【7月5日 午後4時30分】
なんでこんなことを話してしまったんだろう。兄さんだけじゃなくて周りの人間全てを嫌っていたなんて本心を話してしまえば、相手がいい気分になるわけがない。
僕は萱愛先輩に対して特に思い入れもなかったし、助けてほしいなんて言ったことも後悔していた。
僕は結局、兄さんを憎めなかった。唐沢先生の『オーダー』に応えるという生き方を選んだにも関わらず、兄さんを捨てられなかった。『黛さんを排除する』という『オーダー』にも応えられず、萱愛先輩に助けを求め、兄さんに迎えに来てもらってしまった。
どんなに殴られても、僕のことを嫌っていても、兄さんが最後には僕を求めてくれるという『希望』を捨てられなかったからだ。
だけど唐沢先生にはそれを見抜かれてたし、結局は黛さんや萱愛先輩を憎む役も上手くこなせなかった。だからもう、僕に求められる役割はない。
「わかったよ、波瑠樹くん。よく話してくれた」
萱愛先輩は真剣な表情でこちらを見ている。怒っているわけでも笑っているわけでもない。
わからない。この人が次に何を言おうとしているのか。僕に何を求めているのかわからない。
わかるはずもない。こんなこと、誰にも話したことないんだから。
「俺はずっと実の父親を恐れていた。父さんは……過去に人を殺してしまったからだ」
「え……?」
人を殺した? 先輩のお父さんが?
話が飛び過ぎて上手く頭で理解できてない。萱愛先輩のお父さんが数か月前に亡くなったとは聞いていたけど、詳しい事情は何も聞かされていない。
だけどそれ以上に、萱愛先輩が誰かを恐れるなんてことがあるのかという驚きが強かった。
「父さんが罪を犯したのは、俺を守るためだと……そう思いたかった。だけど本当は、自分の欲のために罪を犯したと気づいていた。だからずっと、父さんと向き合うのを恐れていたんだ」
「そ、それが、なんだって言うんですか?」
「たとえ実の家族であっても、分かり合えない時があるということだ。俺はいつか、父さんとのわだかまりを無くせると、何の根拠もなく思い込んでいた。だけど、ずっと逃げ続けた俺にそんな結末は訪れなかった。だから父さんは……命を落とした」
萱愛先輩の顔はまだ真剣なままだ。だけど先輩の右手が強く握られているのを見たら、相手の望むことを探り続けてきた僕にはわかってしまう。
本当は、その結末とやらに何も納得していなくて、『あなたの父親はまだ生きていますよ』と言ってほしいのだと。
「もし俺がもっと早く父さんのことを恐れていると、『あなたは俺に迷惑をかけている』とはっきり言っていれば、その場では衝突したとしても父さんはまだ生きていたかもしれない。波瑠樹くん、君と同じで俺も逃げ続けていたんだ」
「僕が、逃げているって……?」
違うと言おうとしたけど、言葉は出なかった。いや、そうじゃない。本心を言い当てられたと悟ったんだ。
ずっと自分にはやりたいことがないと思い続けていた。周りに求められるままに生きていることが自分の望みだと思い続けていた。
だけど萱愛先輩はそれを否定した。そして今、僕の本心をも見抜いている。
僕はずっと、兄さんを嫌っていると口にするのを恐れ、兄さんと向き合い衝突するのを恐れているのだと。
「君のお兄さんは、竜樹さんは確かに君を必要としていた。だけど今、明らかに苦しんでいる君に目を向けることすらしない」
「それは、僕が兄さんの役に立てなかったから……」
「君がそう思い込むのは自分を責めているからじゃなくて自分を守っているからだ。『自分のせいで家族が変わってしまった』と思い込むことで、相手の中で自分の存在が大きいと思いたいだけだ」
萱愛先輩は苦痛を堪えるように目を閉じたが、すぐに目を開いて改めて僕を見た。
「現実を見てくれ、竜樹さんは君を必要としていないし、君は竜樹さんを必要としていない」
……ああ、そうだ。そうだったんだ。
それこそが、僕が向き合わなかったものの正体。僕が最も恐れていたのは誰にも求められないことじゃない。誰かに明確な悪意を向ける……いや違う、誰かを嫌うことを最も恐れていたんだ。
兄さんの中に、とっくに僕はいなかったんだ。
だけど僕はそれを認めたくなかった。認めれば兄さんを嫌うしかなくなるから。誰もかもを嫌う汚い自分を直視しなければならないから。
「……すぐに立ち向かえとは言わない。今まで向き合えなかったものに急に向き合えるわけもない。だけど俺は約束した、『本当の君を見ても軽蔑しない』と」
「あ……」
「もし君が竜樹さんにどんな言葉をかけようと、どんなに汚い感情を向けようと、俺は軽蔑しないし肯定できなくても納得はする。それだけは信じてほしい」
ウソだ、そんなわけがない。僕は萱愛先輩を騙していた。黛さんを排除するために利用していたんだ。そんな人が僕を許してくれるはずがない。
そんな都合のいいことがあるわけがない。そんな、まるで『僕の求めに対して都合よく動いてくれる人間』が、僕の目の前に現れてくれるはずが……
「あ、ああ……!」
自分の考えに思わず声が漏れる。僕は誰にも期待していなかった。『自分のために動いてくれる人間』がいると信じていなかった。僕が目指していたはずのものを僕自身が否定していた。
『他人の望みに応えることが幸せだと言うなら、俺の望みに応えてみろ!』
あの時から、萱愛先輩にはそれを見抜かれていたんだ。
だけど今、僕のために動くと約束してくれる人がいる。僕を嫌いにならないでいてくれる人がいる。
「萱愛先輩……」
「ああ」
「……僕は……兄さんが、怖い……兄さんに殴られたくない……兄さんと、離れたい……」
この時、僕はやっと自分の望みを言えた。
「わかった。なら行くぞ波瑠樹くん、俺が隣にいる。この戦いに決着をつけ……」
萱愛先輩は笑いかけてくれる。そうだ、この人のことを信じられるなら、僕は……
「おっと、そう簡単に立ち直ってもらっちゃ困るねえ」
だけどその声と共に、萱愛先輩の笑顔は僕の視界から消えた。
「ぐうっ!?」
「ヒャハハ、幸四郎の友達にしちゃ、随分と腑抜けたヤツじゃないかい」
代わりに僕の前にいたのは、ピンク色の髪の上にメガネを乗せた派手な女の人だった。
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