柏ちゃんの手を引いてホームセンターがあるフロアを走り抜け、階段の手前にまでたどり着く。
「柏ちゃん、急いで!」
「あ、ああ……」
全力で走って一刻も早くアイツらから距離を取りたいところだったけど、当の柏ちゃんがまだ動揺を隠せないでいた。今も頻繁に後ろを振り向いている。
私が男だったら柏ちゃんを背負ってでも走ってしまいたいけども、あいにくそんな力は持ち合わせていない。今だけは萱愛の父親みたいな屈強な肉体が羨ましく思えた。とにかく後ろを気にしている柏ちゃんの腕を強引に引っ張って急いで階段を駆け下り、ビルの一階にたどり着く。
「早くここから出て、大通りに行くよ!」
この建物さえ出てしまえば、ショッピングモールの人ごみに紛れ込める。そこから柏ちゃんのスマートフォンで黛センパイに連絡して身を隠しつつ合流すればいい。
しかし私の思惑とは裏腹に、柏ちゃんは足を止めてしまった。
「ちょっと、何やってるの!?」
ここに来て思い通りに動かない柏ちゃんに苛立ってしまう。だけど彼女は私を見て、真剣な顔で言い放った。
「……樫添くん、彼女とは知り合いなのかね?」
「え?」
「沢渡くんが、『アサヒ』と呼んでいた女性のことだ」
「知らないし、今はそんなことより早く逃げるのが先決でしょ!」
「逃げる? なぜ?」
「なぜって、逃げないと柏ちゃんが……」
『アイツに殺されてしまうかもしれない』と言おうとして、ようやく気付いた。
柏ちゃんが、あの女に殺されてしまうかもしれない。『狩る側の存在』によく似た女に殺されてしまうかもしれない。
ああ、そうだ。それこそが……
「『狩る側の存在』を前にして、私が逃げ切れると思うのかね?」
それこそが、柏恵美が求めてやまない理想なんだ。
そもそも私や黛センパイは、彼女の理想を叩き潰した上で今の関係を築いている。自分たちのエゴに、柏ちゃんを付き合わせている。私たちの願いと柏ちゃんの願いは、最初から真逆なんだ。だから、自分のことを『獲物』だと考えている柏ちゃんが『狩る側の存在』を前にして逃げるわけがない。
いや、たとえどんなに手を尽くして逃げようとしても、必ず命を奪いに来る。それこそが、『狩る側の存在』だと、柏ちゃんは考えている。
「樫添くん、もう一度聞こう。なぜ沢渡くんは、『アサヒ』なる女性と君を会わせようとしているのだね? もしかしたら、あの女性は君を狙っているのかね?」
「そんなこと知らないよ! 早く逃げるよ!」
「私たちが逃げられるとは思えない。君一人なら逃げられるかもしれない。私はここに残るよ」
「そんなこと出来るわけないでしょ!」
まずいまずいまずい。
柏ちゃんがまずい状態になっている。さっきの『アサヒ』とかいう女を見たことで、完全にスイッチが入ってしまったのかもしれない。引きずってでも彼女を逃がさないといけないのに、このままだと二人とも捕まる。
「柏ちゃん! 今ここであの女に捕まっても、黛センパイはアンタを必ず助けにくるよ!」
「ルリ、が?」
「今までもそうだったでしょ! 黛センパイはアンタの願いを叩き潰してきた! 棗香車が相手でもセンパイは引かなかった! だからあの女に捕まったところで、柏ちゃんの願いは叶わないの!」
「あ、ああ……」
黛センパイの名前を出したことで、柏ちゃんの目に微かな光が戻る。
「そう、だったね。ルリは私を支配している。私がここで捕まっても、ルリが助けに来るのだろうね」
おかしな話だけども、そう言った柏ちゃんの顔には、諦めのような感情が見えた。やはり、黛センパイの存在は、柏ちゃんにとっては『絶望』に値するのかもしれない。
「ならば行こうか。沢渡くんは空木晴天と手を組んでしまったようだし、あの男の思い通りになるのも癪だ」
「わかったらさっさと行くよ!」
もう手を引く必要はない。私と柏ちゃんは全速力で建物を出て、大通りの人ごみに紛れた。
「はあ、はあ……ここまで来れば大丈夫でしょ」
久しぶりに全力で走ったせいか、息が上がってしまった。もっと普段の運動の量を増やさないと。柏ちゃんを見ると、汗はかいているものの、そんなに息は上がってない。この子の体はどうなってるんだろう。
