【7月30日 午後0時02分】
エミが私を見ていない。
「どうやら君は私と再会したいがために、どうやら随分と苦労したようだね」
「霧人先生……! 本当に霧人先生なんですか!?」
唐沢は歓喜に染まったような笑顔でエミに迫るが、私からしたらこれ以上ない非常事態だ。
エミは私の存在に気づいていないかのように、唐沢に微笑みかけている。その笑顔は私の知っているエミのものとは微妙に違う。
普段のエミの顔が相手の殺意や悪意を全て受け入れる不敵な笑みだとしたら、今の顔は相手の殺意も悪意も飲み込んで消し去ってしまうある種暴力的な優しさによるものだ。
そしてエミは、エミであるはずの女は、ようやく私に気づいた。
「……ん、ああ。確か君は……陽泉くんの一件で会ったかな。黛瑠璃子くん、だったか」
そうだ。今のエミの顔を私は前にも見たことがある。
陽泉に対して『見込み違い』と言い放った時の顔。エミが知るはずのない事実を言い放った人間の顔。
そして唐沢清一郎が、何人もの人間を巻き込んでまで会いたいと願った人間の顔。
「アンタが……!!」
証拠もない、現実味もない。だけどハッキリとした確信がある。
私の目の前にいるコイツが、斧寺霧人だ。
「だがね、私は君には興味がないのだよ。だから今は……退きたまえ」
ふざけるな。退けと言われて素直に退くわけがあるか。
「アンタがいるからエミは……!!」
だけど私の足は重りをつけられたかのように動かなかった。
「あ、ぐっ……!」
「無理はよしたまえ。君の身体はもう限界なのだろう? そこに横たわっているといい」
そして『斧寺霧人』は唐沢の傍に立つ。
「霧人先生……! 本当に、もう一度私の前に現れてくださったんですね!?」
「そうだよアキヒト。『斧寺霧人』は君の元で会話の指導を受けたかったようなのだがね。彼女を……柏恵美を救う過程で命を落とした結果、この子の中に残ることになったのだよ。済まなかった」
「謝らないでください……私はあなたがもう一度と会うことができれば……それで……」
涙を浮かべて頭を下げる唐沢に対し、『斧寺霧人』は唐沢の右手を掴む。
「おや、君の望みはそれで終わりではないだろう? せっかくだから君の願いも柏恵美の願いもこの場で叶えてしまおうではないか」
「え?」
「黛瑠璃子くん、君もそこで見届けてくれたまえ。ギャラリーがいるというのも悪くない」
そして『斧寺霧人』は、唐沢の手をエミの首に導く。
「彼によって柏恵美の命が絶たれ、彼女の心が『絶望』によって救われる瞬間をね」
よりによって私の前でそんなセリフを吐くのなら、コイツを許すわけにはいかない。
「ダメ……エミは殺させない! 傷つけさせない!」
「君の意志など聞いていないよ。私は柏恵美を救いたい。彼女が望む形で救いたい。それに君は、彼女がずっと『殺されたい』と願っているのを知っているのではないのかな?」
「知った上で言ってるのよ。それにエミは私が必ず助けに来ることも『絶望』として認めてくれた。死人が今さら出てきたってもう遅いわ」
「もう遅い、か。君と柏恵美が出会ったのは4年前だと記憶しているのだがね。私から言わせれば、後から割り込んできたのは君の方だよ」
「……記憶している?」
コイツは私とエミの出会いを記憶している。いや、もしかしたら……
「き、霧人先生。先ほど、なんと仰いました? 私に……霧人先生を殺せと仰ったのですか?」
「ん? そう言ったのだが、聞こえなかったのかね?」
「なぜそんなことを仰るのですか!? 私は、あなたともう一度お会いしたいと思っていたのに……! この私にあなたを殺せと言うのですか!?」
「何を言っているのだね? そもそも君はずっと柏恵美を殺したかったのだろう? 彼女がいるからこの私が中途半端な形でこの世界に留まることになってしまった。ならば私ごと柏恵美を殺せばいい。そうすれば君の望みも彼女の望みも叶う。そう言っているのだよ」
「何を言って……?」
「もしかして、君たちは何か大きな勘違いをしているのではないかね?」
そう言って、『斧寺霧人』は両腕を広げる。
「今の斧寺霧人と柏恵美は別々の存在というわけではない。二重人格というわけでもない。ただ、お互いがお互いの足りなかったものを補い、完成した結果が今の『柏恵美』なのだよ」
