【7月29日 午後3時21分】
「ああ、いたいた。柏さんってあの人で合ってるよね、『お人形さん』?」
「……うん」
館に入ってきた若い男がこっちを指してきたのを確認した瞬間、私の身体はやるべきことのために動いていた。
「エミ! 逃げるよ!」
この館に裏口があるのは、前に来た時に確認済みだ。そこからエミを連れて逃げる。樫添さんの居場所を探るのはその後だ。
「っ!?」
しかし、エミの腕を引っぱって逃げる前に、レインコートの女に回り込まれていた。
「あ、あ、恵美……嬢……」
「君は……まさか沢渡くんか!?」
「え?」
エミの言葉を受けて女の顔を改めて確認してみると、確かにフードの下の顔は沢渡のものだ。コイツは元々、『死体同盟』のメンバーだったわけだし、館の門の暗証番号も知ってたのかもしれない。
しかし、目の前の女は私が知っている沢渡生花とは明らかに雰囲気が違う。髪色が黒になったこと以上に、前に会った時よりも余裕が無いように見える。でも、なんというか……今のコイツの方が私やエミにとっては危険な気がする。
「待ってよ、アンタ黛さんだよね? 俺たちは別にアンタに危害加えようってわけじゃないぜ?」
「逃げ道を塞いでおいてよくそんなこと言えるわね」
「俺は『アンタに危害を加えるつもりはない』って言ってるんだけど。言葉通り受け取れないの?」
冷めたようにため息をつく男に対し、曇天さんが立ちはだかった。
「お待ちくださいませ、柏様と黛さんは当団体のお客様です。それに素性もわからない方をお通しするわけにはいきません」
「なら名乗っておくよ。俺は木之内櫓。職業はまあ……一応フリーライターです。あと『スタジオ唐沢』って演劇教室の生徒っす」
「では木之内様、当団体はあなた方の立ち入りを許可しておりません。お引き取りいただけなければ警察に通報させていただきます」
「立ち入りを許可していないから出て行かないと警察に通報する、か。うん、わかった」
木之内と名乗った男は曇天さんの言葉をあっさりと受け入れた。それを見て曇天さんも拍子抜けしたように息をつく。
「『お人形さん』、そっちのお姉さんの方頼むよ」
次の瞬間、沢渡はソファーの傍で事態を見守っていた槌屋さんに飛びかかっていた。
「きゃあっ!」
「槌屋さん!」
曇天さんが沢渡を止めに行ってる間に、代わりに木之内が立ちはだかってきた。
「はいはい、これでゆっくりお話しできるね。それで柏さん、唐沢のオッサンが会いたがってるから来てくれる?」
「残念だが、ルリがそれを許すはずもない。私自身としては彼の目的に興味はあるが……私を連れて行きたいならルリを納得させてみたまえ」
「なるほどね。黛さんを説得すればいいのか」
木之内は私に目を向けてくるけど、何を言われようとエミを連れて行かせるつもりはない。だけどコイツの素性や性格、それに腕力もまだ未知数だ。下手に飛び掛かるわけにもいかない。
エミを守りながら相手の出方を探り、なんとかスキを見つけて館を脱出する。現状で最も有効な手はそれしか思いつかない。
「ていうかアンタ、さっきの話聞いてなかったの? 沢渡を止めないと本当に警察呼ぶわよ」
「聞こえてたよ。別に俺、耳が悪いわけじゃないからね。警察を呼ぶのね、わかったよ」
そう言いながらも、木之内は特に慌てた様子も見せずに話を続ける。
「それで俺の用件はさっきも言った通りで、柏さんを唐沢のオッサンのところに連れて行きたいんだけど、いいかな?」
「それよりアンタ、早く沢渡止めなさいよ。本当に警察呼ばれたいの?」
「ん? うん、警察呼ぶんでしょ? 呼んでていいよ。それで柏さんは連れてっていいのかな?」
「ダメに決まってるでしょ! アンタ、こっちの話聞いてないの?」
「……? 聞いてるよ。柏さんを連れて行くのはダメってことね。さて、どうすっかなあ。連れて行くのがダメなら、唐沢のオッサンをここに呼んでくればいいのかな?」
なんだコイツ。いまいち会話が嚙み合わない。
「ぐうっ!」
しかし私の混乱をよそに、事態は動き出していた。
「曇天さん!」
沢渡の蹴りで壁に叩きつけられた曇天さんは、痛みを堪えて床に蹲っている。槌屋さんも足が痛むのか立ち上がれそうにない。警察を呼ぼうにもコイツらをまず振り切らないといけない。どうする!?
「待ってくれ」
考えを巡らす私と木之内の間に、白樺が割って入ってきた。
「アンタ、『スタジオ唐沢』の生徒って言ったな? 唐沢ってのは唐沢清一郎のことか?」
「そうっすよ。俺は唐沢のオッサンって呼んでますけども」
「お願いだ、俺をアイツに会わせてくれ。アイツのところに娘が……クロエがいるんだろ?」
「えーと、唐沢のオッサンとクロエさんに会いたいんすね? いいっすよ」
そう言って木之内は携帯電話を取り出してどこかに連絡を取り始める。沢渡もまだ曇天さんの相手をしている。チャンスだ。
「今のうちに逃げるよ!」
「あっ、やべえ」
今度は誰に邪魔されることもなく、エミを連れて館の裏口まで全速力で走った。
【7月29日 午後3時32分】
「はあ、はあ、はあ……」
「ふう……」
館の勝手口から敷地の外まで逃げて住宅街の路地に隠れたけど、誰も追ってくる気配はない。どうにか撒けたようだ。
「エミ、大丈夫?」
「はあ……ふう……き、君はさすがだね……あれだけ走ってさほど息も乱れていないとは……」
「今日みたいにいつアンタを襲うヤツと戦う羽目になるかわかんないからね」
「はは……やはり私は君がいる限り殺されないようだ……」
エミは笑っているけど、私の顔は曇っていた。
現状は振り出しに戻ったと言わざるを得ない。『死体同盟』にエミを託して私は『スタジオ唐沢』との戦いに専念するのがさっきまでの作戦だったけど、結局はそれも不可能になった。それに樫添さんが敵の手に落ちたのもほぼ確定だ。木之内たちがエミを連れ去るのに失敗したとなれば、もしかしたら彼女は……
いや、今それは考えることじゃない。まずはエミを安全な場所まで連れて行くのが先だ。
「そろそろ歩ける?」
「ああ。だいぶ息も整ったよ。それでどうするのかね? 先ほどの彼が足止めしてくれたようだが、まだ追っ手も来るだろう」
「わかってる」
考えても仕方ない。追っ手が来る前にここを離れるか。
「あれ?」
その時、ポケットに入れていたスマートフォンが震えているのに気づいた。画面を見ると、『棗夕飛』と表示されている。
「もしもし、黛です」
『黛さん!? 大丈夫なの? 曇天くんから変な人に襲われたって連絡あったからかけたんだけど』
「は、はい。私とエミは大丈夫です」
そういえば、夕飛さんは『死体同盟』に加入したと言っていた。曇天さんとも連絡を取り合っていたんだろう。
『それと、私の方もあなたに伝えなきゃいけないことがあるの。朝飛からも連絡があったんだけど……』
「朝飛さんから?」
『あなたのお友達の……樫添さんって人と一緒に逃げてきたって……』
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