【7月29日 午後0時32分】
どうする、どうする、どうする!?
状況は絶望的だ。今の私は敵に馬乗りにされてる状態で、首には何かを突き立てられている。相手の選択次第では命すら落とすだろう。
だけど、まだ私の命はある。
その一点がある限り、私に諦めるなんて選択はない。なんとかしてコイツを黙らせてエミのところへ向かう。だから探すんだ。この状況を打破するための一手を。
「あ、ひっ! ひいっ! やっぱりまだ私に敵意を向けてくれるんですね……この状況でも、私を嫌って私を叩き潰すために頭を巡らせてくれるんですね……」
私を見下ろす楢崎は、その顔をますます恍惚で歪める。
「こわい、こわい、うれしい……」
何が嬉しいのかは全く理解できないけど、それと同時に突破口が見えた。
「ふっ!!」
「きゃあっ!?」
首に当てられた手が緩んだと感じた直後にスタンガンを相手の腕に当てる。一瞬当たっただけだから大したダメージにはなってないだろうけど、怯ませれば十分!
重心が私の上からズレた瞬間に体を横に転がし、体を起こして体勢を立て直す。状況は……!?
「そこまでだ楢崎。ここからは俺の話に付き合ってもらおうか」
「柳端!?」
私を守るように柳端が立ちはだかっていた。
「お前は早く行け。うかうかしてるとコイツと柏が出会ってしまうぞ」
「……ええ、頼んだわ」
この場に柳端がいたのは好都合だ。まずは食堂を出て、楢崎から離れた場所でエミに連絡を取る……
しかし、行動に移そうとした身体は寸前で硬直してしまった。
「ルリ、ここにいたのかね」
よりによって、今のこのタイミングで、エミが食堂の入り口に立っていたのだ。
「エミ! こっちに来ちゃダメ!」
動揺は一瞬。まずは声で非常事態を知らせて、エミの動きを止める。そこから力づくでもなんでもいいからエミを食堂から連れ出す。
が、それが問題だった。
「おやおや、どうやら私の命を脅かしてくれる者がまた現れたようだね。嬉しい限りだよ」
私の姿を見て自分に迫る危機を察したエミは、喜んでこちらに近づいてきた。考えてみれば当たり前のことだが、非常時の私はつい自分の常識で物を考えてしまっていた。
とにかくエミの腕でもなんでも掴んでここから引っ張り出すしかない。
「さて、私の命を奪いに来たのはどのような……」
だけど、その時だった。
「……え?」
エミの表情が変わる。見たことのないものに変わる。
あれだけ一緒の時間を過ごしてきたのに、彼女のこの表情が何を意味しているのかわからなかった。一瞬目を見開いた後、苦痛を耐えるように目を細め、いつも前を向いていた顔が少し下を向いている。
再度顔を上げたエミの視線の先には、楢崎の姿があった。
「君は……!」
「ああ、エミちゃんだ。久しぶり。香車くんの病院で会った時以来ですか?」
「……お前! やっぱり香車に何かしたのか!? 答えろ楢崎!」
「な、ら、さき……?」
柳端の言葉に反応したかのように、エミの口から楢崎の名前が漏れる。その後、体を小さく震わせながら、両手を頭につけて歯をガチガチと鳴らし始めた。
エミが怖がっている? いや違う。エミがこんな表情を浮かべるのは初めてだからわからなかったけど、苦痛を耐えるように震えて顔を俯かせる人間にどんな感情があるのかを考えれば、彼女が抱いているものがわかった。
「そ、うか……」
エミは楢崎を恐れているんじゃない。
「楢崎久蕗絵というのは……君だったのか……!」
楢崎に対して、罪悪感を抱いているんだ。
「エミちゃん、ダメですよ。そんな顔をしないでください。私に対して『申し訳ない』なんて思わないでください」
「だが、私は……!」
「ダメですよ、エミちゃんが私に向けるのは敵意です。私を嫌って、私に失望して、私を殴りに来てください。もっと私を怯えさせてください」
「そんなことを私に求めるのか君は!? 『獲物』でありながら、君の理想を奪ってしまった私に!」
「そうですよ。だってエミちゃんはいつだって私を安心させてくれるじゃないですか。香車くんの病院で会った時も、子供の頃もそうでした」
「子供の頃……?」
「ああ、やっぱりそっちは覚えてないんですね。だったらもう一度言いますよ」
楢崎の顔から、最初に会った時の怯えたような表情が消える。
「私を安心させないで」
その顔を見た瞬間、私の身体は自然に動いた。
「エミ! 逃げるよ!」
「あ、ああ、待ってくれ。私は彼女に……」
「アンタに決定権があると思う!? いいからさっさと逃げるよ!」
「くっ……!」
エミの悲痛な顔から必死に目を逸らし、食堂から走って逃げた。
【7月29日 午後0時40分】
「追って……こないか」
大学の正門脇まで逃げてきたけど、楢崎が追ってくる様子はなかった。たぶん柳端が止めてくれてたんだと思いたい。
