「おっと、どうやらあっちは終わっちゃったみたいだねえ。いやー、やっぱり閂さんが介入してたら、波瑠樹じゃダメかー」
能天気な声でつぶやいたのが妙に腹立ったけど、確かに萱愛は勝利したみたいだ。
エミは既に確保している。だったらこの場はさっさと逃げた方がいいんだろうけど、私としてはこの場で潰しておきたい。
この唐沢清一郎という男に、エミに手を出すことが何を意味するのか思い知らせなければならない。
「うーん、それで? 君はかかってこないのかい、黛さん?」
あからさまな挑発をしてくるが、いくらなんでもあんな大柄な男に殴りかかるわけにもいかない。かと言って、このまま逃がしたらアイツの目的もわからない。どうする?
「ルリ、ひとつ彼について教えておくことがある」
「え?」
「彼の目的はおそらく私ではない。そうだろう? 唐沢清一郎」
アイツの目的がエミじゃない? いや、そんなわけがない。アイツは弓長くんを差し向けてまで私を無力化したかったんだ。その先にある目的はエミしかあり得ない。
「それとも……君のことは“昔のように”、『アキヒト』と呼んだ方がいいのかね?」
しかし、エミがそう言った直後。
「調子に乗るなよ、小娘が」
唐沢の全身から放たれる空気が、瞬時に一変した。
「……っ!?」
アイツの声を聞いただけで、私の身動きが強制的に制限されたような感覚が襲ってきた。
さっきまでの穏やかな表情は、いつの間にか消え去っている。剥き出しの敵意と静かな怒りが同時に現れたような低く冷たい声が、私の身体を縛り付けている。エミの言葉が何を意味するのかはわからないけど、アイツの逆鱗に触れたことは確かだ。
しかし、その感覚はほんの数秒で収まり、唐沢は笑顔になっていた。
「……と、いけないなあ。私としたことが、若者相手にムキになってしまうところだった。これはいけない」
「ああ。おかげで私にも君の目的がバレてしまったわけだからね。やはり君が求めているのは……」
「言わなくていいよ。どうせわかってるなら教えてあげるさ。私が求めているのは、昔も今も、霧人先生だけだよ」
「やはりそうか。君の顔を見た時から、予想はついていたよ」
どういうこと? エミと唐沢の間では会話が成立しているけど、私には全く話が見えてこない。
「ああ、黛さん。たぶん何言ってるかわからないと思うからね、説明しておこうか。まず前提として、君の隣にいる彼女はね、本来の柏恵美さんじゃないんだよ」
「はあ?」
本来のエミじゃない? そんなはずはない。今もエミは出会った頃と同じく、芝居がかった口調と周りを惹き付ける特異性を崩していない……
出会った頃と、同じく?
じゃあそれ以前は? 私と出会う以前のエミは?
エミの過去に何があったのか。私は既にそれを識霧さんの日記で知っている。
『斧寺霧人くんが死んだ時に、彼の意識の一部が私に流れ込んできてね』
「ま、まさか……」
「あれ? もしかしてそのあたりは識霧くんから聞いてるのかな? 彼から柏さんのことを聞き出すのは苦労したんだけど、黛さんにはあっさり教えたんだねー」
今の話を総合すると、コイツの目的は……
「私はねえ、もう一度、霧人先生とお会いしたいんだよ。彼女の中に存在する、霧人先生にね」
エミの意識を消し、斧寺霧人を復活させることだというのか。
「霧人先生が亡くなったって識霧くんから聞かされた時はねえ、それはそれはショックだったよ。私はまだまだあの人に教わりたいことがたくさんあったんだ。だけど、二年前に小霧くんが柏さんのことを話してくれたんだよね。それで識霧くんを問い詰めたら、彼が柏さんを育てたことも聞き出せたよ」
「やはり私のことを君に教えたのは萱愛くんか。だが、私は斧寺霧人ではない。彼の意識や記憶の一部は継いでいる……と認識しているが、実際に彼がどういった人間だったのかも詳しくは『覚えていない』。しかし、君の目的には少し興味があるのだよ」
「そうか。だけど私の方は、君みたいな偽者には興味ないんだよ。だから君から霧人先生を解放したいのさ」
「……ふざけないで」
コイツは今のエミを否定している。今のエミが斧寺霧人の影響下にあり、本来のエミは別物であると断じている。
「『本来』とか、『偽者』とか、アンタが勝手に決めんじゃないわよ。私が出会った頃から、今に至るまで、エミはずっとエミのまま。『容赦なく殺されたい』って思っているエミのまま。アンタが得体の知れない爺さんを追い求めるのは勝手だけど、エミの中にそんなヤツはいない」
