【7月5日 午後4時16分】
「柳端……!」
紅蘭さんと共に俺の前に現れた柳端だったが、俺から視線を外して竜樹さんに目を向けた。
「竜樹さん、弟さんのことを解放してもらえませんか?」
「なんで僕が君の言うこと聞かなきゃならないの? ていうかさあ、君は紅蘭に寝返ったんだろ? だったら尚更許せないね」
「寝返ったも何も、俺は初めから竜樹さんの味方じゃありませんよ」
柳端と竜樹さんの会話から見ても、この二人が親しい関係というわけじゃなさそうだ。一方で柳端の味方をするわけにもいかない。今の俺の第一の目的は……
「波瑠樹くん……!」
波瑠樹くんを助ける。俺はそう約束したんだ。
俺に掴みかかっている彼の力は強い。だけど、唐沢先生の『オーダー』に従っていた時のような意志の強さは感じられない。それは彼の表情が物語っている。
「僕は、僕は、誰かのために、誰かの『オーダー』に応えないと……! そうじゃないと……兄さんも誰も、僕を……!」
「しっかりしろ! 君の目の前にいるのは俺だ! 萱愛小霧だ! 君を必ず助けると約束した相手だ!」
「あ……」
「君は俺に『たすけて』と言った! それが君自身の望みだと俺は信じてる! だから助けに来たんだ!」
今の波瑠樹くんは迷っている。痛みを堪えているような表情がその証拠だ。まだだ、まだ彼を助けられる。
今、彼の前にいるのは俺だ。俺が手を伸ばせば助けられる。
「波瑠樹さーん。そんな人の言うこと聞いてちゃダメだよー?」
だが紅蘭さんの言葉を受けて、波瑠樹くんの身体がビクリと反応した。
「大丈夫だって。唐沢先生ならあなたの生き方を認めてくれる。あなたがどんな人も『演じられる』ように教えてくれる。わたしだってあの人がいたから、こうやって幸四郎お兄ちゃんの『妹』になれた。ねえ波瑠樹さん、はーるーき、さん」
そして紅蘭さんは、少し屈みこんで上目遣いで波瑠樹くんを見る。
「わたしのこと、助けてよ」
まずい、これは波瑠樹くんへの『オーダー』だ。おそらく紅蘭さんも彼の扱い方を知っている。
「ぼ、く、は……!」
くそ、波瑠樹くんが苦しみだした。たぶん彼の中で『誰かのオーダーに応えたい』という思いと彼自身の思いがぶつかってしまっている。このまま紅蘭さんの言葉を聞かせるのは危険だ。
「柳端!」
叫んでも柳端は何も反応しない。それでも関係ない、波瑠樹くんを助けるにはアイツの協力が必要だ。
「お前が何のつもりで紅蘭さんに肩入れしているのかは知らないが、俺は彼を……波瑠樹くんを助けに来ている! だから紅蘭さんを止めてくれ! これ以上、波瑠樹くんを苦しめるなと言ってくれ!」
「……既に忠告はしたぞ。そしてお前はその忠告を無視してこの場に来た。それならソイツのことは自分でなんとかしろ」
「柳端、お前……!」
「俺の目的は、紅蘭の目的を果たしてやることだ。今はお前に構ってやる暇はない」
柳端なら紅蘭さんを止められると思ったが、そう都合良くはいかないか。どちらにしろこのままじゃ、波瑠樹くんが救われないままだ。まずは紅蘭さんや竜樹さんを彼から引き離して、一対一で話す必要がある。
「マジメくん、ソイツ押さえてて。紅蘭はアタシが止める」
「綾小路さん!?」
まるで俺の意図を見抜いたかのように、綾小路さんは紅蘭さんに向かっていく。
いや、いくらなんでもまずい。さっき、学校で俺を脅してきたやり方から考えても、紅蘭さんは荒事にも慣れているタイプの人間だ。綾小路さん一人じゃ分が悪い。
「待ってください! いくらなんでも危険です! ここは俺も……」
「アンタ、自分で何言ったか覚えてないの?」
「え?」
「アンタは助けに竜樹の弟を助けに来てるんでしょ? だったらそっちに集中しなよ」
そうだ、まずは波瑠樹くんを助けることに集中しろ。綾小路さんの心配をするのは、俺が目的を達成した後だ。
「波瑠樹くん! 聞こえるか!? 今、君に声をかけているのは俺一人だ! 竜樹さんでも紅蘭さんでもない、萱愛小霧ただ一人だ! だから俺の言葉を聞いてくれ!」
「あ、ぐ……! 僕は……唐沢先生にも……兄さんにも……誰にも求められてない……!」
「違う! 君の望みは『誰かに求められること』じゃない!」
彼と竜樹さんの間に何があったのかは知らない。だけど彼が唐沢先生の教えを妄信し、誰かの『オーダー』に応えるという生き方を選んだ理由は、竜樹さんにあると見て間違いない。それなら……!
