俺は自分が関わった人間を出来る限り救いたい。それが俺が出した結論だった。
だけど俺は無意識に思っていたのかもしれない。閂先輩は俺が救わなくても大丈夫だと。俺がいなくても、あの人は自分を守ることが出来るのだと。
だけど違った。閂先輩もまた、一人の普通の人間なのだ。俺たちと何も変わらない、『普通』の人間なのだ。
それを思い知ったのは、あの人が俺たちの前に現れた時だった――
「亜流川志信……!」
下校途中の俺たちの前に現れた、一人の男性。そして閂先輩はその男性の名前であろう単語を呟きながら、不快感に顔を歪ませていた。
男性は首もとまである茶髪を後ろに流し、顎髭を生やしていた。その軽薄そうな風貌と同じく、着ている服も赤色に派手なイラストがプリントされた半袖シャツに、これまた派手な柄をした、膝下までの丈のハーフパンツ、そしてサンダルを履いていた。
さらに首に下げたネックレスをはじめ、腕や指にいくつものアクセサリーを着けさらには両耳にもピアスが開けられていて、それらがいかにも『遊んでいる』男性だという印象を強めている。
だがそんな髪型やファッションとは裏腹に、彼の目元には微かに皺が刻まれており、浅黒い肌もあまり若々しい印象は受けない。彼のファッションが実年齢とあまり沿わないものであることは俺にも想像できた。
誰だろうこの人は。閂先輩の知り合いではあるんだろうけど、あまり友好的ではなさそうだ。
「おいおいおい、カナメちゃーん。今のはおかしいんじゃないの~?」
俺が男性について考えていると、彼は無遠慮に閂先輩に近づき、彼女の目の前に立つ。そして体を屈め、目線を先輩に合わせた。
「カナメちゃん、高校生。そして俺、大人。年上には敬語使うべきだよね~? 頭いいのにそんなこともわかんねえの?」
ゲラゲラとバカにするように笑いながら、男性は先輩に詰め寄る。この人が誰かは知らないが、ここまで公然と先輩をバカにされては、俺もいい気はしなかった。
だがそんな俺のことなど眼中にないのか、男性は先輩の頭を右手で掴んだ。
「……!」
「おーい、どうしたのカナメちゃん。返事。目上の人間が質問してんだから、早く返事しろよ」
男性は先輩の頭を掴んでいる手を乱暴に動かしながら返答を催促する。一方の先輩は眉間に皺を寄せながらも左目を瞑り、なすがままにされている。なんだこの状況は?
いてもたってもいられなかった俺は、口を挟んでしまった。
「ちょっと待ってください!」
「ああ、何お前?」
男性はここに来てやっと俺の存在に気づいたかのように、さして興味のなさそうな視線を向けてきた。
「先輩……閂香奈芽さんの後輩の萱愛という者です。あなたが誰だか知りませんが、ちょっと失礼なんじゃないですか?」
俺の介入に男性は先輩の頭を掴んでいた手を離し、今度は俺に詰め寄ってきた。
「あー、お前アレ? ちょっといい子ぶりたい感じのキャラ? うーわ、イタイなあー。俺が高校生の頃にもこんなヤツいたなー」
「話を逸らさないでください! いきなり先輩に近づいて……あなたは誰なんですか!?」
「まあまあ、怒鳴るな怒鳴るなってマジメ君。おいカナメちゃん、こいつに紹介してやってくれよ。俺が誰なのかをよ」
男性は先輩に向き直る。それを受けて彼女はようやく左目を開き、いつも通りの薄笑いを浮かべ始めた。
「きひひ……そうでした、ね。申し、遅れました、萱愛氏」
……?
なんだろう。よく見たら先輩の様子がいつもとは違う気がする。その表情も、いつもより口の角度が上がって……なんというか無理して作った表情のような……
「きひ、きひひひひ……」
先輩はその無理をしたような笑顔のまま、男性の横に立った。
「きひひ、こ、この方の名前は亜流川志信。きひひひ……私の、お、叔父に当たる人物でございます……」
「……え?」
叔父? この人が? 閂先輩の?
紹介を受けて、もう一度男性……亜流川さんを見る。
「……」
確かに年齢的には高校生の姪がいてもおかしくはない。でもその歳になって、この服装と言葉遣いはなんだ? 悪い言い方をすれば、まるで不良高校生がそのまま大人になったようなチンピラじゃないか。こんな人が閂先輩の叔父だというのか?
