女性が、僕を見るなり目に涙を浮かべて怯えて引きつった表情になった。
「あ……ひっ!」
「え?」
「あ、あの! ごめんなさい! わ、わた、わたし、何か失礼なことをしでかしましたか!?」
「……いえ、特には」
なんだこの人。まだ僕は何もしてないし何も言ってないのになんでここまで怯えてるんだろう。
とりあえず、この人を安心させればいいのかな? 僕が敵じゃないと、あなたに危害を及ぼす人間じゃないと証明すればいいのかな?
そう思ったから、まず僕は優しい笑顔を作ってクロエさんに話しかけてみた。
「大丈夫ですよ、僕はここに見学に来ただけです。実は僕、ちょっと自分の意見を出すのが苦手なので、ここで演技指導を受けてみたらどうかって、先輩に紹介されたんです」
初対面の人は大抵の場合、僕に対して弱く優しい人間であることを望んでいる。だからクロエさんも僕が優しい人間であるのを望んでいるんだろうと思っていた。
「……そんな顔を見せてもダメですよ」
「は? ぐうっ!?」
言葉の意味を測りかねているうちに、僕の身体は一瞬にして壁に押し付けられていた。
「ダメですよ、ダメ。そんな顔じゃ、私は安心できませんよ」
「な、なんの、こと、ですか……?」
「あなた、私に心を開いてほしいから優しい顔をしてるだけでしょ? バレバレですよ。あなたの行動には打算しかなくて、私は全然安心できません」
「そ、そんな……僕は、そんなこと……」
「ああ、ダメ、まだ怖い。私はまだあなたのことが怖い。こわいこわい、こわいよ。ああ、こわい」
僕の両肩を押さえながら、クロエさんは両目から涙を流して怯えたように目を泳がせ、「こわいこわい」とつぶやき続けている。両肩に痛みを感じるけど、それ以上にクロエさんへの恐怖心が勝った。
わからない。この人が何をしてほしいのかが本当にわからない。
こんなことは初めてだ。今まで僕が出会った人は、僕に何を求めているのかはすぐにわかった。萱愛先輩にしても、僕に『素直に頑張る後輩』の姿を求めているとわかったし、先輩が望んだからこの教室に来たんだ。
だけどクロエさんは僕に対する怯えを口にしながら、僕を壁に押し付け続けている。この人が僕に何を求めているのかを見抜けない。
なんだ? 何をすればいいんだ? 僕はクロエさんのために何を……
「はいそこまで。クロエちゃん、放してやりなよ」
しばらく考えていたら、唐沢先生がクロエさんを止めてくれて、僕は解放された。
「ひ、は、先生……この子、怖いですよ……だってこの子、私のことを暴いて、見透かそうとしてるじゃないですか……」
「そうだねえ。彼はまだ演じ方が下手みたいだ。クロエちゃんにここまで怯えられるんだからね」
解放はされたけど、クロエさんの視線はまだ僕を捉えて離さない。仮に僕が何かよからぬ行動をしようものなら、一瞬で反撃に移れる体勢を維持している。
「ああ、ごめんね、紹介が遅れた。彼女は楢崎久蕗絵。ここの演劇講師の一人だ。事務員も兼任してもらってるけどね」
「……あの、僕が何か失礼なことをしてしまいましたか?」
「してないよ。ただ、彼女にとって自分以外の人間はすべて恐ろしい敵だというだけだ。だから君に怯えている」
クロエさんからしてみれば、僕も恐ろしい敵の一人ということか。だったら、クロエさんにとって恐ろしくない人になればいいんだろうか。
「おっと、波瑠樹くん。考えちゃっただろ? クロエちゃんにとって恐ろしくない人間になるにはどうすればいいのかって」
「……!?」
「ダメだよ、そういうのはもっと隠さないと。『相手が望む姿になりたい』って考えそのものが見透かされてたら、警戒されちゃうよ」
具体的な言葉は出せなかったけど、たぶん僕は驚いている。
今まで誰にもそれを見透かされたことなんてなかった。父さんにも自分の意志でM高校を受けたのだと思われてたし、萱愛先輩も僕が自己表現が苦手な人間だと思い込んではいるけど、自分の意見がない人間だとは見透かされていないはずだ。
「なんで、それを……?」
隠していても無駄だと思い、素直に聞いてしまった。
「君があまりにも小霧くんが気に入りそうな子だったからだよ。小霧くんって今の高校生にしては珍しくマジメすぎる子でさ、大人しくて素直で『助けがいのある』人が大好きなんだよねこれが」
「……!」
「ああ、君も小霧くんが求める理想像には気づいてたんだろうね。だから彼に合わせて助けがいのある後輩を演じてた。でもね、今どきの高校生なら小霧くんのこと鬱陶しいって思う子が多いだろうからね、君は一般的な高校生にしては不自然すぎるんだよね」
「だとしても、僕が元から萱愛先輩の望む人間だという可能性もあるじゃないですか」
「いやいや、君は小霧くんから『自己表現の手段を学べる場所』だと紹介されてここに来たのに、クロエちゃんを見たらすぐにクロエちゃんに合わせて、『優しくて友好的な人間』を演じてしまった。だから君が誰かの『オーダー』に応じて瞬時にキャラを変えられる子だって、クロエちゃんに見抜かれちゃった」
「……」
なるほど、僕が『誰かの役に立ちたい』と考えてるのを見抜かれたら、相手は僕に不信感を抱くということか。
だけどこれは、僕からしても収穫だ。
「唐沢先生、お願いがあります」
「なんだい?」
「教えていただけませんか? どうすれば僕はみんなの役に立てますか? どうすれば僕はあらゆる人の望む姿になれますか? どうすれば僕は……兄さんの役に立てますか?」
この人なら、僕がどうすれば兄さんの望む弟になれるか教えてくれるかもしれない。
僕の申し出を受けた唐沢先生は、こちらを見下ろしたまま僕の顔にその大きな手を当てて笑いかけた。
「いい子だ、波瑠樹。歓迎するよ。ようこそ、『スタジオ唐沢』へ」
だからこの日から僕は……唐沢先生の教え子になったんだ。
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