「黛センパイ……ウソ……ですよね?」
朝飛の隣に立っているセンパイは、何の抵抗もせずに体を触られていた。センパイが何かの作戦で朝飛に近づいているかもしれないと考えたけども、そうだとしたらあまりにも無防備すぎるし、この場所まで連れ込まれる理由もない。
柏ちゃんもセンパイの姿に目を丸くしていた。彼女がここまで驚くのも珍しい。それだけ目の前の光景が異常事態だということだ。
「さて、黛さん。さっきも言ったけど、ここじゃ邪魔が入っちゃうから、ちょっと場所移そうか? そうだね。すごーく静かなところがいいかな。周りに誰もいなくて、あなたの声が私にだけ届きそうな静かなところ」
「……好きにしなさいよ」
「うん。そういうのいいね。あなたみたいに全部を委ねてくれる子はとてもいいよ」
「ルリ、何をしている? 君ならこの窮地を切り抜けられるだろう?」
柏ちゃんの声は微かに震えていた。もちろん、朝飛を恐れているんじゃない。センパイの行動を理解できないからだ。
「君はあの香車くんをも退けた。『死体同盟』からも私を連れ出した。その君がなぜそこまで成すがままにされている? 理解できない。君は私の命を守るために、あらゆる手を尽くせるはずだ」
「……エミのためなら、あらゆる手を尽くすよ」
「そうだろう? ならば、なぜ……」
「だから、私が死なないとエミが助からないなら命くらいくれてやるわ」
「は?」
「エミは私を守りに来なくてもいい。私はエミを守るけど、エミは私を守るために命を張らなくていい。私たちの関係は……そういうものだったはずよ」
「何を言っている……? 君は何を言っているのだ!?」
柏ちゃんが大声を張り上げている。かくいう私も、センパイの言動に驚いている。あの黛瑠璃子が、こんなに弱気な発言をするなんて……
しかし、考えてみれば黛センパイには元々そういった弱気さがあった。私がセンパイに出会ったばかりの頃、柏ちゃんが棗に命を捧げるためにセンパイの元を離れた時も、彼女はすぐに柏ちゃんの行方を追おうとはしなかった。柏ちゃんが自分から離れていくことを、仕方のないことだと思っていた。
あれから数々の戦いを経て、黛センパイのそういった一面を見ることはなくなった。だから私も、センパイはいつでも強く、柏ちゃんの命を守って支配できるほどに強い人間だと思っていた。だけどそれは違ったんだ。今ならなぜ、センパイが自分に迫る危機に鈍感で、こうまであっさりと棗朝飛に捕まっているのかがわかる。
黛瑠璃子という女性は、自己評価があまりにも低いのだ。
自らを『獲物』と定義し、『殺されること』を本気で願っている柏恵美の願望を徹底的に潰し、自らの支配下に置いて生かす。それほどまでのことを実現しながらも、黛センパイは自分をどこかで卑下している。だから、自分を柏ちゃんを守るけど、柏ちゃんは自分を守る必要はないという、あまりにも見当違いなことも言えてしまう。
柏ちゃんにとって、自分がどういう存在なのかも理解できずに、そんなことを言えてしまう。
「あははっ、いいよ黛さん。じゃあそういうことだから。柏さんを諦めるのはちょっともったいないけど、私の願いを全部諦める気はないからね」
朝飛はセンパイを連れて玄関から外に出ようとする。このままではまずい。だけど、私が動いたらその瞬間命がないかもしれない。棗朝飛はそうするかもしれないという可能性がある。それだけで体が動かない。
「待ちなさい、朝飛」
だけど、そんな朝飛を止める人間が現れた。
「お姉ちゃん、来たんだ。沢渡さんは失敗したんだね」
「あの子なら今ごろ柳端くんとお話してるわよ。私はアンタと話がしたいけどね」
朝飛の前に現れた夕飛さんは、状況を確認するとため息をついた。
「……アンタの狙いは、やっぱり黛さん?」
「うん。晴天さんと話し合って、そう決めたんだ」
「全く……本当にあの男はどうしようもないね。どれだけ周りに迷惑かければ気が済むのかしら」
「晴天さんはみんなに『希望』を与えたいだけだよ。私にもその『希望』をくれただけ」
「そう。じゃあ話し相手を変えるわ。今度は黛さん、あなたと話したいわ」
夕飛さんの目はセンパイに向いた。今なら朝飛はこちらに背を向けている。スキを見てセンパイを奪還することも可能かもしれない。だけど私には、その『スキ』が全く見当たらなかった。
