私たちは電車で町に戻り、タクシーでM高に向かった。到着すると同時に樫添さんの案内で屋上に向かう。教師に知らせることも考えたが、事態は一刻を争うので屋上に直行することにした。そして……迷わず屋上のドアを開く。
いた、いてくれた。
エミはまだ生きていてくれた。
生きて、私の前にいる。
「エミ!」
喜びのあまり、彼女に駆け寄ろうとする。
「エミ、私は……」
「危ない!」
その直後、私の体が強い力で後ろに引っ張られた。そして、後退した私が見たものは……
さっきまで私がいた場所に躊躇無く包丁を突き出していた棗の姿だった。
「きゃあっ!」
勢いよく引っ張られたことで私は、そして私を引っ張った樫添さんは足を突っかけて倒れ込んだ。それを見た棗は、私たちめがけて突進してくる。
「待て、香車!」
柳端がすかさず私たちの前に立ちはだかり、棗は動きを止める。
私たちが屋上に着いてから、まだ三十秒も経っていないが、たったそれだけの間に起こったこのやりとりで、私は思い知らされた。
――自分の考えが、いかに甘かったのかを。
私と棗は、初対面だ。さらに棗は、私が何者かを知らない。だが、あいつにはそんなことは関係ないのだ。自分の狩りを邪魔するもの。それだけで、私を殺すことに躊躇いがなくなる。
わかっていなかった。エミから何回か聞かされただけでは私はわかっていなかった。正直言って、説得すれば棗は諦めてくれるかもしれないと思っていた。何だかんだで、エミを殺すことを躊躇しているかもしれないと思っていた。
だが違った。あと少し遅ければ、エミは間違いなく殺されていた。いや、死んでいたのはエミだけではない。
私は、自分が死ぬ可能性を全く考慮していなかった。『狩る側の存在』を相手にするというのに。
樫添さんの言うとおりだった。ここに来たのが私一人だったら、間違いなく殺されていた。
そのことを認識したとき、全力疾走をした後のように鼓動が早くなり、息が荒くなる。全身の肌が過敏になり、足にうまく力が入らない。緊張だ。それも、気分の高揚による緊張ではなく、大きな恐怖から来る緊張。相対した時に、容赦ない『死』を感じさせる。
それが、それこそが、『狩る側の存在』。
柳端は、これがエミの影響によるものだと言っていた。
――だが違う。こいつは、初めからこうだ。
こんなやつを助けるなんて、絶対に間違っている。そして、こんなやつが……こんなやつがエミを!
「長船さん、入り口に立っていてもらえます?」
「え? ああ……」
棗の指示で、屋上にいた三人目の男が入り口の扉の前に立った。あいつが、長船? いや、この状況はまずい!
「柳端! 早くこの屋上から出て!」
「え?」
「させないよ」
私の声に反応して、柳端が一瞬こちらを振り向くが、その隙をついて棗がまだ立ち上がれていない私たちに襲いかかろうとする。
「やめろ!」
だが、柳端が瞬時に反応して棗の腕を掴もうとする。それを受けて、棗は飛び退く形で柳端から離れた。
だめだ、柳端が棗への警戒を解いたら、ヤツは容赦なく私たちに襲いかかる。そして……入り口に立つ長船はハサミを持っていた。柳端が棗から目を離せない以上、この屋上を出て教師を呼ぶには私か樫添さんが動かなければならない。しかし、いくら二人がかりといっても、こちらは武器も持っていない女子二人。相手は刃物を持った男子。
長船がどういう人間かわからない以上、彼を力付くで突破するというのは難しかった。
棗は友人であるからか、柳端には手を出したくないようだが、ヤツがその考えを捨てて柳端に襲いかかるのも時間の問題だ。つまり……
「私たちで……決着をつけるしかないようね」
教師は呼べない。
大声を出したとしても、誰かが来てくれるかわからないし、その瞬間に棗はエミを殺すかもしれない。
私たちがエミと一緒に生きて帰るには、どうにかしてエミたちを説得するか……棗を行動不能にするしかない。
だが、出来るのだろうか。
あんな……人を殺すことを全く躊躇しない存在を止めることが出来るのだろうか。こちらは武器も持っていない。いや、例え武器を持っていたとしても人を殺すなど出来はしない。
しかし、棗はそれを躊躇無く出来る。
それこそが棗が持つ最大のアドバンテージだった。もし戦うことになれば、性別による力の差が無かったとしても私は棗には絶対にかなわない。ならば……
「樫添さん、柳端。棗と長船から目を離さないでいて」
私は意を決して立ち上がり、屋上の隅に向かって歩き出す。柳端には棗を、樫添さんには長船を警戒してもらい、二人に背中を任せる。
「私はエミを……助け出す」
決意を新たに、私は当初の目的を達成するために、自ら囚われたお姫様と対峙した。
「……来てしまったか」
「ええ、来たわよ。あなたを助け出すために」
屋上の隅に立つエミの表情はいつもの微笑みではなかった。
かといって、目的を邪魔されたことによる憤りの表情でもなかった。私を真剣な顔で見つめている。そう、遊園地で私に自らの願望を話してくれた時のように。
「君には、君が望む幸せな生活を送って欲しかったのだが」
