3月。長かった受験勉強も終わり、無事に第一志望である進学校、M高に合格した俺、萱愛小霧は、入学手続きも済ませて入学案内を受けにM高を訪れた。
「割と、校舎は古いんだな……」
進学校ではあるが公立のためか、所々痛んだ校舎を眺めながら俺はトイレを探していた。
一通りの案内を受けてあとは家に帰るだけだったが、帰り道でトイレを探したくなかったので、ここで済ませようと思ったのだ。
「何をしているのかね?」
その時、声を掛けられた。
低めではあるが、女性の声だった。口調からしてここの教師だろう。もしかしたら、校内をうろついていたのを咎められたのかもしれない。
「すみません、ちょっとトイレの場所……っ!?」
後ろを振り向いた俺の目に映った人物。その人物は教師ではなくここの生徒、つまり俺の先輩になる人物だった。
しかし――
「どうしたのかな? 何を驚いている?」
その女生徒は本気で俺の動揺の原因を知りたがっているようには見えなかった。
それはそうだろう、その姿を見れば、誰だって動揺する。だから、女生徒は俺が何故動揺しているか大体わかっているのだろう。
「あ、あの……どうしたんですか? その……ケガは」
失礼かとも思ったが、思わず聞いてしまった。
何しろその女生徒は、頭や顔、スカートの下から伸びる両足、さらには両手と、至る所に包帯を巻かれ、絆創膏を貼っていたのだ。さらに、袖の下にある両腕にも包帯が見えたことから、見えないところもケガをしているのかもしれない。
「ん、これかね? 日常生活には支障がないから安心したまえ。さすがに激しい運動は無理だが」
「あ、ああ、そうなんですか……」
「おや、もしかして君も私を傷つけたいのかな?」
「は?」
「日常生活に支障がない程度のケガでは生ぬるい。自分ならもっとお前を痛めつけているところだと、言いたそうな顔をしていたのでね。そうなのかと……」
「なんでそうなるんですか!」
なんだなんだ!? 初対面の人間にいきなり何を言っているんだこの人は!?
「ふむ、さすがに違ったか……」
何故か残念そうな顔を浮かべる女生徒だったが、俺は彼女の発言を思い返し、あることに気がついた。
「ちょっと待ってください」
「ん、どうしたのかな?」
「今、『君も』って言いましたよね? 『君も私を傷つけたいのか』と」
「そう言ったね」
「じゃあ、そのケガは誰かに負わされたものなんですか?」
あまり考えたくはない。これから入る高校に、忌み嫌う出来事があるということは。
だが、彼女は言った。
「そうだよ」
認めた。彼女は誰かにケガを負わされたことを認めた。つまりこういうことだ。
彼女は、暴力を受けている。しかも、おそらく学校内の人間から。
「……失礼ですが、そのケガについてご両親は?」
「私の両親は既に他界しているよ」
「じゃあ、やっぱりあなたは学校内の人間から暴力を受けているということですね?」
「そうだよ」
学校内の人間に暴力を受けている、しかも全員にケガを負うほどの。
つまりこういうことだ。
――いじめ。
……許せない。こんなことは許せない。いじめなんて、この世の中にあってはいけないのだ。
「……いつからですか?」
「ん?」
「いつからいじめを受けているんですか?」
彼女は一目でわかるほどのケガを負っている。よほど最近のことで無い限り、学校側が気づかないはずはない。
「ふむ、これはいじめと言うのかな?」
「当たり前でしょう! そんな全身にケガを負うほどの暴力を振るわれている! いじめじゃなくて何なのですか!?」
「まあ、私の現状を何と呼ぶかは君の自由だよ。さて、時期だったね。私が暴力を受け始めたのは、一年半前くらい、一年生の頃だったね」
一年半前!? まさか、まさか、そんな長い間、学校はこのいじめを放置していたのか!?
