私たちは今、ある男の自宅の前にいる。私の隣には樫添さんと、この家を訪れる提案をした張本人である、閂が立っている。
「ひひ、それでは黛先輩……心の準備はよろしいでしょうか……?」
「アンタに言われなくても、腹は括ってるわよ。それに、今さら私たちを逃がすつもりなんてないんでしょう?」
「おやおや、さすがは黛先輩……『金将』と呼ばれたお方だけありますねえ」
「その呼び方やめて。本気で殴るわよ」
閂とのやり取りを終えて、私は決意を新たにする。
私たちがいるのは、萱愛家の玄関前。つまり、陽泉の住処だ。なぜ私たちがここにいるのか、それは先日の閂の提案が発端だった。
※※※
「萱愛家への、家庭訪問?」
「ええ、その通りでございます……それも、できれば萱愛氏がいない時間帯に、直接陽泉氏と対面するのが望ましいでしょう」
閂は相変わらず薄笑いを浮かべながら、そんな提案をしてきた。軽々しく言っているが、私たちからすれば敵の懐に飛び込むようなものだ。
「で、でも閂さん。萱愛がいない時間帯に陽泉に直接会うっていうのは危ないんじゃないの?」
樫添さんの疑問は当然だ。陽泉は息子である萱愛のためなら、人をも殺してしまうような人物。そしてその陽泉のストッパーになるのは萱愛しかいない。萱愛がいない時に陽泉と会うということは、そのストッパーがないということを意味する。
「確かに、萱愛氏が不在であれば陽泉氏を止める人間はいません……ひひ、ですがそれこそが、私が望む状況なのですよ」
「どういうことなの?」
「……」
閂は樫添さんの疑問には答えずに沈黙している。ならば私たちでその意図を探るしかない。
萱愛がいない状況。つまり陽泉を止める人間がいない状況。それが何を意味するか。
考えてみれば、答えはひとつだ。
「……陽泉が私たちに危害を加えようとする現場を押さえて、それを理由に萱愛と陽泉を引き離そうってわけ?」
「ひひひひひ、そうですねえ、陽泉氏が私を殴りでもすれば、さすがの萱愛氏も黙ってはいないでしょう……」
要するに、閂の企みはこうだ。
陽泉を徹底的に挑発して自分を傷つけさせて、それを理由に陽泉を再度刑務所に送る。
だけど、それに対する私の答えは決まっている。
「閂、その作戦は却下よ」
「ひひ、黛先輩ともあろうお方が、手段を選んでいるのですか?」
「手段を選んでるのは、アンタの方じゃないの?」
「……」
閂は再び沈黙するが、私は話を続ける。
「アンタだったら、もっと自分も傷つかずに陽泉を萱愛から引き離す策は用意できるでしょ。何も陽泉の暴力を受けるのはアンタである必要はないわけだしね。だけどアンタは自分が犠牲になるような策を用意した。私たちを巻き込んだ負い目でも感じてるのかしら?」
「……ひひ、これは失礼しました。ですが私が標的にならないと、黛先輩や樫添先輩が危機に瀕することになりますが?」
「そもそも私たちも陽泉に黙って殴られるつもりはないわ。それにまず、私は萱愛陽泉という男の人間性をもっと知りたい」
「黛センパイ、それって……」
「ええ。まずは陽泉が過去に起こした事件について、どう考えているのかを聞きましょう」
※※※
「いやあ、まさかルリさんが、小霧くんのお友達だったなんてねえ。本当に偶然ってあるものなんだねえ」
萱愛家のリビングに通された私たちは、陽泉と対面する形で椅子に座っている。陽泉はお茶とお菓子を出してきたが、私たちの誰もがそれに手をつけようとはしなかった。
「改めまして挨拶します。私は小霧くんの友人の、黛瑠璃子と申します」
「樫添保奈美です」
「閂香奈芽でございます……ひひ、先日はどうも……」
三者三様の挨拶を行い、陽泉に対して頭を下げる。
「ああ、これはご丁寧にありがとう。ごめんね、今日は家に僕一人しかいないんだよね。小霧くんはまだ学校だし、霧華さんも仕事だから……」
確かに陽泉の言う通り、萱愛の母親は不在のようだ。つまり仮に陽泉と戦うことになっても、こちらは三人で陽泉は一人。誰か一人でも動ければ、外に助けを呼んだり、警察に通報することは可能だろう。
「それで、今日はどうしたのかな? さっきも言ったけど、小霧くんはまだ学校なんだよね。遊びに来てくれたのは嬉しいけど、小霧くんまだ帰ってこないと思うよ?」
「ひひひ、それを承知の上で、こちらに伺ったのですよ……今日、私たちが用があるのは、萱愛陽泉氏。あなたですからねえ……ひひひ」
「え、僕に用が?」
キョトンとした顔で、まるでその可能性を考えていなかったかのような反応をする。この男は先日柳端を殴ったことを覚えていないのだろうか。
「単刀直入にお聞きしましょう。萱愛陽泉氏、あなたは過去に罪を犯し、刑務所に服役しておりましたね?」
閂がいきなり本題に入ったことで、隣に座っていた樫添さんも緊張した面持ちになる。おそらくは私の顔も固くなっているだろう。閂の性格上、いきなり核心を突いてくることは予想できたが、ここまで早く切り出すとは思っていなかった。
「……驚いたね。なんでそのこと知ってるの?」
「その答えは、こちらの質問に対して肯定したと捉えてよろしいでしょうか?」
「うん、大丈夫だよ。別に隠しているわけじゃないからね」
陽泉は過去に犯した罪について指摘されても、特に表情を崩さない。
「ひひひ、では話を進めましょう。私たちが知りたいことは、あなたが過去に犯した罪を、どう考えているかについてでございます……私たちとしても、萱愛氏が心配ではありますからねえ……」