「そう願っているのなら、今すぐ私と一緒にこの屋上を降りて」
「それは叶わないな、私の人生はここで終わる」
「……そんなこと、させない」
そう、させない。私はそのために、ここに来たのだ。
「そもそも、なぜここに来てしまったのだね? 私だけでなく、自分の命までも危険に晒すことになるというのに」
「……本当にわからないの?」
「わからないね。私は君を……」
「あなたを『大切な親友』だと認めたからよ」
その言葉を聞いて、エミは口を噤んだ。
「……傍から見れば、私たちはそこまで長い時間を共有したわけじゃない。それに、もっとお互いのことを知った上で『親友』と名乗るべきかもしれない。だけど……」
そう、だけど。
「『親友』が死ぬかもしれないのに、黙っていられると思うの?」
そして、私は自らの感情をさらけ出す。
「そもそも、何であなたがわからないの!? 他人のために命を投げ出そうとしているあなたが!! 他人に命を捧げようとしているあなたが!! どうして、あなたのために命を懸けようとしている人間の気持ちがわからないの!?」
どうしてなのか。どうしてこうも、あなたはこういうことには鈍感なのか。
「私はあなたを助けたい! あなたを死なせたくない! だからここまで来たの! エミ! あなたは私を見捨てるというの!? 私があなたを死なせたくない思いを、全て切り捨てるというの!? 置いていかないでよ……私と一緒にいてよ……」
どうして、あなたの死を絶対に受け入れたくない人間がいるとは思わないのか。
「エミ……私のために……生きていてよ……」
私はいつの間にか、涙を流していた。
なぜ、涙が出たのかはわからない。悲しみなのか、怒りなのか、それともどうしようもない欲望のためか。どういう形であれ、彼女の死を拒絶するために出た涙なのは確かな気がした。
「黛くん……すでに後戻りは出来ない。私の運命はもう決まっているのだ……だが、私としても君の思いを無視したくはない」
「エミ? それって……?」
「私と一緒に来るつもりはないかね?」
「……え?」
エミと、一緒に?
いや、これは、この発言の意味は。
「私と共に、香車くんの獲物にならないかと聞いている」
――彼女は、私を誘っている。
「黛くん、君も来る気はないかね? 獲物とは狩る側の牙に一方的に、為す術もなく、咀嚼される運命だ。だが、全てを狩る側に委ね、何一つ助かる手段の無い状況を愉しむことこそが、今の君を救う! 私としても、君と一緒にいたい。君と運命を共にしたい。だが、私はもう助からない。そして、私との別れが君の悲しみとなるのであれば……」
彼女はいつかのように両手を広げて、私に微笑みかけている。
「私と共に、獲物の悦びを噛みしめようではないか!」
そして、自分と一緒に、殺されてみないかと誘っている。これは、これは彼女の……
「エミ……」
その誘いに私が抱いた感情は、間違いなく。
「嬉しいよ」
――喜びだった。
「……ほう、そうか。そうか、そうか! 君も一緒に来てくれるのだね!? 私はついに、獲物としての悦びを君と分かち合うことが……」
「違うよ」
「……なに?」
そう、私が嬉しかったのはそこじゃない。
「あなたは……本当に私と一緒にいたいと思ってくれているんだね」
そうなのだ。
エミは、私を誘ってくれた。自分が最も理想とする死に方に私を誘ってくれた。
私と運命を共にしたいと言ってくれた。
エミがその死に方を理想とする考え自体は受け入れられることではない。
だとしても、自分の悦びを私に……『親友』である私に分け与えたいと言ってくれた。
本当に、嬉しかった。だから……
「だから私は……ここからあなたを救い出す!」
改めて決意をする。そして、エミも私の決意を悟ったようだ。
「そうか……残念だよ、黛くん。君が望まぬ死を迎えてしまうことがね」
――初めて見る。
エミが目を細め、俯きながら浮かべる悲痛な表情。それこそが、エミが私の幸せを本当に願っているという証。だが、彼女が諦めても、私はまだ諦めていない。
「死なないよ。私も、そしてあなたも」
そう言って、彼女に近寄る。
「いいや、それは不可能だ。彼は我々を見逃しはしない。……そうだろう?」
そう言いながら、エミは私の後ろに視線を向けた。
それに気づいた私が振り向くと――
「そうですね。絶対に、逃がしませんよ」
真後ろに棗がいた。
「なっ!?」
驚きのあまり、思わず飛び退いてしまうが、彼は私には目もくれずに、エミに向かっていく。そしてナイフを取り出すと、彼女の後ろに立った。
しまった……! いや、待って。
「柳端! あんた、何をやって……!」
そうだ、棗は柳端と対峙していた。彼が警戒していれば、こうもやすやすとここには来れないはず。
だが、私が見たものは、
「香車……? お前、何を言って……?」
棗が持っていた包丁を震えながら握りしめる、柳端の姿だった。
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