「ふむ、確かにこの人通りの中で私たちを見つけるのは困難かもしれないが……」
私たちは今、さっきのホームセンターがあったショッピングモールから離れて、近くの駅の中に逃げ込んだ。現在時刻は午後二時。休日ということもあり、利用客も多い。私たちをピンポイントで見つけられるとは思えない。
「とりあえず……黛センパイに連絡しましょ……」
「そのことなのだがね、樫添くん。君はあの場所にスマートフォンを落としてしまったようだが?」
「うん、だから柏ちゃんのスマートフォンを貸して」
「それは構わないが、君はあのスマートフォンに、私の位置情報を入れているのではないのかね?」
「あ……!」
そうだ。黛センパイに言われて、柏ちゃんのカバンに入れたGPS装置の位置情報をスマートフォンで見れるようにしたたんだった。
もし沢渡がそれを拾っていたらまずい。いや、スマートフォンにはちゃんとロックをかけてあったはず。おいそれとは中は見れないはずだ。
そう思っていると、柏ちゃんのスマートフォンが鳴った。
「もしもし……ああ、ルリか。やはり君は行動が早いね。そうだね、君の言う通り不測の事態が起こっているよ」
どうやら黛センパイがこちらに連絡を取ってきたようだ。
「柏ちゃん、電話を代わって!」
「ああ、どうぞ」
「もしもし、樫添です」
『樫添さん!? よかった、無事なのね?』
「はい。ただ、スマートフォンを落としてしまいまして……」
『それはわかってる。さっきあなたに電話したら、沢渡が出たわ』
「やっぱり拾われてたんですね。さっき沢渡に襲われましたよ」
『敵は沢渡一人だった?』
「いえ、もう一人いました。『アサヒ』と呼ばれていた女です」
『……!!』
『アサヒ』の名前を出した途端、黛センパイが言葉を詰まらせるような音が聞こえた。
『そいつは、どんな女だった?』
「一言でいえば、棗香車にそっくりな女でした。顔だけじゃなくてその……雰囲気が」
『……わかった。とにかくそのまま身を隠してて! すぐにそっちに行くから、合流したら詳しいことを話すわ!』
「わかりました」
電話を切って、今の状況を整理する。
おそらく黛センパイは空木曇天から新たな情報を引き出したんだろう。それがさっきの『アサヒ』なる女につながる情報なのは間違いない。
さて、どうするか。とにかく一刻も早く黛センパイと合流するべきだろう。沢渡たちから離れる必要も考えると、こっちからも動いた方がいい。
黛センパイは今、『死体同盟』のアジトからこちらに向かっている状況だ。ならこちらからも向かった方がいい。
メールで黛センパイに、『私たちもそっちの方向に向かいます。中間の駅で合流しましょう』と送り、柏ちゃんに顔を向けた。
「柏ちゃん、行くよ!」
「ふむ、その前に私のカバンに入っているというGPS装置を抜いておこうか。そうでないと、いくら逃げても追いつかれてしまうよ」
「あ……そうだった」
柏ちゃんに指摘されてから気付くようじゃ、私は黛センパイには遠く及ばない。そう考えつつも、彼女のカバンに手を入れた時だった。
「……!!」
私の目線の先。人ごみの中に、沢渡と……『アサヒ』がいた。
だけど向こうはまだ私たちに気づいていないようだ。柏ちゃんがまた『アサヒ』を見るのはまずい。彼女に動揺を悟られないように、平然を装ってGPS装置をカバンから取り出し、近くにあった公衆電話の近くに置いた。
「柏ちゃん、とりあえずこれで位置情報を悟られることはないから、早く行こう」
「……わかった。行こうか」
急いでその場から離れて、改札を目指す。だけど私には少しの不安があった。
もし、柏ちゃんが『アサヒ』ともう一度対峙した時、私で彼女を抑えることができるだろうか。彼女の願望を叩き潰すことができるだろうか。
私は黛センパイじゃない。そこまで彼女を支配できるとは思えなかった。
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