中学校に入る頃、アタシは男相手の商売をストップした。理由はふたつ。ひとつはアタシの商売が通っていた小学校にバレかかったことだ。どうやら教師の一人が、大人の男と歩くアタシの姿を見たらしい。高校生に変装していたから、アタシだと完全にバレてたわけではないらしいけど、夜中に何をしていたのかをしつこく聞かれたので、ここらで潮時だと思った。
ふたつめは単純にアタシが男相手の商売に飽きてきたことだ。数多くの男を相手にしても、大体が同じような目的で、大体が同じような言葉を吐く。そんな光景に、アタシ自身が満足できなくなっていた。
アタシは今を生きたい。この瞬間に満足して、『生きていてよかった』と思いたい。そう思えれば、次の瞬間に死んでも構わない。その生き方をしたいアタシが、ルーチンワークみたいなことをするのはごめんだった。
そういうことで、スマートフォンを新たに購入し、男たちとの連絡を完全に絶った。住所がバレるヘマはしていないと思うから、これでアイツらとの関係は終わりだ。
だけど問題はあった。中学校に入ったからと言って、アタシの周囲に劇的な変化があるわけでもなかった。アタシの入った中学校は近所の公立だったので、大半が地元の公立小学校から上がってきたヤツらだった。元々小学校でも浮いていたアタシが、こんなヤツらと馴染めるはずもないし、馴染むつもりもなかったので、結局つまらない日常を送るハメになった。
中学に入って一ヶ月が経ったある日。つまらない授業が半分終わった昼休みのこと。アタシはこんな噂を耳にした。
「なあ、隣のクラスの柏恵美って女子の話、聞いたか?」
「聞いた聞いた。なんかアイツ、ヤバいらしいな」
教室でクラスメイトがそんな会話をしているのを、アタシは何気なく聞いていた。柏恵美という名前。そういえばちょくちょく噂には上がっているような気がする。なんでも、『自分に絶望を与えてくれる人間』を探しているとかなんとか。
わけのわからないことをするヤツもいるもんだとは思ったけど、アタシとしちゃ、単なるキャラ付けでやってるんだろうと、興味も持たなかった。
しかしクラスメイトの次の言葉が、アタシの心を捉えた。
「なんでも、体育の時間に先生を殴ったんだってよ」
……教師を殴った?
確かにそれは結構大それた行為だ。そりゃアタシだって教師にムカつく時はあるけど、殴ったりしたことはない。
「なんだよそれ。柏ってなんかおかしなことばかり言ってるけど、別に不良とかじゃないんだろ? なんでそんなことしたんだ?」
「友達に聞いたんだけど、先生が別の女子に説教してたら、いきなり殴ったんだってよ。やべえよな」
なんだ。話を聞いてりゃ、要は正義の味方気取りで女子を助けただけかい。くだらない。
なんか白けたし、期待した分だけ失望も大きかったから、アタシは柏恵美とやらにこのうっぷんをぶつけることにした。
隣のクラスに乗り込むと、うちのクラスと同じように数人ずつが固まってカードゲームをやっていたり、漫画を読んだり、スマートフォンを片手に談笑したりしていた。
その中で、一人だけ席に座って本を読んでいる女子がいた。首元まで髪を伸ばした、細身の女子。眼鏡をかけてそいつをよく見ると、確か何度か見たことある顔だった。
アタシはとりあえず柏の前に立ち、遠慮せずに声をかける。
「柏恵美っていうのは、アンタかい?」
声をかけると、柏は顔を上げてこちらを見る。その顔はなぜか薄笑いを浮かべて、何かを期待するような目をしていた。
「そうだが? ああ、君は確か……沢渡くんだったかね? 噂は何度か聞いているよ。女子の間でも、嫌われ者だとか」
柏の言うとおり、アタシはクラスの女子グループから嫌われていた。理由は周りとつるまないからとか、顔がいいから調子乗ってるとか、そんな感じだったような気がする。
