【7月5日 午後3時01分】
「柳端の妹……?」
『うん、そうだよ』
柳端に妹がいるなんて話は聞いたことがない。いや、家族にはそれぞれ事情があるし、柳端にも妹の存在を隠さないといけない理由があるのかもしれない。俺が父さんのことを隠していたように。
そうだとしても、柳端が行方をくらませている現状で唐沢先生の関係者が柳端の妹を名乗って俺に連絡を取ってきた。これだけの要素が揃っていれば、この紅蘭という女性が本当に柳端の妹だとは考えにくい。
問題は、この人がなんで柳端の妹だと名乗っているのかだ。
『それで、あなたのもう一つの質問、『なんの用件でかけてきたのか』だっけ? それについても答えるよ。あなたにやってもらいたいことがあるんだ』
「やってもらいたいことがあるなら、直接顔を見せていただきたいですね。それが礼儀じゃないですか?」
「『うん、わかった』」
「え?」
通話口と教室の入り口から同時に声がしたと思うと、俺の前にはM高の制服を着た女子生徒が立っていた。手を後ろで組んでその場に屈み、上目遣いで俺の顔を遠慮なく覗き込んでくる。
「あ、あなたが電話の相手ですか?」
「そうだよ、わたしが紅蘭。で、顔を見せたからお願いを聞いてくれる?」
「……」
目の前にいる女子生徒は確かにM高の制服を着ているし、顔立ちからしても俺より年下の女の子なのは間違いない。だけど……
「一応聞くけど、君はここの生徒なんだよね?」
「見ればわかるでしょ」
「いや……君みたいな金髪の女の子がいたら目立つと思うんだけど、見たことないからさ……」
紅蘭と名乗った女の子の髪型は金色の髪を頭の両サイドで結った、いわゆる『ツインテール』と呼ばれるものだった。黛さんや柏先輩と比べても小さい体格や大きな目が特徴的な顔も相まって、かなり人目を引く見た目だ。
というか、高校一年生だとしても妙に幼く見える。香奈芽さんのように小柄でも大人びた女性を知っているからか、その見た目の幼さに何か不自然なものを感じる。
「それで、君のやってもらいたいことっていうのは?」
「あのねえ、わたしってさ、唐沢先生に言われたんだよね。波瑠樹さんを連れ戻してくれって。だからさ、萱愛さんからも波瑠樹さんのことを説得してくれない?」
「それは出来ないよ。俺は弓長くんを助けると彼に約束した。彼の『オーダー』は、俺にしてもらいたいことは、『自分を助けてほしい』というものだったんだ。そして唐沢先生の元にいる限り、彼は救われない。だから君のお願いは聞けないよ」
「へえー、波瑠樹さんを助けたいんだ? 本当かなあ?」
俺は本心からの言葉を告げている。たとえ疑われたとしても、俺自身が本音を話していると確信している。この子の目的がなんであろうと、俺の目的は変わらない。
「今ごろ、波瑠樹さんは竜樹さんに殴られてるかもしれないのに?」
だからこそ、その言葉は俺を大きく動揺させた。
「……なんだって?」
「だから、波瑠樹さんってお兄さんとあんまり仲良くないんだよ。それなのに萱愛さんはその仲良くないお兄さんに波瑠樹さんを任せちゃったんだね?」
「そんなはずはない。弓長くんは自分からお兄さんを呼んでくれと言ったんだ。それは彼は竜樹さんのことを信頼してるから……」
「本当にそう思ってる? 萱愛さんってお父さんと色々あったのに?」
「……!」
確かにその通りだ。俺は陽泉さんと……父さんとの関係を周りに隠していた。香奈芽さんや柳端を心配させまいと、父さんが香奈芽さんたちを傷つける前に離れようとした。もし、弓長くんも俺と同じだとしたら。
竜樹さんが、弟を支配しているのだとしたら。
「でもね萱愛さん、安心していいよ。わたしに協力してくれるなら、あなたは波瑠樹さんを助けられる。わたしに協力してくれるなら、また波瑠樹さんと仲良く過ごせる。わたしたちの目的は同じなんだよ」