「黛さん。あなたは柏さんを助けるためにここに来たのよね? まあ確かにあなたが朝飛に連れ去られれば、柏さんは助かるかもしれないわね。だけど、私にとってはそれは敗北と同じなのよ」
「……」
センパイは俯いたまま黙っている。
「黙ってるならこっちが勝手に喋るけど。要するにあなたが朝飛に殺されるのは困るってこと。だからこちらへ来てくれない?」
「だめだよお姉ちゃん。私はもう黛さんで『夜』を解放するって決めちゃったから」
「アンタには聞いてないから黙ってて頂戴。私は黛さんと話してるの」
「……私がそっちに行ったら、朝飛がエミを殺すじゃない」
「だったらそれを止めればいいでしょ? 私たちはそもそもそのために協力したんじゃないの?」
「……」
再び沈黙が続くかと思ったその時だった。
「お姉ちゃん。邪魔しないでもらえる?」
来た。
朝飛の身体からさっきと同じように冷たい空気が発せられる。これは脅しじゃない。おそらくは棗朝飛も、いざとなれば大切な人間をも切り捨てる冷徹さを持っている。棗香車が大切な友人である柳端幸四郎を切り捨てたように、コイツをそれをやれてしまう存在だ。
この場で朝飛と対峙しているのは夕飛さんだ。つまりこの殺意をまっすぐに向けられているのは彼女ということになる。
「……っ」
そして夕飛さんも、その殺意を受けて平然としていられる人間ではなかったようだ。体を硬直させて、手足が震え始めている。
「お姉ちゃんはやさしいから私のことを気遣ってくれる。私もそんなお姉ちゃんが好きだよ。でもね、それが私の願いを邪魔するのなら……」
朝飛はポケットから小さな包丁を取り出していた。
「お姉ちゃんと過ごすのは、諦めるよ」
その刃先が向いているのは、やはり夕飛さんに対してだった。
「……邪魔をするのなら、ね。つまりこれ以上動いたら私は死ぬってこと?」
「そうは言わないよ。だってお姉ちゃんは動かないでしょ? 死にたくないんだろうし」
「うん、そうね。私は死にたくない」
そうだ。誰だって死にたくない。今まで私も様々な人間と出会ってきた。中には自分が考える『普通』とはかけ離れている人間も数多くいた。
だけど、本当に心の底から、『誰かに殺されたい』と考えていたのは、柏恵美ただ一人だけ。それだけ自分が死ぬというのは恐怖であるはずなんだ。
にも関わらず。
「死ぬのが怖くて怖くてたまらないわ、朝飛」
夕飛さんの身体は、瞬時に動いていた。
「っ!? しまっ!」
その動きに気付いた時には、一瞬で夕飛さんは朝飛の懐に潜り込んでいた。包丁を持っていた右手首を両手で握り、無理やり手を開かせる。
「くっ!」
包丁を落としたことで、朝飛は黛センパイを突き飛ばして応戦しようとしていた。
「黛センパイ!」
やった。センパイが解放された。すかさず傍に駆け寄って、身柄を確保する。
「柏ちゃん! こっち来て!」
「あ、ああ!」
柏ちゃんもこちらに駆け寄り、朝飛から離れる。よし、これでここから出れば、あとは警察に通報できる。
「お、お姉ちゃん……!!」
「動かないで……頂戴……アンタが怖くて怖くてたまらないんだから……」
夕飛さんは朝飛の右手を掴んだまま捻り上げているが、その顔は先ほどと同じく恐怖で唇が震えている。
なんで? なんであんな殺意を受けて、あんな動きができるの?
「忘れてたよ、お姉ちゃん……昔から、『思考の切り離し』が得意だったよね……」
「ええ、そうよ。アンタが私に殺意を向けたとしても、私がどんなにアンタに恐怖したとしても、私はそれとは関係なしに身体を動かすことができる」
「身体が勝手に動くってやつだよね……すごいなあ、お姉ちゃんは……」
「感心してないで、もう諦めなさいな。これ、いつまでもやれることじゃないんだから」
理屈はわからないけど、夕飛さんは自分の感情とは関係なしに身体を動かせるらしい。だけどまだ終わってない。私の目には床に落ちた包丁が映っていた。
「あれを、拾わないと!」
朝飛に再び武器を持たせなければ、完全に終わる。そう思って飛び込もうとした。
「あーあーあー、なーにやってるんですか。朝飛さーん」
その私の動きを遮るように中に入ってきた男が……
「っ!」
「樫添くん!」
空木晴天が、先に包丁を拾ってしまった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!