「ヒャヒャヒャ、幸四郎。アンタの彼女が遊びに来たよ」
「……下級生の教室であまり大きな声を出すな。お前なんかと付き合ってることなんて知られたくない」
俺が沢渡との交際を了承してから一週間が経った。あの日以来、沢渡は昼休みに毎日、俺の教室にやってきた。
正直、学校内での悪評が目立つ沢渡と付き合っているとなると俺まで白い目で見られてしまう可能性があったため、沢渡には教室に来るなと伝えたのだが、そんなことを素直に聞くような女ではなかった。
「つれないねえ、幸四郎も中学生男子だし、もっとガツガツしてるもんだと思ったけどね」
「そいつはご期待に沿えなくてなによりだな。早く俺と香車の前から消えたらどうだ?」
「ヒャハッ、そういう男をその気にさせるのも楽しいのさ。これからもよろしく頼むよ」
「ちっ……」
馴れ馴れしく腕に抱きついてくるから、沢渡の胸が俺の腕に当たってしまう。沢渡自身のことは間違いなく嫌いなはずなのに、腕に当たる柔らかい感触が俺の欲望を掻き立ててしまう。自分で自分の感情をコントロールできない無様さが、また俺を苛立たせた。
「しかし、幸四郎はよくもまあ学校の授業なんて受けてられるね。アタシなんて午前中はまるまるサボっちまったよ」
「中学生なんだから、学校の授業を受けるのは当然だ。俺には特別な能力なんてものがないって自覚してる。だから地道に学力を付けるしか俺は将来の選択肢を増やせない」
「将来かい。そんなもん、アタシにとっちゃ芸能人が麻薬で捕まったニュースくらいどうでもいいね。アタシにとって重要なのは、いつでも今、この瞬間さ」
「沢渡……お前、三年生だろ? このままじゃ高校にも行けないぞ?」
年上にこんな説教をするのも妙な気分だったが、俺にはこいつが上級生には思えなかった。
「ヒャハハ、幸四郎はどこまでもアタシと真逆だねえ。先のことばっかり気にしているねえ」
「お前が知った風に言うんじゃない」
「いや、知った風に言うさ。なんせアタシは、アンタの彼女なんだからねえ」
「……ここでそれを言うな」
香車を守るためとはいえ、クラスメイトに沢渡と付き合ってることなんて知られたくはない。とりあえず俺は場所を移すことにした。
「沢渡、とりあえずこっち来い」
「おや、アタシを物陰にでも引きずり込もうってのかい? いいさ、歓迎するよ」
「いいから来い!」
これ以上こんな女と関わりたくはなかったが、教室でベタベタしていると思われるよりはマシだ。
「あっ……」
廊下に出ると、香車が俺と沢渡を見て目を丸くしていた。その直後、少したどたどしく俺に話しかけてくる。
「幸四郎、今日も沢渡さんと遊ぶの?」
「あ、いや、そういうことじゃない。この女が勝手に俺に絡んでくるだけだ」
「うん、わかってるよ。幸四郎は僕のために沢渡さんと付き合ったんだよね」
「……ああ、そうだ」
俺を見る香車の顔は、少し寂しそうに見えた。そういえば最近は香車と話す回数も減ってしまったような気がする。もちろんそれは、沢渡が絡んでくるせいだ。
「大丈夫だ、香車。心配しなくても、しばらくすれば沢渡も飽きて他の男を見つけるだろう。そうすればこんなヤツともおさらばだ」
「おや、本人の前で言ってくれるね。今のところアタシは他の男を探す気はないよ」
「なら早く探しておくんだな。俺と付き合っても、お前が楽しめる要素なんて何もない」
「ヒャハッ、幸四郎は案外鈍いんだねえ。こうしている今、この瞬間にも、アタシの楽しみが増えているっていうのに」
「なんだと?」
沢渡の言葉の意味はわからない。しかしその高笑いに腹が立つ。この女の狙い通りに状況が動いているのが気に食わない。
「気づかないのかい? そっちのボウヤは幸四郎と付き合っているアタシのことを、今も狙っているというのに」
「はあ?」
沢渡が指さしたのは、言うまでもなく香車だった。香車が沢渡を狙っている? こんな女を香車が好きになっている?
