【7月30日 ???】
「これは……?」
まるでVR動画を見ているかのように、私の中にさまざまな情報が流れ込んできた。
人を救うために警察官となった斧寺霧人が、『絶望』こそが人を救うという考えに至った経緯。
両親に愛されず幸せとはどういう状態なのかもわからなかったエミが、ただひたすらに助けを求めるようになった経緯。
そして撃たれて死んだはずの斧寺霧人がエミの中に流れ込み、エミは自身の幸せを『絶望』だと解釈するに至った経緯。
つまりこれが、これこそが、『柏恵美』という人間が完成した経緯だ。
だけどさっき流れた情報はそれだけじゃない。エミは……
「理解したかね?」
気づくと私は暗闇の中で声をかけられていた。声をかけてきた人物はこちらに歩いてくるように少しずつ姿を現していく。
その姿はまぎれもなく私の知るエミだったけど、表情はさっきの『斧寺霧人』と同じものだ。
「幼い頃の柏恵美は自らを取り巻く状況が幸福なのかどうかすらわからず、ただただ助けを求めていた。そのために自分の中に流れ込んできた斧寺霧人を利用した。そして斧寺霧人もまた、柏恵美を救うために望んで彼女に取り込まれた。これが今まで君が守ってきた、『柏恵美』の正体だ」
「アンタが言ってた、『柏恵美と斧寺霧人は同一の存在』っていうのは、エミは自分に足りなかったものを補うために自分の意志で斧寺霧人を取り込んだってことなの?」
「そういうことだよ。過去の記憶を思い返した時に幼い頃の自分を呼び出したのも、ついさっき『斧寺霧人』としての記憶を呼び覚ましたのも、全ては柏恵美自身の意志だ」
「……」
エミが思い返した過去の記憶は、楽しいことも悲しいことも何なのかを理解できず、自分がどうなりたいのかもわからなかった幼い頃の自分も同時に呼び覚ました。エミにとってそれは、『絶望』を追い求めることすらできない本当に何もない状態だった。
だけどエミは望んでそれを呼び覚ました。その理由は……
「エミは、私を繋ぎ止めたかった?」
エミはずっと『たすけてほしい』と願っていた。それは私や一般的な人間が考える『たすけてほしい』という気持ちとは違う、そもそも自分が『幸福』と思える状態を教えて欲しいという気持ちだった。
エミは斧寺霧人を取り込んだことで、自分の幸福を容赦なく殺されるという『絶望』であると定義するに至った。棗香車こそがその『絶望』を与えてくれる『狩る側の存在』であると理解し、棗香車を打ち破り新たな『絶望』を与える私を『支配者』であると認めた。
だけど黛瑠璃子という支配者によって自分の命を狙う敵が何度も排除されるうちに、エミは不安になったのかもしれない。『絶望』を追い求める自分が失われることに。
エミにとってそれは、『絶望』も『希望』もない、幼い頃の自分に戻ってしまうことと同じだったのかもしれない。
だからエミはその幼い頃の自分のことも助けてほしいと望んでいた。幼い頃の自分すら救ってくれるのであれば、私のことを完全に『支配者」だと思えるのだと。完全に支配されれば、自分は安心なのだと。
それこそが、柏恵美の真の望み。
「……わかったわ」
エミがどんな願いを持ってようが、私のやることは変わらない。
だけどエミ自身が『助けてほしい』と願っているのなら。私と同じ願いを持っているのであれば、もう遠慮なんていらない。
「さて、『柏恵美』の正体については伝えた。その上で君の選択を教えてもらおう。君が『柏恵美』に与える『絶望』の形を見せてみたまえ。“私”を消して君の知る柏恵美を取り戻すのか、今の“私”も柏恵美だと認めるのか」
『斧寺霧人』は挑発的に私を見ている。エミの顔でそんな表情をされるのはものすごい嫌悪感がある。
だから……
私は右手で、この空間にある壁らしきものを思い切り殴った。
「……なんのつもりだね?」
『斧寺霧人』は不思議そうに顔をしかめる。それに対して私は冷ややかに言い放った。
「なんのつもりも何も、アンタもエミなんでしょ? 私がエミを殴るわけないじゃない」