「波瑠樹くん! よく考えろ! 君がこんなに苦しんでいるのに、竜樹さんは君を心配すらしていない!」
「……あ……ああ……」
「俺は君が求めたから、助けてほしいという願いを聞いたからここに来ている! それだけじゃない! 学校での君の姿や、黛さんのために頑張る君の姿を見て、君のことを優先して助けたいと思ったからここに来たんだ!」
「でも、それは……あなたが……」
「たとえあれが俺の『オーダー』に応えるための偽りの姿だったとしても関係ない! 君の行動が俺を動かした! だけど竜樹さんは君の姿を見ても自分のことしか考えていない! あの人は最初から君のことを求めてない!」
このまま波瑠樹くんが竜樹さんが求める理想の弟になったとしても、竜樹さんが彼を認めることはない。少なくとも、今のこの瞬間に苦しむ弟に手を差し出すことも声をかけることもしない人が、弟のことを考えているはずがない。
「……そんなの、関係ない」
「え?」
しかし俺の言葉は裏目に出ていた。
「関係ないんです。たとえ兄さんが僕を認めることがなくても……僕は兄さんが求める弟にならないといけないんです……僕は兄さんを憎めなかったから……唐沢先生にも認められなかった……」
「唐沢先生? なんで今、唐沢先生のことを?」
「助けてなんて……言っちゃダメだった! 僕は、兄さんのことも捨てられなかった! だから兄さんにも唐沢先生にも……誰にも認められない!」
「落ち着け、俺は君を……」
「本当の僕なんて、誰も好きじゃない!」
「……!」
ああそうか。そうだったんだ。
今のこの顔こそが、本来の弓長波瑠樹がずっと隠していたものだったんだ。彼はこれを隠さないといけなかったんだ。
思えば彼は、俺の前ではずっと素直で元気な後輩を演じていた。だから俺は、彼の明るい笑顔を見たことはあっても、怒った顔は見たことがなかった。唐沢先生の『オーダー』に応えて俺を憎む人間を演じた時も、その憎しみは俺個人に向けられていただけだった。
「本当の僕を見せたら……みんな、僕の前からいなくなる……」
身の回りの全てに見放されたと『絶望』し、身勝手な怒りと自分自身への嫌悪が入り混じった今の顔こそが、本当の弓長波瑠樹なんだ。
「……わかったよ」
そう、わかった。今わかったんだ。波瑠樹くんが抱えている歪みが。
彼は本当の自分を見せたら誰からも好かれないと思い込んでいた。そしてその思い込みが、自分自身の望みも幸せを覆い隠し、それを唐沢先生に利用されて、誰かの『オーダー』に応えることで自分の存在理由を確立させる生き方に繋がってしまった。
誰かの『オーダー』に応える。一見すると、それは他人のために献身しているように見える。だけど違う。全然違う。
それがわかっていれば、俺にも波瑠樹くんの本心がわかる。
「君は、誰のことも好きになれなかったんだね」
それこそが、彼の苦しみの理由だ。
だから、現状で彼を救えるのは俺だけだ。今のこの瞬間、手を差し出せるのは俺だけだ。
「話してくれ。君が心の奥底にどんな黒い思いを抱えていても、軽蔑しないと約束する。だから安心して話してくれ」
「かや、まな……せんぱい……」
「君がどれだけ、お兄さんのことを嫌っていたのかを」
既に理解した。彼が誰かの理想になりたいと願う理由も、竜樹さんや唐沢先生の役に立とうとしていた理由も。
全ては、お兄さんを好きになれないという罪悪感から始まっていたんだ。
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