冗談じゃない。
「言っておくけどな、香車はお前みたいな見るからに遊んでいる女は間違ってもタイプじゃない。それは俺が保証してやる」
「……ふーん、なるほどね。幸四郎はそう感じたのかい」
「そう感じたも何も、ただ単に事実を言っただけだ。そうだよな香車?」
「う、うん」
香車は少し戸惑いながらも、首を縦に振った。当然だ。こいつがこんな女を好きになるわけがない。
しかし香車は、なぜか沢渡の言葉が気になったようだ。
「あの、沢渡さん。なんで僕があなたを狙ってるなんて思ったんですか?」
「おい香車、本気にするな。こいつはお前をからかってるだけだ」
「ヒャハハ。気になるなら答えてやるさ。アタシの友達にねえ、ちょっとそういうのに敏感なヤツがいてねえ。その友達が言ったのさ」
そして沢渡は、眼鏡をかけて香車を覗き込む。
「アンタはまともな人間じゃない。あの目は他人を『獲物』として見ているものだってさ」
そう言われた香車は、沢渡に対して身構えた。それを見た俺は、強引に沢渡を香車から引き離す。
「おい沢渡、いい加減にしろ。香車、お前はもう教室に戻ってろ」
「う、うん」
「沢渡、お前はこっちに来い。色々言うことがある」
「ヒャハハ、アタシの弱点教えてくれって言うなら、喜んで教えてあげるよ」
ふざけたことを言う沢渡を連れて、俺は教室から離れた。
後ろを振り返ると、香車はなぜか沢渡を無表情で見つめていた。
校舎裏に来た俺は、置いてあるベンチに沢渡を座らせ、質問をぶつける。
「沢渡、お前どういうつもりだ?」
「そうさね。その質問に答える前に、アタシのことは『生花』って呼んでほしいね」
「ああ?」
「それともアンタは、彼女をよそよそしく名字で呼びつつけるつもりかい?」
「……わかったよ。じゃあ生花。もう一度聞くがお前はどういうつもりなんだ?」
「はい、よくできました。じゃあ質問に答えようかね。そもそもアタシの目的はあっちの棗ってボウヤだからねえ」
「香車が目的だと?」
そういえば、沢渡……生花は香車が弟を殺した犯人を襲ったことを知っていた。それで香車に興味を持ったのかもしれない。
「言っておくが、香車はお前が求めるようなヤツじゃない。どこにでもいる、普通の人間だ。それがわかったら、もう二度と香車とは関わるな」
「おやおや、幸四郎は本当に鈍いんだねえ。それとも、ワザと気づかないフリをしているのかい?」
「なんだと?」
「さっきも言ったけど、アタシの友達曰く、あの棗ってボウヤはまともな人間じゃない。アタシも直に見てそれを確信したよ。あのボウヤがどこにでもいる普通の人間? そんなわけないさ」
「いい加減にしろ。香車がまともじゃないなんて、なんでわかるんだ」
ヘラヘラと笑う生花に苛立ち、俺も語気を強めてしまう。しかし生花は意に介していないようだった。
「そうさね。それを解説するためには、幸四郎にちょっとやってみてほしいことがあるんだよね」
「今度はなんだ。言っておくが、俺はお前と『そういうこと』をするつもりはないぞ」
「あー、『それ』はまた今度やってほしいけど、今回は違うよ。ちょっとアタシの首を絞めてみてほしいのさ」
「は?」
俺がこいつの首を絞める? なんで?