「ならば君は、“私”がアキヒトによって殺されるのを黙認するということかね?」
「それも違う。アンタもエミなら、アンタごと救えばいいだけでしょ」
私のやることは何も変わらない。
続いて左手で目の前の壁を殴り続ける。
「長々と回りくどいこと言ってたけど、要は助けてほしいんでしょ! だったらさっさとそう言いなさいよ! アンタの幸せは私が決めてあげる!」
「それが君の行動と何の関係がある?」
「ここがどこかは知らないけど、こんな暗いところにいるからアンタはいつまで経っても助けを求めてんのよ! 今のアンタが『柏恵美』だとしても『斧寺霧人』だとしても、どっちもエミなんでしょ! だったらアンタもさっさと私に助けを求めりゃいいのよ!」
「待ちたまえ。私は……」
「うるさい!」
右足で壁を蹴ると、暗い壁にひび割れが入り、光が差してきた。
「斧寺霧人の人生についてはさっき体験したわ。アンタはずっと他人を助けてばかりで、自分自身を助けられないことに悩んでた。その結果、孫まで泣かせてたのも見たわ。だからアンタはエミの中に入り込むことで、自分自身を助けようとしたんでしょ?」
「……っ!? 違う、私はただ彼女を救おうとした結果、彼女の中に取り込まれて……」
「だから! アンタのその考えがいつまで経ってもアンタ自身を救えない原因なのよ! アンタは自分自身も『柏恵美』だって言いながら、『柏恵美を助けたい』としか言わない! だからいつまで経っても『エミ』は救われない! アンタ自身が救われたいって思わないから! エミはこういう形でしか私に助けを求められない!」
壁に入ったひび割れはどんどん大きく広がっていき、『斧寺霧人』の顔を照らしていく。
その顔にはさっきまでの他人を飲みこんでいく笑顔はない。
「エミは私に自分を助けてほしいって願ってた。それは自分の中にある『幼い頃の柏恵美』としての部分も、『斧寺霧人』としての部分も助けてほしいって願いなのよ。『斧寺霧人』は自分自身を救いたいって思えなかった。『“私”を消して柏恵美を取り戻せ』なんてバカなことを言い始めた。だからエミはアンタを呼び出したのよ。アンタを私に救わせるために!」
「なんだと……!?」
『斧寺霧人』の顔には既に余裕はない。その直後、この空間にもう一つの声が響いた。
『理解したかね? 斧寺霧人』
「君は……!?」
『ルリは君の、いや私の想像を超える存在だったのだよ。それを改めて私自身に思い知らせるために、この場を設けた。二度と私がルリに疑念を抱くことがないように、完全に彼女に屈伏するために』
「まさか……! 君は最初から私を……『斧寺霧人』を屈伏させるために……!?」
『そういうことだよ。そうしなければ私は完全には『絶望』に浸れない。彼女の支配からは決して逃れられないと、私自身に潜む『斧寺霧人』としての部分にも思い知らせる必要があった』
「……そうか」
一心不乱に壁を殴っていくうちに、『斧寺霧人』の顔は穏やかになっていく。
「……思えば私はずっとそうだったのだね。誰かに敵意や殺意を向けられることが日常になっていたが、私は誰にも大きな感情を抱けなかった。自分自身にも。だからいつしか、私は私を軽んじていた」
『そうだね。君は『柏恵美』を救いたいと思うだけで、私と混じり合った後もどこかで自分自身の救いを拒絶していた』
「いつからここまで傲慢になってしまったのだろうね。私を助けられる者など誰もいないと『絶望』することで、私は他人の可能性を見限っていた」
『そうではないよ。君が、いや私が『絶望』するのはここからだ。ルリは私がどう足掻こうと、必ず私の上を行くのだよ』
「ああ……」
そして『斧寺霧人』の表情は、いつしか私の知る『エミ』の表情に変わっていく。
「認めよう、黛瑠璃子。この戦いは……」
これで最後だ。私は目の前の壁を思い切り殴り、空間に光が満たされていく。
その直前、私の耳にエミの声が確かに響いた。
「君の勝利だ」
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