「そういうことだよ、マジメ君」
そんな俺の戸惑いをよそに、亜流川さんはもう一度俺に向き直る。
「俺はカナメちゃんの親戚ってわけ。わかる? つまり今のは久しぶりに年下の親戚に会ったんで、スキンシップを取ったってだけのことなんだよ。マジメ君も親戚に会ったらこういうことされるだろ? それと同じ」
ヘラヘラとした笑いを浮かべながら、小馬鹿にするように俺に釈明をする。その態度が異様に腹立たしかったが、確かに親戚ならばああいう態度を取ってもおかしくはないのかもしれない。
「だけどさー、相変わらずブスだよねー、カナメちゃんは」
「……!」
しかし俺の考えは、亜流川さんが放った暴言で打ち消された。先輩もその言葉に、再度顔をしかめる。
「だ、だってさー、なにその前髪!? え、高校生だよねカナメちゃんって!? オシャレとかしねえの、その歳になって!? うわあ、ないわー。マジこんなんが姪っ子とかテンション下がるわー。マジちょっとさー、俺がレクチャーしてあげよっか? 最近別れたオンナがカナメちゃんと同じくらいの体だったから、そいつの服でも……」
またしてもゲラゲラと笑い声を上げながら、姪である先輩を公然とバカにする。こう言ってはなんだが、どう見ても彼が良識のある大人とは思えなかった。その服装が示すとおり、歳を取った子供という表現が似合っていた。
しかし、ここまで罵倒されても尚、先輩はいつもとは違う薄笑いを浮かべたまま何も言わなかった。おかしい、いつもの先輩ならここで何か反論があってもおかしくはないのに。
「あー、笑った笑った。やっぱカナメちゃんをおちょくるとおもしれえなー。おっと、もうこんな時間か」
亜流川さんは腕に着けたデジタル表示の腕時計を見ながら呟く。
「おー、先輩との待ち合わせが近いからもう行くわ。じゃあまたなカナメちゃん。また遊んでやるから、その時までそのキモい見た目してろよ。友達に見せてネタにしたいからよ」
そして呆然とする俺をよそに、亜流川さんは口笛を吹きながら立ち去っていった。
「……」
「……」
残された俺たちはしばらく沈黙していたが、
「さて、行きましょうか萱愛氏」
先輩が俺に声をかける。その顔はいつもと同じ薄笑いに戻っていた。
「は、はい……」
釈然としない気持ちを抱えながらも、俺は先輩と一緒に歩き出した。
帰り道では一言も話すことが出来なかった。あんなことがあった直後では、楽しくお話しするというのも難しいことだ。
そうこうしているうちに、俺と先輩が別れる地点に着いてしまった。
「それでは萱愛氏、また明日……」
「あ、あの!」
だが、帰ろうとしていた閂先輩を思わず呼び止めてしまった。
「ひひひ、何か……?」
「……さっきの、亜流川さんについて一つお聞きしてよろしいですか?」
その名前を出した瞬間、再び閂先輩の顔がひきつった。やはり先輩にとって、亜流川さんの話題はあまり出したくないもののようだ。
だけど俺は聞く必要があると思った。閂先輩が困っているのであれば、力になりたかったから。
だから俺は、質問した。
「先輩は、叔父さんのことがお嫌いなのですか?」
「……」
核心を突く質問。先輩が困っているのかどうかは、これでわかる。叔父である亜流川さんとの仲が悪いのであれば、俺がどうにかしてあげたい。そう思った。
「いいえ」
だが先輩の口から出たのは予想外の言葉だった。
「私は叔父を嫌ってなどいませんよ。ええ、まあ好きかと言われればそうではないですがねえ……ひひ」
「そ、そうなんですか?」
あんなことを言われて、嫌いにならないものなのだろうか。もしかしたら先輩は、久しぶりに親戚に会ったから緊張していただけだったのかもしれない。
「ひひ、ひひひひ……そうです、私は叔父を嫌いになどなりませんよ」
もしそうなら、俺の杞憂だったのかも……
「あんな小者、嫌いたくもないでしょう?」
――その言葉で、やはり閂先輩と亜流川さんの間には埋めようのない溝があるのだと感じた。
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