【7月29日 午後2時40分】
「……」
「ああー……こうしろう……こうしろーう……」
状況を整理しよう。柳端は無言のまま俯いて沢渡とも目を合わせずにいる。今のコイツは役に立たないだろう。
それでなくとも、私は実質、『スタジオ唐沢』の連中に捕らわれている状態だ。柳端は沢渡から離れられないし、私の前には唐沢がいる。それに……
「……」
あの棗朝飛が、私の隣に立っている。
なんでコイツがここにいるのかも気になるけど、その姿を見るとどうしても思い出してしまう。二ヶ月前にコイツが黛センパイを連れ去って、私に強烈な殺意を向けた時の恐怖を。
それだけじゃない。コイツの顔はあの男を、棗香車をも連想させる。『狩る側の存在』が自分のすぐ傍にいるというプレッシャーは私の精神をどんどん削り取っていく。
ダメだ、長くは精神がもたない。今すぐにでもここから逃げ出してしまいたいという気持ちと、逃げだしたら死ぬかもしれないという気持ちが私をどんどん追い詰めていく。
「さて、朝飛さん。君にも棗香車くんについて教えてもらいたいんだけど、大丈夫かな?」
「いきなり呼び出しておいて『香車くんについて話せ』って言われてもそんな気にはなりませんね。柳端くんやクロエちゃんのことは知ってても、あなたのことは知らないし」
「そうだったね。私は演劇教室『スタジオ唐沢』の教室長をやってる、唐沢清一郎って言います。言ってしまえばクロエちゃんの上司だね」
「クロエちゃんの上司?」
その言葉に何か思うところがあったのか、朝飛は突然笑顔を浮かべ始めた。
「……へえ。じゃあクロエちゃんを育てたのはあなたってことですか?」
その笑顔を見ると自然に力が抜けて、強制的な心地よさが私の心に広がっていく。いや、違う。これは朝飛が相手を蹂躙するために身に着けた特技だ。相手に心を開かせて、自分の殺意を隠すための手段だ。
つまり今の朝飛は、唐沢に対して並々ならぬ殺意を抱いているということだ。
「そうなんだよ。あの子のお父さんは私の先輩でね、仕事が忙しかった上にお母さんも小学生の頃に亡くなったから、私が面倒を見てたんだ」
一方で唐沢は朝飛と一定の距離を保ち、特に態度を変えることなく会話を続けていた。
「だからクロエちゃんはあんなに不安を求める子になっちゃったんですね。かわいそう」
「誤解しないでほしいんだけど、クロエちゃんの願望は子供の頃から持ってるものだよ。私は彼女自身にそれを気づかせたに過ぎない。彼女の『役割』が『自分の周りに敵を作る』というものだっただけだ」
「その『役割』っていうのは、私や香車くんに近づいたのも含んでるんですか?」
「それは彼女の意志だよ。君はクロエちゃんのお眼鏡にかなったから、気に入られたようだけどね」
「だったら見込み違いですね。私はもうクロエちゃんが求めるような怖い人じゃないし、香車くんだってもういない。唐沢さんがあの子の親代わりだっていうなら、不安を求める生き方を諦めさせたらどうですか?」
「クロエちゃんと私の目的は別だよ。朝飛さんに香車くんについて話してもらうのも私の目的のためだ。君が口を閉ざすのなら、香車くんのお母さん……夕飛さんに話を聞くことになるけど?」
唐沢が夕飛さんの名前を出した瞬間、朝飛は笑顔を消して無表情になった。
「私は『夜を乗り越える者』だってお姉ちゃんに言われたからさ。もう『夜』を自分勝手に誰かにぶつけるなんてことはしない。ただね……」
その直後。
「自分やお姉ちゃんの身を守るためなら、『夜』を利用はするよ」
「……っ!!」
これだ。あの時私に向けられた強烈な殺意。怒りとか憎しみとかじゃなくて、「それ以上自分の領域に立ち入ったらお前は死ぬ」という事実を暴力的にまで叩きつける。高い崖から落ちたら死ぬと誰もがわかるように、これ以上朝飛に近づいたら死ぬと誰もがわかる。だからコイツは『狩る側の存在』なんだ。
「……ああ。もしかしてこれが香車くんが抱えていたものかい? 確かにこれは強烈だね……!」
さすがに唐沢も今回は顔を引きつらせた。平然を装おうとしているけど、足が微かに後ろに下がるのが見えた。
当たり前だ。あんな殺意をぶつけられて平然としていられるわけがない。自分が死ぬという危険が目前に迫って、何も思わずにいられるわけがない。どんな人間でも例外じゃない。
「ダメですよ」
だけど、そんな私の『当たり前』はあっさりと崩れ去った。