「……」
竜樹さんが本当に悪人であると仮定するなら、紅蘭さんの言葉は確かに一理ある。
だけど、正解じゃない。
「情報をくれたのは感謝するよ、だけど俺は君には頼らずに弓長くんを助けに行く。聞こえのいい言葉だけを受け入れるほど、もう俺はバカじゃない」
この子が俺の前に姿を現し、弓長くんの情報を伝えているのは、彼女自身にメリットがあるからだ。こちらに限定的な情報を与え、俺が彼女に協力せざるを得ない状況を作り出して利用するためだ。
「へえ、唐沢先生から聞いてた話と随分違うんだね。愛しの彼女の影響ってワケ?」
「なんとでも言ってくれ、とにかく君のお願いは聞けない。弓長くんを助けるのも柳端を探すのも、俺たちでなんとかするよ」
これ以上の会話はいらない。まずは学校を出て、状況を香奈芽さんに伝え……
「……うっ!?」
しかし、立ち上がって教室を出ようとした俺の背中には何か鋭いものが突き付けられていた。
「誰が帰っていいって言ったんだよ、萱愛先輩。協力しないって言うんなら、力づくでも聞いてもらうよ」
ゆっくり後ろを振り返ると、紅蘭さんは俺の背中に何かを突き付けたまま、俺の左腕を掴み、背中側で押さえつけていた。
「な、なにを……」
「黙ってろよ。全く、こんなことしたくないんだけどな」
先ほどまでの紅蘭さんは、こちらに甘えるような可愛らしい仕草が特徴的だった。だけど今は違う。冷めた表情と強い口調でこちらを脅している。
「それで? 萱愛先輩、私の言うことを聞く気になったか?」
「……何をすればいいんだ?」
「ハッ、なんだ。急に素直になったじゃないっすか。私の要求はさっきも言った通り、波瑠樹さんを連れ戻せってことだよ」
「断ったら?」
「この場で死ぬ。愛しの彼女とも幸四郎さんとも二度と会えない」
「……」
本気、か? いや、例え本気じゃなかったとしても断定はできない。この場はもう要求を受け入れるしか……
「やめろ、紅蘭」
だがその時、俺の耳に聞き慣れた男の声が届いた。
間違いない。この声は、本来ならこの教室にいるはずの男の声。
「……柳端!」
柳端幸四郎が、教室の入り口に立っていた。
「久しぶりだな、萱愛」
「お前! どこ行って……」
「動くなよ」
「!!」
思わず駆け寄ろうとしたが、背中に感じる鋭い感触がその動きを止めた。
「おい紅蘭、手荒な真似はするな。萱愛の手を借りなくても、お前の目的は果たしてやる」
「……はーい、お兄ちゃん」
柳端の言葉を聞いて不服そうな声を出しつつも、紅蘭さんはアイツに近寄ってその腕にしがみついていった。まるで、妹が兄に甘えるように。
「ね、じゃあさ、幸四郎お兄ちゃん。わたしのために、竜樹さんやっつけるってことでいいんだよね?」
「ああ、さっきも言った通りお前の目的は果たしてやる。だからもう行くぞ」
「柳端……どうなってるんだこれは?」
紅蘭さんは本当に柳端の妹なのか? だとしても、こんなことに柳端が協力するはずが……
「萱愛、生花から聞いたと思うが、心配するな。俺は必ず戻ってくる」
「そういうことを聞いてるんじゃない。何をするつもりだって……」
しかし駆け寄ろうとした俺に対し、柳端は近くにあった椅子を投げつけた。
「っ!?」
「それ以上近づいたら、次は当てる」
「そ、んな……」
「お前は閂との関係だけを考えておけ。行くぞ紅蘭」
「はーい。じゃあねー、萱愛さん」
紅蘭さんは柳端の腕にしがみついたまま、こちらを見て舌を出して挑発していた。
立ち去っていく二人を見ながら、俺は頭の整理が追いつかずにしばらく呆然とする他なかった。
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