「ふーん。本当にそう思ってるのかな、黛さんは?」
「当たり前じゃない」
「霧人先生の思想が、『容赦ない絶望こそが人を救う』というものだったとしても?」
「……!」
確かに識霧さんも、斧寺霧人にその思想があると言っていた。それに私は、死んだ人間の意志が全く別の他人に乗り移る現象を見たことがある。
棗香車の意志が乗り移った『成香』と、何度も戦ってきたからだ。
エミの中には『斧寺霧人の意識』が流れ込んでいるとするなら、私が知っているエミは最初からその状態だったということだ。
だけど、もし。仮にその『斧寺霧人の意識』をエミの中から取り除くことができるのだとしたら。
「おっと、黛さん。考えちゃっただろ? 霧人先生と柏さんを切り離せたらって」
「……!」
「別にそれは悪いことじゃないと思うよ。だって君は柏さんと一緒に生きていたんだから。黛さんからすれば、霧人先生が柏さんの中にいない方が都合がいいし、私も霧人先生を柏さんから解放したい。ほら、私たちの目的は一致してるんだよねこれが」
惑わされるな。コイツは私を揺さぶって、その隙を狙っている。
「私はねえ、人間には役割があると思ってるんだ。霧人先生はご自分の役割を『絶望で人を救うこと』と仰っていた」
「確かに斧寺霧人は『容赦ない絶望で柏恵美を救いたい』という願いを持っていたようだ。その意思は私の中にも残り続けているよ」
「そうか。でもねえ、私からしてみれば、君は霧人先生からは程遠いんだよねえ。それなのに話し方や『絶望で救われたい』という考えだけは影響を受けている。腹立たしいったらありゃしないよ」
「いずれにしたって、アンタのやろうとしていることは到底不可能よ。斧寺霧人って人はとっくの昔に死んでいるんだから。そんな与太話でこれ以上エミを狙うなら、ただじゃおかない」
「うん、そうか。つまり黛さんは、本来の柏さんには別に興味ないのか」
「……!」
「そうだよね。君が柏さんを守り続けてるのは、彼女の特異性に惹かれているからだもんね。でもそれって、私から言わせれば君が好きなのは柏さんじゃなくて、霧人先生の意志を継いでいる柏さんなんだよ。そうかそうか、霧人先生が柏さんから解放されたら、君はそもそも柏さんを守る意味がなくなっちゃうのか。いやあ、それは気づかなかった」
「違う! 私は……!」
私はエミのことを、大切な友達だと思っている。だから彼女と一緒に生きていたいと願っている。たとえエミがどうなったとしても、それは変わらない。変わらないはずで……
「惑わされてんじゃねえよ、瑠璃子!」
その叫びが、堂々巡りになりかけた思考を晴らした。
「メイジ!」
「……瑠璃子よぉ、あのオッサンの言うことには何一つ耳を傾けんな。アイツにどんな理由があろうと、オレにとっても、お前にとってもアイツは間違いなく悪人だ」
「え?」
「『本当のお前になんて誰も興味ない』なんて言い放つヤツが、善人なわけがねえ。そうだろ?」
そうだ。その言葉こそが、私を長く縛っていた言葉。ずっと、メイジを悪人だと思い込ませた言葉。
たとえ唐沢が結果的に善人だったとしても、そんな言葉で弓長くんを利用したという事実は消えない。
「……ありがと、メイジ。吹っ切れたわ」
「だ、そうだ。どうするよオッサン?」
「どうもこうもないよ。私は別に戦いたいわけじゃないんだ。黛さんを柏さんから引き離せないなら、また別の策を考えるよ」
そう言ってこちらに背を向けた後、エミに向かって頭だけ振り返った。
「あ、そうだ。柏さんね、最後に聞いておきたいんだけど」
「なんだね?」
「君はその、『アキヒト』という呼び方について、霧人先生から何か聞いているのかな?」
「聞いてはいないよ。だが、覚えてはいる。君と斧寺霧人の関係についてもね。君が私を追い詰められたら、斧寺霧人が君をどう評価していたかも聞かせてあげようではないか」
「いや、いいよ。それは霧人先生から直接聞く。その時は、君の願いも叶えてあげるよ」
「ほう?」
「君から霧人先生を解放して、本来の君に『絶対に死にたくない』と思わせた後でね」
その目には、隠しようもないエミへの敵意が込められていた。
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