「ダメですよ朝飛さん。それは私に向けてくれないと」
さっき私の腕を捻り上げた、「クロエ」と呼ばれていた背の高い女が、全く迷うことなく朝飛の眼前にまで近づいていたからだ。
「っ!?」
「ああ、こわい。こわいこわい。朝飛さんって本当に怖い人。だから大好きです」
思わず後ろに下がった朝飛の腕を瞬時に掴み、流れるような動きでもう片方の腕で朝飛を体ごと抱き寄せる。どう動いたのか全く理解できないまま、朝飛の両腕が封じられていた。
「ねえ朝飛さん、唐沢先生じゃなくて私に敵意を向けてください。私を嫌ってください」
「わざわざ頼まなくたって、クロエちゃんのことは前から嫌いだよ……! 離さないともっと嫌いになっちゃうよ?」
「ああ、いいです、いいですよ。不安で不安で仕方ないです。私の敵が目の前にいてくれる。こんな幸せなことってありますか?」
「本当にクロエちゃんって、私の思い通りに動かないね。だから嫌いなんだよね!」
そう言うと朝飛は先ほどの相手を安心させる笑顔を浮かべる。
「あ……それ……」
「離してくれる? クロエちゃん」
「はーい……」
残念そうに呟きながら、クロエは手を放して柳端の近くに戻っていった。
「うん、いいね。朝飛さんのおかげで香車くんが内に秘めていた殺意や人間性がわかってきたよ。やぐらくん、今の見てた?」
「見てましたよ」
「朝飛さんや香車くんのような『狩る側の存在』は今のように相手を殺すことに全くためらいがないし、それを相手に伝えるのも隠すのも自由自在だってことだ。わかってくれたかな?」
「『狩る側の存在』ってそういう人たちなんすね。理解しました」
木之内が何かを納得したように頷いた後、唐沢は私に向き直る。
「さて樫添さん。こっちの準備は整ってきたから、そろそろ柏さんを呼んでもらおうかな」
「私が呼んだって柏ちゃんは来ませんよ。こんな危ないところに行くのを黛センパイが許可するわけないですから」
「おいおい、私は別に君に危害を加えたいわけじゃないよ? 柏さんが来たら君は家に帰ればいい。それにさ、これは柳端くんの頼みでもあるんだよ?」
「……」
確かにここで言う通りにしないと沢渡がどうなるかわからない。柳端もそれを危惧して唐沢の要求に従ったんだ。
「……わかった。今から連絡する」
「ありがとう。あ、一応スピーカーホンにしてね?」
言われた通りにセンパイに電話をかけると、相手はすぐに出た。
『樫添さん!?』
「もしもし、黛センパイですか? すみません、連絡が遅れちゃって」
『それより大丈夫なの? 変なヤツに襲われてたりしない?』
「……特に何もないですよ。センパイの方は大丈夫ですか?」
『それなんだけど、色々と情報共有したいからどこかで合流できる?』
「わかりました。黛センパイは今どこにいます?」
『『死体同盟』のアジトにいる。また連絡するわ』
「わかりました。そちらに行きます」
通話を終えたと同時に、自然と両目を固く閉じてしまう。電話越しでも黛センパイの声から確かな安堵を感じ取れたことが、私の心に暗い影を落としていた。
私は今、センパイを罠に嵌めたのだ。自分の無事を知って心から安堵してくれた人を、危機に陥れたのだ。その事実に心を痛めないほど、私は世の中の倫理から外れた人間じゃない。
「はいお疲れ様。やぐらくん、柏さんたちは『死体同盟』のアジトにいるから、その子と一緒に迎えに行ってあげて」
「わかりました。『お人形さん』、中の様子知ってるんだよな?」
「……うん、わかる」
「じゃあ案内を頼むよ」
「あ、あの、こうしろうは……?」
「柳端くんはここに残るよ。戻ってきたらまた君の好きにすればいいさ」
「で、でも、どこか行かないよね……?」
「『お人形さん』さあ、唐沢のオッサンは『柳端くんはここに残る』って言ってるんだよ。言葉通り受け取れないの!?」
「あ、うん……」
「よしよし、それじゃ行ってきます」
木之内と沢渡が一緒に部屋を出ていった後、これからのことを考える。
今なら敵の人数は少ない。だけど問題はクロエという女だ。アイツが動けば私も朝飛もあっという間に無力化されてしまう。どうすれば……
「樫添さん」
そう思っていると、朝飛が小声でささやいてきた。
「悪いけど、囮になってくれる?」
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