「はっきり言ってくれるね。そういうアンタは、教師を殴ったそうじゃないか」
「おや、その話を聞いているということは、君の目的は私を殴りに来たということかね?」
「ああ?」
なんでアタシが柏を殴るという話になってるんだろうか。意味がわからない。
「ん? 違うのかね? そうであるなら残念だ。君なら私を蹂躙してくれると思ったのだが」
そう言って柏はアタシから興味を失ったかのように読書に戻った。それがどうにもムカついたので、望み通りにしてやることにした。
「勝手にアタシを、評価するんじゃないよ!」
左手で思いっきり殴ってやると、柏は椅子ごと床に倒れて、受け身も取らずに叩きつけられた。そういえば人を殴ったのは初めてだけど、思ったよりも気分はよくない。どうもアタシは暴力を楽しめる人間でもないみたいだった。
柏のクラスの連中が一斉にこちらを見て騒ぎ出したけど、特に柏を助ける人間はいなかった。止める様子もなさそうだったから、周りを気にせずに柏に目を向ける。
すると柏は、ゆっくりと起き上がると尚も薄笑いを浮かべてアタシを見ていた。
「……いいじゃないか、沢渡くん。君の容赦のなさは気に入ったよ」
なんだこいつ。いきなり殴られたっていうのに、まるで堪えてない。それに、この笑いは無理矢理作ったものじゃない。心から楽しんでいる笑いだ。もしかして、こいつは本当に『自分に絶望を与えてくれる人間』を探しているんだろうか。
なんだろう、こいつを見てると、アタシより遙かに人生を楽しんでいるように思える。
「それで? やはり君は私を殴りに来たということでいいのかね?」
柏は何事もなかったかのように椅子に座ると、もう一度アタシに質問してきた。
「殴っておいてなんだけど、そういうつもりじゃないさ。アンタがなんで教師を殴ったのか気になったんだよ」
「ああ、それか。別に大したことじゃない。あの教師が私ではない人間に対して思う存分悪意を向けていたから、その悪意が私に向かないかどうかと思って手を出してしまっただけだよ。今思えば、軽率だった」
「じゃあ、アンタは自分を蹂躙して欲しくて、教師を殴ったって言うのかい?」
「他になにがあると言うのかね?」
……今わかった。この柏恵美という女は、本気だ。
本気で誰かに蹂躙されたいと思っているし、本気で殴られたいと思っているし、本気で絶望を与えられたいと思っている。
「……ヒャハッ」
それがわかった瞬間、自然と笑い声が出た。
久しぶりだ。こんなに気分が高揚したのは。こいつは自分の人生の盛り上げ方を知っている。自分がどうすれば幸せになれるのかを知っている。それが普通の幸せとは全く違ったとしても、アタシにはすごく魅力的に思えた。
「ヒャハハ、ヒャハハハ! アンタ、面白い女だねえ!」
「そういう君こそ、初対面の人間を殴れるくらいの容赦のなさがある。私としては、実にそこが興味深いのだよ」
「それじゃあさ、とりあえず……アンタのこと、『恵美嬢』って呼んでもいいかい? アンタといれば面白くなりそうだから、それなりに敬意を払いたいのさ」
「ふふふ、構わないよ。それでは改めて自己紹介をしようか」
そして恵美嬢は立ち上がって、こちらに右手を差し出してきた。
「私の名前は柏恵美。君を歓迎する者だ」
アタシは差し出された右手を掴み、眼鏡をかけて恵美嬢を改めて見る。
ああ、いい顔だ。恵美嬢は人生を楽しんでいる顔をしている。こういう顔をしているヤツなら、はっきり見えてもいい。
「ヒャハハ、これからよろしく。恵美嬢」
そうだ。恵美嬢となら、アタシの『絶頂期』にたどり着けるかもしれない。『生きていてよかった』と思えるかもしれない。
アタシはようやく、『絶頂期』にたどり着くためのきっかけを得たのだと確信した。
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