「なんだ。立ち向かってきちゃうんだ、黛さん」
私を見ている棗朝飛は、笑いながらそう言った。
だけど私はその笑顔には騙されない。騙されるはずもない。あの顔は、棗香車と同じものだ。
『獲物』を容赦なく蹂躙することを楽しむ、アイツと同じものだ。
「残念だけど、アンタとの約束を守る必要はなくなったわ。アンタにエミは殺せない。だから私も、アンタに殺される必要がない」
「そんなこと言っちゃうんだ。困るよそれ。せっかく私に都合のいい子だと思ってたのに」
「ええ、存分に困ればいいわ。アンタが困るってことは、私の思い通りってことだから」
「……ふーん、なるほどね。あなたはそんな感じで、香車くんの願いも潰したんだ」
朝飛から先ほどの笑顔が消える。私を安心させるための顔はもう必要ないということだ。だから今、私の目に映る表情こそが、棗朝飛の本来の感情。
一見すると無表情だけど、刺しぬくような殺意を隠そうともしないその顔が、コイツの本質だ。
「アサ、ヒ……! やめなさい!」
「ダメだよ、お姉ちゃん。そこで横になってなよ。私もね、『夜』を解放する相手は選びたいんだ」
まだ万全の動きができるわけじゃない。向こうには武器もある。最優先事項はエミをここから逃がすことだけど、それだけが私の勝利条件じゃない。
エミたちは私を助けるためにここに来た。ならば、誰も死なずに今回の事態を収束させることが私の……私たちの勝利条件だ。
「じゃあ、黛さん。続きをしようか。あなたのこと、本当に大好きだからさ、できれば抵抗してほしくないなあ」
朝飛がこちらに向かってくる。狭い室内でいつまでも逃げられるとは思えない。どうする!?
「にい、さん……!」
だが、その時。玄関の扉が開かれて、長身の男が入ってきた。
顔に汗を浮かべて、苦悶の表情を浮かべながらも、自身の兄に再度立ち向かうことを決めた男。
「あれ、どんてんくん?」
空木曇天が入ってきたことによる一瞬のスキ。それを見逃すほど、私の頭は鈍ってない。
「樫添さん!」
「はい!」
私の意図を汲み取り、樫添さんがエミの手を引いて、背後の部屋に向かう。それと同時に、私は晴天の腕を掴み、その首にスタンガンを当てていた。
「あーあー、あらら」
「動かないで。痛い思いしたくなかったら、アイツに手を引かせなさい」
「だ、そうです。朝飛さん、ちょっとボクも痛い思いはしたくないんで、止まってくれますかね?」
「……」
とりあえず、朝飛からエミを引き離すことには成功した。後は晴天を使って、朝飛を止めることができれば上出来だけど、過剰な期待はしない。いざとなればコイツを突き飛ばして玄関から出ていけばいい。
「全く、もう。上手くいかないことばかりだなあ。話が違うよ晴天さん」
「文句はどんてんくんに言ってくださいよ。ボクは彼に『昔みたいに仲良くしよう』って言ったんですけどね」
「兄さん……僕も、あなたともう一度、仲良くできるんじゃないかと思ってました。そういう『希望』を持ってました」
「うん、いいじゃない。それでこそボクの弟……」
「だけどあなたにとっての『仲良く』は、僕にとっては苦しみなんです」
「……へえ、そういうこと言うの?」
「兄さんにとって、僕は単なる道具に過ぎない。自分の願いを叶えるための道具に過ぎない。……いや、本当にあなたが自分の願いを叶えるために僕を利用するつもりだったのなら、協力してたかもしれない」
曇天さんの言葉を受けて、晴天の身体がピタリと止まった。
「あなたは……自分の願いから逃げたんでしょう? だから今、他人に『希望』を抱かせるなんて偽の願いを叶えようとしている。あなたの本当の願いは……」
その時。
「なに、を、言ってるのかな? どんてんくん。君はまた、ボクを怒らせたいの?」
