「空木さんのお宅ですね? はい、お宅の……曇天くんが迷子になっていましたので、ご連絡させていただきました。はい、場所は……」
夕飛さんが私の両親に連絡しているのを、私はぼんやりと眺めていた。
今なら、夕飛さんが全くの善意で自分を助けてくれたのだと理解できるが、当時の私は兄以外の大人に猜疑心しか抱いていなかったので、なぜこの人がここまでしてくれたのかを全く理解できなかった。
ぼくは兄さんとは違う。お父さんからも期待されてないし、飛びぬけて勉強ができるわけでも運動神経がいいわけでもない。絵も描けないし歌も上手くない。助けられる理由がない。
このお姉さんは、どうしてぼくを助けようとしているのだろう。
そんなことを考えながら夕飛さんを見ていた。
「君のお兄さんに連絡がついたわ。すぐ迎えに来てくれるらしいから、ここで待ってようね」
「兄さんが……来るんですか?」
「うん、そう言ってたよ」
「……」
夕飛さんの言葉を聞いて、私の不安が大きくなった。
兄は私を疑った。もう兄にとって、私は『生きていてほしい存在』ではないかもしれない。その事実が私の心に暗く残っていた。
「どうかしたの?」
そんな私を、夕飛さんが覗き込んだが、事情を上手く説明できると思えなかったので、私は黙っているしかなかった。
そして十数分後、私たちの前にタクシーが停まり、中から兄が飛び出してきた。
「どんてんくん!」
兄は私の傍に来ると、私の目線に合わせてしゃがみこみ、体を触って傷がないかどうかを確認した。
「大丈夫かい? 家に帰ったらどんてんくんがいないからお父さんに聞いたら、叩き出したって言われて驚いたよ」
「兄さん……」
「ん? なんだい?」
「どうして、ぼくを疑ったの?」
兄にとって、私は大事な弟であると思っていた。だから私を助けてくれるのだと思っていた。しかしその考えと、兄が私を疑ったことにどうしても乖離がある。だから聞いてしまった。
そんな私に対し、兄はこう答えた。
「あーあーあー、疑ってなんてないよ。だってそもそも、ボクのレポートのデータ、消えてないし」
「え?」
あっさりとそう答えたことに対し、私の混乱が深まったのを今でも覚えている。レポートが消えていないのであれば、最初からこの騒動は無意味だったこととなる。だが兄がそんな無意味な騒動を起こした理由がわからなかった。
だがその理由は、すぐに明かされることとなる。
「あー、どんてんくんさ、ボクに疑われたと思って怖かったよね? でもね、本当に怖いのはこれからなんだよね」
「ど、どういうこと?」
「だってボクはこれから、お父さんに『どんてんくんがレポートを消したって認めた』と報告するからね」
「……え?」
わからなかった。兄が何を言っているのか、どういう意図の言葉を言っているのかわからなかった。
「ああ、怖いなあ。どんてんくんはこれからお父さんにすごく怒られるんだろうなあ。そして、どんどん逃げ場がなくなるんだろうなあ。でも大丈夫だよ、ボクは絶対に君を見捨てたりしないからねえ」
「ま、待ってよ、兄さん。なんでそんなことをするの?」
「あーあーあー、言ったよね? 『ボクはどんてんくんの『希望』になりたい』って。その言葉通りだよ」
「だ、だって……」
「ん? そんなのは『希望』じゃないって? そんなことはないだろ? ボクはどんてんくんを守り続けるよ。君のことを理解しないお父さんからもお母さんからも、君のことを『空木晴天の弟』と扱い続ける世間からも。だから君はどんなに苦しくても、ボクという『希望』に縋って、生きていてほしいんだよね」
「あ、ああ……」
その発言で、私はようやく気付いた。
兄の言っている『希望』を成立させるには、私が苦しむ必要があるということに。
『希望』という言葉に込められたプラスのイメージから、兄は私を救いたいのだと思っていた。だが現実は逆だ。『希望』とはその人物がまだ苦しい状況にある時に抱くもの。
兄は最初から、私を苦しめて、唯一の『希望』である自分の支配から逃れられないようにしたかったのだ。
当然、幼い私の中で明確に兄の考えを言葉にできたわけではなかったが、兄が私を苦しめたいという部分だけははっきり理解できていた。
「やだよ……こんなの、やだよ」
ついに自分には誰も味方がいない状況になってしまった。そう思った私の心に『絶望』が訪れようとしていた。
生きていたくない。死んでしまいたい。そう思って、うつむいた。
「どんてんくん? もしかして君、死にたいなんて思ってない? あーあーあー、それはダメだよ。言ったじゃないか、ボクは君に生きていてほしいんだよ」
「だ、だって、それは……」