それよりもエミだ。柳端の言った通り、楢崎はエミを知っていた。そして……
「エミ、さっきの女は何者なの?」
「……」
エミは楢崎久蕗絵という名前に心当たりはないと言っていた。おそらくそれは本当なんだろう。さっきの様子を見た限り、名前は知らなかったけど顔を合わせたことはある程度の関係だったのかもしれない。
そうだとしても、エミにとって楢崎の存在は決して小さくはない。記憶に強く刻まれるほどの出来事が顔を合わせた時にあったのだ。
「……彼女自身のことは何も知らない。彼女は私をよく知っているようだが、その理由も知らない」
「質問を変えるわ。エミはアイツに何をしたの?」
楢崎はエミと『香車くんの病院で会った』と言っていた。柳端も生前の棗は楢崎と連絡を取っていた可能性があるとも言っていた。
このことから考えても、エミと楢崎の間には棗の存在があるのは間違いない。
「……四年前、私が香車くんにこの命を捧げようとした後、彼は入院してしまった。私としてもはしたない真似をしたと思い、彼の元に見舞いに行ったのだよ」
「それで?」
「香車くんの病室で彼と話していたのが、先ほどの彼女だ。立ち聞きしてしまったのだが、彼女はこう言っていたよ」
『エミちゃんの次は、私にしてくださいね』
「なっ……!?」
まさかアイツも、エミと同じように棗に殺されたかったというのか。いや、思い返してみればアイツの言動にはどこかエミに似たものがあった。
『私を嫌って、私に失望して、私を殴りに来てください。もっと私を怯えさせてください』
他人が自分に敵意を向けてほしい。それはある意味では、『絶望』を求めるエミの考えに似ているのかもしれない。
「嬉しかったよ。私が彼に殺された後も、彼の欲求を満たしてくれる存在がいるのだと。私は私で楽しめるし、香車くんは香車くんで楽しめる。だから彼女が病室から出た際に声をかけたのだ」
※※※
「失礼するよ。私の名前は柏恵美、彼の第一の犠牲者だ」
「あっ、ひっ! す、すみません! あの、私何か失礼なことをしでかしましたでしょうか!?」
「ふふ、むしろ喜ばしいのだよ。私の他にも彼の獲物がいてくれるという事実がね。だから君に声をかけてしまったのだよ」
「そ、そうでしたか……あ、というかあなた、柏恵美って、エミちゃん……?」
「ふむ? 前にも会っていたかな?」
「……あー……そうですよね、覚えてないよね……でも、エミちゃんはやっぱり私に対してそうやって優しい声をかけてしまうんですね」
「私とて自分と同じ喜びを共有できるかもしれない相手を見れば嬉しく感じるのだよ。お気に召さないかな?」
「そうですね、私は安心したくないんですよ。香車くんの傍にいれば私は常に不安になれるし、常に怯えられます」
「はは、確かに君の理想には香車くんはうってつけかもしれないね。第一の犠牲者の座は私に譲ってくれるようだが、私が死んだ後は君の理想を叶える番だ。ああ、嬉しいね。こうして香車くんの前に次々と獲物が現れてくれるなら、私としても安心してこの身を彼に捧げられる」
「……ねえ、エミちゃん。一応念押ししておきますけども」
「何だね?」
「ちゃんと香車くんに殺されてくださいね?」
※※※
――それが、エミと楢崎の間にあった会話だというのか。
聞いてるだけで頭が痛くなってくる。自分の常識が揺さぶられていくような気持ち悪さがある。もしその場に今の私がいたなら、確実に楢崎を殴っていただろう。
「……だが、私は失敗してしまった。いや違うか、君に阻まれたのだ。香車くんは命を失い、私は新たな『絶望』を得た。しかし彼女は……彼女だけはまだ自分の理想にたどり着けていないのだとしたら……」
俯きながら呟くエミの顔を見て、彼女が抱く罪悪感の正体がわかった。
「……私は彼女の理想を奪ったのだ」
私からしたら、楢崎の理想がなんであろうとどんな悲劇を抱えていようと関係ない。エミを狙うなら叩き潰すだけだ。
だけどエミは楢崎のことを『自分と同じ喜びを共有できる相手』と言っていた。その相手の喜びを自分が潰してしまったと考えたのなら。
エミにとって、それは罪悪感を抱くに十分な理由なのかもしれない。
「彼女はまた私を狙ってくるだろう、そして君は楢崎くんと敵対する。君がやることは変わらない」
そうだ、私がやることは変わらない。エミが罪悪感を抱いていようと、楢崎を叩き潰すのは変わらない。
エミと楢崎の関係はわかった。ただまだ気になることがある。
楢崎久蕗絵はそもそもなぜ棗香車を知っていたのか。その事情によっては、この先の戦いが大きく変わることになるかもしれない。
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