これまでの空木晴天とは全く違う、低くて重さのある声が響いた。
そして私の腕からスタンガンを強引に奪い取り、力づくで私の拘束から逃れていく。
「ぐっ!?」
その直後、晴天は曇天さんの首を掴んで壁に押し付けていた。
「君がそんなだからさあ……ボクはこんなことしなくちゃいけないんでしょ? 君がいつまで経っても『希望』のすばらしさをわかってくれないからさあ……君だけじゃなくて、みんなが簡単に『絶望』するからさあ……ボクはこんなことをしてるんだよね!」
「そうですよ、兄さん……僕はあなたの本当の願いがわかります……きっと、僕だけが……」
「お前に何がわかるんだよ! ああ!?」
何が起こっているかわからないけど、曇天さんが晴天を引き付けてくれている。これはチャンスだ。
だけどそれは、向こうにとってもチャンスだった。
いつのまにか、眼前には刃物をこちらに突き入れようとする棗朝飛がいた。
「っ!!」
避けるなんてことは考えなかった。避けてもコイツは追撃して私を殺す。『狩る側の存在』に対しては、向かっていく方がまだ生き残る可能性がある。だから――
「はああっ!」
多少の傷を覚悟で、逆に朝飛に体当たりをかましてやった。
「か、はっ!」
左肩が切れたような感触がある。たぶん血も流れている。だけど朝飛を壁に叩きつけることには成功したはず。
起き上がるスキは与えない。まずはアイツから武器を取り上げる。あの包丁はどうなった? あれを奪えれば、こちらが有利だ。
「黛さん!」
夕飛さんの声を聞き、彼女が床に落ちた包丁を手にしたのを見る。なら、私がやることはひとつだ。
「観念しなさい、棗朝飛。この勝負、私の勝ちよ」
朝飛の両腕を壁に押さえつけ、動きを封じる。夕飛さんはさっきの包丁を向こうの部屋に放り投げて扉を閉めた。これで終わりだ。
「あ、ははは。黛さん……これで私に勝ったと思ってるの?」
「ええ、勝ったと思うわ。だってアンタ、もう何もできないでしょ?」
「今はそうだね。だけどさ、例え逮捕されたって、釈放されたら『夜』を解放しに行くよ? あなたでも、柏さんでもいい。私はきっと、あなたたちをまた狙うよ?」
「……」
「そうされたくないんならさあ、私を殺しちゃえばいいじゃない。だってそうでしょ? 私がいなければ、少なくとも柏さんは私には殺されないよ? 私は『夜』を抱えて生きてる以上、あなたや柏さんみたいな子を狙わずにはいられない。だったらここで殺した方がいいんじゃない?」
笑いながら私に語り掛ける朝飛を、夕飛さんが冷ややかに見下ろしていた。
「……やめなさい、朝飛。そういうことを言うもんじゃないよ」
「だったらお姉ちゃんが私を殺す? ずっと迷惑だったでしょ? 私がいなければ、香車くんも槍哉くんも死ななかったかもしれないし」
「あの子たちの死は、アンタのせいじゃない。全部、香車の行動の結果だよ」
「本当にそう思ってる? 私が何もしなかったって本当にそう思ってる? お姉ちゃんだって、私のこと……」
「やめろって言ってんのよ」
夕飛さんの手が、朝飛の口を塞ぐように顔を掴んだ。
「いつまで経っても、子供だよアンタは。自分だけが我慢してると思ってる。自分だけが不幸だと思ってる」
「……違うって言うの? 私がどれだけ『夜』を我慢してたと思ってるの?」
「だったら言ってあげるよ。私やアンタの言う『夜』というのが、どれだけ身勝手なものなのか」
夕飛さんは、朝飛の顔から手を離す。
「“夜に立ち向かう者”であるこの私が、どれだけアンタを切り捨てたいかと思っていたのかをね」
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