「このことは、先生たちは!?」
「教師には話してしないよ。別に話すことでもないだろう?」
「何を言っているんですか!? 今すぐにでも相談するべきです!」
こんな、こんなことがあっていいわけがない。
他人を傷つけるなど最低の行為だ。そんなことをする人間はどんな理由があっても許せない。ましては殺人なんてする人間はもっと許せない。
俺は他人を助けたい。そういう人間になるべきだと教えられてきた。他人を助けることは正義だ。そして、他人を傷つけることは悪だ。
それは何があっても変わることがない事実だ。
「助言は有り難く受け取っておこう。だが、私は別に……」
俺が必死に訴えても、彼女は受け入れてくれない。だから、思わず行動に出てしまった。
「勇気を持ちましょう!」
俺は彼女の両肩を掴み、目を見て訴えた。
「先生に相談することで、いじめが悪化することが怖いのでしょう!? 大丈夫です! 先生たちは力になってくれます! 何なら、俺が一緒に先生に相談します! だから、いじめと戦いましょう!」
恐らく、彼女はいじめの犯人の報復を恐れて行動に移せないのだ。
だが、大丈夫だ。学校の先生に言えばきっと力になってくれる。先生とはそういう人の集まりだ。
「俺も協力します! 足りなかったら、この問題を教育委員会にも相談します! だから、負けないでください! 心を折らないでください!」
俺はいじめが許せない。だから、この人を助けると決めた。
大丈夫だ、きっとうまく行く。勇気を持って努力すれば、乗り越えられないことはないのだ。
「……ふむ、なかなか面白い人だね君は」
だが女生徒は、まるで俺をあざ笑っているかのような表情を浮かべた。
「な、何がおかしいんですか!?」
「君に一つ聞きたいのだがね」
予想外の反応に驚く俺に、彼女が質問する。
「もし私が、この状況を悦んでいたとしたらどうする?」
「……は?」
予想外の発言に、肩から手を放してしまった。
え? 何を言っているんだこの人は?
この状況を悦んでいる? え、つまり、暴力を受けていることを悦んでいる?
待て、そんなことがあるはずがない。そんな人間がいるわけがない。
「現実から目を逸らしてはダメです!」
おそらく彼女は、現実逃避を起こして自分の考えをねじ曲げている。だが、そんなことではダメだ。断固としていじめに立ち向かうべきだ!
「勇気を持って立ち向かいましょう! 現実は辛いかもしれませんが、努力すればきっと乗り越えられます!」
「……なるほど、それが君の答えか」
尚も彼女は、俺の訴えを受け入れてくれない。だが、必死に訴えればきっと届くはずだ。
「君の行動は私を救うものではないよ」
「俺じゃ力が足りないってことですか!? 大丈夫です! この問題を先生たちに告発して、皆で力を合わせましょう!」
「……くっくっ」
「何がおかしいんですか!?」
「いやね、『狩られる側』である私を受け入れない君に『現実を見ろ』と言われたのが面白くてね」
彼女の口から、聞き慣れない単語が出てくる。『狩られる側』? 何を言っているんだ?
「つまりだね、直接的な表現をするとだ、『私は暴力を受け続け、いつか殺されることを望んでいる』……そう言っているのだよ」
……は?
殺されることを、望んでいる?
いじめを受け続け、殺されることが望み?
「だからこそ、君の行動は私を救わない。残念だがね」
そう言って、彼女はこの場から立ち去ろうとする。
「ま、待ってください!」
立ち去ろうとする彼女の肩を、俺は再び掴んだ。
「そんな考え方は間違っています! きっとあなたは、いじめを受け続ける自分の状況を受け入れられていないだけです! 目を覚ましてください!」
「私は最初から正気だよ。本心で殺されたいと願っている」
「そんなわけがないでしょう! いじめが辛いからって死ぬなんて以ての外です! 現実に立ち向かいましょう!」
そう、何があっても人は生きていなければならない。自殺なんて論外だ。
誰もが幸せに生きていた方がいいに決まっている。
「……そうか、ならば私は君に挑戦するとしようか、萱愛くん」
「えっ?」
突然、名前を呼ばれたことに驚きを隠せなかった。なんでこの人は、俺の名前を知っているんだ?
「……恐らく、そう遠く未来に私は再び暴力を受ける」
「な、なんでそんなことが?」
「わかるのだよ。『彼』は私を常に見ている。そして君は、狩られることを望む私を自分なりに救ってみたまえ」
俺なりに、彼女を救う?
少し考えているうちに、彼女は再び歩き出した。
「ま、待ってください! まだ話は……」
「ああそうだ、私としたことが自己紹介を忘れていた」
そして、彼女は俺を振り返った状態で自己紹介をした。
「私の名前は柏恵美。4月から、君の先輩になる者だ」
柏……恵美。
「入学おめでとう。君の活躍を期待しているよ」
そう言って、柏先輩は意味深な微笑みを浮かべた後に去っていった。
その時の俺はまだ知らなかった。
この上級生との出会いが、俺の価値観を大きく変えることを。
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