「なに、ちょっとした遊びさ。ほら、首絞められると気持ちいいみたいなの聞いたことあるだろ? そんなもんだと思ってくれればいいさ」
「ふざけるな、遊びで女の首を絞められるか」
「そうかい? アンタがだめなら棗に頼んでみるけどね」
「お前……! 香車にまた変なことを言うのか!」
「それがイヤなら、アンタがやるんだね。アタシはどっちでもいいよ」
「ちっ……」
こんなことをするのは心底イヤだが、これも香車のためだ。仕方ない。
「……誰か来たら、すぐにやめるぞ」
「心配しなくても、誰も来やしないさ」
そう言って、生花は上を向いて首を俺の前に晒す。シミ一つ無い白い肌と細い首が俺の目の前に現れる。
「……じゃあ、いくぞ」
「ああ、来なよ幸四郎」
生花は俺を見下ろす形で誘いの言葉を囁く。俺は両手で生花の首を掴んだ。その首は、中学生の力でも簡単に折れてしまうのではないかと思ってしまうほどに脆そうだった。
「これで、いいか?」
「何言ってんのさ、全然力入れてないじゃないか。もっと絞めないと、アタシも全然感じないよ」
「……わかった。苦しかったらすぐに俺の手を叩け」
俺は少しずつ両手に力を入れていく。慎重に行かないと、本当に生花を殺してしまうのではないかという恐怖があった。両手に力を入れていくにつれて、生花の顔から余裕が消えていく。
「あっ……! くうっ……!」
「お、おい! 大丈夫か!?」
「だ、大丈夫さ。もっと、もう少し……」
生花は苦しそうに呻いたが、同時に悩ましげに身体をくねらせる。これ以上は危険だと俺の理性が言っているが、ここで止めたら生花は香車をそそのかすかもしれない。だから止めることはできなかった。
「いい、いいよお幸四郎……もっと絞めてほしい……」
生花の顔が少しずつ青くなっている気がする。本当に頭に酸素が行っているのだろうか。俺の手がこいつの呼吸や血を止めているのではないのだろうか。そう思うと、俺の心に恐怖が宿っていく。
このままだと生花が死んでしまう。俺は人を殺してしまう。そうなったらどうなる? 俺は、俺は……
「ああっ!」
恐怖に耐えきれなかった俺は、悲鳴のような声を上げて生花の首から手を放してしまった。
対する生花は、激しく咳き込んで目から涙を流しながらも、恍惚の表情を浮かべている。
「げほっ! げほっ……いいねえ、幸四郎。アタシの『絶頂期』が来てるって気になったよ。アンタもなかなかやるじゃないか」
わけのわからないことを言う生花に対して、俺はまだ恐怖を感じていた。危うく俺は一人の人間の命を奪うところだった。
だがこうしなければ、俺は香車を守れない。これは仕方ないことなんだ。
「ま、満足したか?」
「ああ、今回はこれでいいよ。さて幸四郎。アンタはどんな気分だい?」
「どうもこうもあるか。最悪の気分だ」
「そうかい。だけど棗はそう言うかな?」
「なに?」
「もし棗なら、仮にアタシがどんなに泣きわめいても、首を絞めるのを止めなかっただろうね。なんなら、ボキッと折るまでやってたかもしれない」
「ふざけるな。そんなわけがないだろう!」
「そんなわけがない? どうしてそう言えるのさ。現にアンタは棗が人を殺そうとする現場を見たんだろう?」
「……!!」
違う。香車は弟を殺された怒りで、あんなことをしたんだ。決して自分の快楽のためじゃない。
「アンタはアタシの首を最後まで絞められなかった。それが普通の人間の行動さね。だけど棗は違う。アイツはいずれ人を殺すさ」
「違う。違う違う!」
「アタシがアンタと付き合っている限り、棗はアタシのことを見張るかもしれないねえ。今も見張ってるかもしれない。なにせアタシは棗の本質に気づいた人間だからね。アイツとしては、見逃すはずはないだろ?」
「そんなわけがあるか! 香車は……!」
「ヒャハハ、それこそがアタシの目的さ。アタシが棗に狙われているなら、こんなに刺激的なことはないだろ? ああ、『生きてる』って感じがする。アタシの『絶頂期』は近いかもねえ」
「黙れ!」
俺はふざけたことを言う生花を、思わず殴ってしまった。
しかし地面に倒れ込む生花は、尚もヘラヘラと笑っている。
「ヒャハッ、アンタが棗を殺人鬼にしたくないなら、死ぬ気でアタシを満足させな。そうなったら、アタシは棗よりアンタに興味を持つさ」
「……満足させるだと? さっきみたいなことをまたやれって言うのか?」
「方法はその時の気分次第さ。まあ、今回はこれでお開きにしてあげるよ」
そう言って、生花は立ち上がって服から土を払った。
そして俺は、この沢渡生花の術中にまんまと嵌められたことを実感した。
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