「……」
閂の言葉を受けて、陽泉は少し沈黙する。しかし、その直後。
「うう……」
表情を変えないまま、陽泉の両目から涙が溢れ始めた。そのまま右手で涙を拭い、顔を俯かせる。
「そ、そうだよね……君たち、小霧くんのお友達だもんね……そりゃ怒るよね。うう……」
「いきなり泣かれても私たちとしても困ります。陽泉さん、私たちはあなたが過去の事件に関してどう考えているのかを聞いているんです」
「ああ、そうだよね。ごめんごめん」
陽泉はティッシュで鼻をかむと、こちらに向き直った。
「過去の事件に関して、どう思ってるかだよね。うん、それに関しては本当に申し訳ないことをしたと思っているよ」
憂いを帯びた顔でそう答える。意外にもまともな答えが出てきたので、私も少し警戒を解きそうになってしまい、すぐさま気を引き締め直す。
「僕のやったこと……それは決して許されることじゃない。だから僕はそれを一生かけて償わなければいけない。本当に、心からそう思っているよ」
「ひひ、言葉で言うのは簡単なことでございます……あなたに実際にその覚悟があるのか、私たちにはまだ判断がつきませんねえ……」
「うん、そうだよね。だから君たちはここに来たんだろ? 小霧くんに頼まれたのか、それとも自分たちの意志でここに来たのかは聞かないけど、僕が本当に小霧くんの父親としてふさわしいか見極めるために」
そう言うと陽泉は立ち上がり、リビングの隣の部屋のドアを開ける。そしてその部屋から何かを持ってきた。
「でも大丈夫。僕にはその覚悟がある。その証拠に、これを見てみなよ」
陽泉が持ってきたのは、どこにでもある大学ノートだった。それを広げると、細かな文字がびっしり書いてある。
そしてその内容は――
「……なにこれ」
『小霧くん18歳:無事にM高校を卒業してD大学に入学』
『小霧くん19歳:大学で悪い友達ができないように、僕が友達を選別する。※リスクの高い起業や商売に誘ってくる輩は積極的に排除』
『小霧くん22歳:大学を卒業してK株式会社に入社。小霧くんはいい男だから変な虫がつかないように気をつける』
『小霧くん25歳:この辺りからお見合い相手を見繕う。小霧くんの性格を受け入れられる女性を探す』
萱愛の将来を勝手に決めるような文章が並んでいた。
「これからの小霧くんが幸せになるためにどういう人生を歩むべきかを纏めてみたんだ。彼にはこの通りに進んでもらう。だって僕は、小霧くんの幸せを心から望んでいるんだからね」
穏やかに微笑む陽泉に対し、私は身の凍る思いをした。
萱愛陽泉。こいつは、息子の幸せを望んでいると言いながら、息子の自由をまるで認めていない。こいつの言う幸せは……
萱愛小霧の束縛を意味する。
「ちょ、ちょっと待って下さい! これって、萱愛は……小霧くんは知っているんですか!?」
「いや、まだ言ってないけど。まあ、近いうちに見てもらうことにはなるよ。早めに道を示しておかないと、小霧くんも不安だろうし」
「というかそもそも! 私たちは過去の事件をどう償うかを聞いたんです! それとこのノートは全然関係ないじゃないですか!」
樫添さんの叫びを聞いて、私もようやく気づいた。
そう。私たちは陽泉が過去に人を殺した事実をどう償うかを問うたはずだ。それがなんでこのノートを見せることに繋がったのだろうか。
「え? なに言ってるの? このノートこそ、僕が小霧くんに対しての償いを決意している何よりの証拠じゃないか」
「……は?」
「僕が過去に起こした事件のせいで、小霧くんを長い間ほったらかしにしていたのは許されることじゃない。それはわかっている。だからこれからは、小霧くんを幸せにするために全霊を尽くす。君たちはそれを知りたかったんじゃないの?」
陽泉は不思議そうな顔を私たちに向けるが、私はそれを見て、言葉の通じないバケモノと対峙している気分になった。
私たちは当然、陽泉は自分が殺した相手に対して罪悪感を抱いているのだと思っていた。だが実際の陽泉は、萱愛小霧に対する罪悪感を語っている。
「あ、あの……私たちが聞きたいのは、あなたが……過去に殺してしまった人に対してどう思っているか、なんです、けど……」
樫添さんは恐怖で身を震わせながらも、辛うじて質問を絞り出す。だがそれに対して、陽泉はあっけらかんと答えた。
「ああ、そっちの話? 彼に対してはね、もう何とも思ってないよ」
「え……?」
「確かに彼が小霧くんを殴った時は、僕もまだ若かったからものすごく怒っちゃったけどね。あれからもう十二年も経ってるから、僕もいつまでも引きずるつもりはないよ」
「な、なに言って……?」
「ん? だから彼に対してはもう怒ってないってことだよ。僕は彼のことをもう許しているから大丈夫だよ」
私も、樫添さんも、そして閂さえも身を硬直させた。
こいつは、この男は、自分が殺した相手のことを、『もう許した』と言っているのだ。自分が一人の人間の命を奪っているのにも関わらず、まるで自分が被害者のように語っているのだ。しかもそれを、自分の成長の証のように語っているのだ。
自分が殺した相手のことを、『許す』。こんな傲慢な男が、今までいただろうか。
やはり私の予感は当たっていた。こいつは『狩る側の存在』ではない、そして『成香』ではない。
もっと得体の知れない、そして絶対に許すことのできない『何か』だった。
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