言葉の意味が分からない。だけど不思議と、コイツの言ってることは嘘や妄想ではなく、真実なのだと悟った。
「黛瑠璃子くん、君は“私”を消滅させれば柏恵美は『絶望』に向かわなくなると考えているのかもしれないが、それは違うよ。『絶望』を求める心は正真正銘、彼女自身からもたらされたものだ。『斧寺霧人』とはいわば、彼女にそれを気づかせるためのトリガーに過ぎない」
「なら、今のアンタはなんなのよ!」
「『斧寺霧人』としての記憶を完全に思い出した状態とでも言おうか。今の私がなんにせよ、『柏恵美』と『斧寺霧人』は既に切り離せない存在だ。『斧寺霧人』を殺すということは『柏恵美』を殺すことと同義だよ」
なら、今の私の前にいるのは正真正銘エミ本人だというの? いや、そんなはずはない。
『私は君には興味がないのだよ』
エミがあんなセリフを言うはずがない。幾度となく自分の願望を潰してきた私を『強く恐ろしい存在』と認めたエミが、あんなセリフを言うはずがない。
だからコイツは、エミを消し去ろうしているコイツは、私の敵だ。
「霧人先生……私にはできません」
唐沢は震えた声を出しながら、 『斧寺霧人』の首を掴んでいた手を離した。
「できない? そんなはずはないだろう。君は柏恵美を許せないはずだし、私を殺せば『絶望』に突き落とされるだろう。君のことも柏恵美のことも救える。何の問題があるのだね?」
「私が許せないのは柏恵美であって、霧人先生ではありません! 私はずっとあなたにお会いしたいと……!」
「君にはもう私は必要ないよ。『絶望』こそが人を救うという私の教えを、君はよく理解してくれている。今の君なら私の意志を継いで、『絶望』で人を救えるだろう」
そう言って、『斧寺霧人』はエミの顔で再び笑う。
「さあ、アキヒトくん。今度こそ君を、そして柏恵美を『絶望』で救おう。私の命を絶てば、君の心は救われる。そうだろう?」
「……ですが、私は!」
「どうしたのだね? 君の力ならこの細い首をへし折ることもたやすいだろう。それだけでいい。それだけで君は救われるのだよ」
さっきから聞いていると、唐沢と『斧寺霧人』の会話はどこか噛み合っていない。『斧寺霧人』を殺したくはないという唐沢の言葉と、唐沢を救いたいという『斧寺霧人』の言葉が平行線になっている。
そういえば、さっきからコイツの言葉には何か違和感があった。姿も声も口調もエミと同じなのに、決してコイツはエミではないと感じさせる何かがあった。
その時、私は陽泉の一件を思い出した。
『君の語る『愛』は、小霧にも『この子』にも心地よい絶望をもたらしてくれると思っていたのだがね。どうやら違ったようだ』
……そうだ。コイツはあの時もそうだった。
コイツの言葉に含まれている違和感。唐沢との会話が噛み合わない理由。私はそれをよく知っている。ついこの間思い知らされたばかりだ。
「アンタはやっぱりエミじゃないわ」
「ほう?」
「唐沢の言った通りだったわ。アンタはエミとは似ても似つかない」
そう、コイツはどう考えてもエミじゃない。
「だってアンタが救いたい対象に、アンタ自身が入ってないんだから」
本物のエミだったら、ここまで自分を蔑ろになんてしない。だってエミは自分が思い描く『絶望』を手に入れるために周りの人間たちを何度も巻き込んできた女だ。
「アンタは他人を救うことしか考えていない。だからアンタの前にいる男が、なんでアンタを殺せないのか理解できてない。そんなヤツが他人を救う? 死んだ後まで寝言言ってんじゃないわよ」
「……なるほど。柏恵美の支配者を名乗るだけのことはある。『斧寺霧人』の歪みも一瞬で見抜いたようだ」
『斧寺霧人』は私の指摘を受けても微笑みを崩さない。
「だが、君に何ができる? もはや君にできることは柏恵美が自らの望みを叶え、この命を終えることで救われるのを見届けるだけだ」
「いいえ、できることはまだあるわ。もう終わったけど」
「なに?」
そう、もう私は手を打っている。
「黛さん、伏せて!」
「ぐっ!?」
その言葉の直後。
私の背後から現れた女性が、唐沢に蹴りかかっていくのが見えた。
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