「うんうん、それはボクがそうしてほしいからだよ。でも、“もしかしたら”ボクが本心から君の味方をしたくなるかもしれない。“生きてさえいれば”ボクは君を助けたくなるかもしれない。それにさあ」
兄は私の肩を強く掴む。
「君が死んだら、ボクは君のことを本当に軽蔑するよ。それにお父さんたちにも『曇天は自分の罪を認めたから自殺した』って言っちゃうよ。あー、そうなったら怖いなあ。君は死んでからも、みんなに軽蔑されて、どうしようもない子供だったってみんなに思われて、きっとみんなから『どんてんくんのようにならないでね』って言われるようになるんだ。ああ、こわいこわい」
「そんな……そんなのやだ……」
「そうだよね。嫌だよね。でも君が生きてさえいればそうはならない。生きてさえいればボクが君の『希望』になる。あーあーあー、『希望』を抱くっていいよねえ。これこそが人間の生きる力だと思うよ」
爽やかに笑う兄の顔は、私にはとても恐ろしいものに思えた。兄は私が『絶望』することさえ許さない。『死』を選ぶ自由すら許さない。
私は兄の唱える『希望』が春の日光のような暖かな光だと思っていた。だが現実は違う。兄のもたらす光は、私の体を焼き尽くすものだ。
気づかなかった。空木晴天はその名が示す通り、他人の心に光を与える者だった。だがその光が危険なモノであることを知らせてくれる人間はいなかった。
空木晴天が危険であるという、『快晴警報』を出す人間が誰もいなかった。
私は兄が唱える『希望』によって、一生身を焼かれていく……
「なるほどね。こんなお兄さんがいたら、家出したくもなるでしょうね」
上からその言葉が聞こえた直後、目の前にいた兄は、乾いた音と共に地面に倒れこんでいた。
何が起こったのかわからなかったが、目の前には兄の代わりに夕飛さんが立っている。その眼前に、兄が倒れこんでいる。
夕飛さんが兄を蹴り飛ばしたのだと理解したのは、それからだった。
「あー、痛いなあ。すごく痛い。初対面の人間に膝蹴りするとか、女性のやることじゃないですね」
「うん。私も初対面の男に膝蹴りしたのはアンタが初めてよ。ま、それくらいムカついたってことなんだけど」
兄は側頭部をさすりながらも、特に怒った様子もなく笑いながら立ち上がった。それに対し、夕飛さんは明らかな怒りの表情を見せている。
「私にも歳の離れた妹がいるんだけどさ、全部やりたいようにさせたら大変だから、ある程度の制限はしたけど。アンタみたいに弟を自分の道具にするようなことはしなかったよ」
「あーあーあー、そうなんですね。でも、それはあなたのやり方であって、ボクのやり方じゃないんですよね」
「アンタのやり方? 弟を道具にするのはアンタの欲を満たすだけの下衆な行為でしょ?」
「ちょーっと、乱暴な言い方ですね。ボクはどんてんくんの兄として、彼が生きていられるようにしているんですよ」
「『生きてさえいればいい』なんてのは、他人の痛みを理解しないヤツの言うことよ」
そして夕飛さんは私をかばうように立ち、改めて兄と対峙した。
「うーん、困るなあ。あなたがどんてんくんの『希望』になるのは、すーごく困る。どんてんくんの『希望』はボクであってほしいんですよね」
「他人の『希望』をアンタが制限するんじゃないよ。確かに私はこの子にとって赤の他人かもしれない。だけど……」
夕飛さんは私に対して名刺を取り出す。
「この子に選択肢を与えることはできるわ」
名刺には、夕飛さんの連絡先が書いてあった。
「曇天くん。もし君がお兄さんの言うことが間違っているのかもしれないと思うなら連絡しなさい。おばさんがお兄さんを叱ってあげるから」
その言葉は、私にとって新たな『希望』を生じさせた。
「あーあーあー、そーういうことしますか。わかりましたよ。あなたをどうにかしないと、ボクはどんてんくんの『希望』にはなれなさそうだ」
「そういうこと。ま、私にできることは今はこれだけだから、もう行くわ」
「あー、ちょっと待ってください。一応、お名前を聞いておきましょうか」
「私は……とりあえず、『夕飛』とよんで頂戴」
「わーかりました。ボクは空木晴天です」
そして兄は、夕飛さんの前に立つ。
「ボク、あなたのことは結構好きかもしれません。よかったら今度、お食事しませんか?」
「あら、私はバツイチで二児の母のアラサー女なんだけど。アンタ物好きね」
「あーあーあー、恋に歳の差は関係ないって思ってるんで」
「そういうのは、いい男になってから言いなさい」
そう言って、夕飛さんはその場を立ち去った。
残された私は、兄の顔を見上げる。
「……ずーいぶんと、面白いことしてくれるなあ」
静かに呟いた兄の声は、少しの怒りが含まれているように聞こえた。
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