私の隣に、エミがいない。そういえば自宅や講義以外でそんな状況になるのは久しぶりかもしれない。
一人で行動することはあっても、自分以外の誰かと行動する時にエミも樫添さんもいないなんてことはここ最近では記憶にない。今の私の隣にいるのは、黒い帽子と細身のシャツが妙に似合っている男だった。
「それでは黛さん。この遊園地のジェットコースターなんですけど、ループが売りのものと、吊り下げ型のものの二つがあるんですけど、どちらにしましょうか?」
「あなたの好きに決めていいよ」
「わかりました。では今日の僕は安全を考慮して、ループのジェットコースターを選ばせていただきます」
「……」
私の隣にいる男、弓長波瑠樹はまるで女性の扱いに慣れた紳士のような口調で話してくる。彼の年齢にそぐわないところはあるけど、それ自体は特に問題はない。
だけどその佇まいは、先日初めて彼と出会った時とはまるで違う。先日は緊張のあまり言葉もたどたどしかった少年だったのに、今日はまるで大人の男と話しているようだ。
それが気になったので、後ろに着いてきていた閂に話しかけた。
「弓長くんって、いつもこんな感じなの?」
「ひひひ……少なくとも私の前ではこのような大人びた様子ではなかったですねえ……」
「私のために、合わせてきてるってこと?」
「それはわかりませんねえ……ですが、弓長氏が黛先輩のために合わせているのであれば、それは好意を抱いているのかもしれませんよ?」
閂はそう言って尚も小さく笑っているが、私はそうは思えない。少なくとも、出会って二回目の女の言葉に従って利き腕を使えなくするような男が普通であるはずがない。
アトラクションの入り口まで来たところで、弓長くんは私より先に階段を上がって左手を差し伸べてきた。
「黛さん、ここの階段は急なので、転ばないように気を付けてさい」
「バカにしないで。別にこんな階段、普通にのぼれ……」
そう言ったけど、考えを巡らせすぎていたせいか、足をつっかけてしまった。
「あっ!?」
「おっと」
転倒した私の身体は、階段にぶつかるまえに、包帯が巻かれた右手によって受け止められた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ありがとう」
「僕は黛さんのことを強い人だとは思っていますが、僕もそれに合わせて強くなって、このように支えてあげられたらとも思ってます。だから、何か僕にしてほしいことがあれば、遠慮なく言ってくださいね」
私の身体をいとも簡単に支えながら、優しく微笑みかけるその顔にはどこか余裕が感じられる。
まずい。今、少しだけ、少しだけだけど、彼を格好いいと思ってしまった。たぶんだけど、顔もちょっと赤くなっている。
「お二方、よろしいでしょうか? ひひ、係員の方がお呼びですので、早く前に進みましょう……」
「そうね。先行ってるわ」
後ろから閂が声をかけてきたので、赤面を悟られないようにさっさと奥へ進んでしまおう。
「お待たせいたしました、次の方、お乗りください」
係員の誘導に従い、私たちはコースターの前に立つ。だけど弓長くんは乗り込もうとしなかった。
「黛さん、先にどうぞ。僕は通路側に乗りますよ」
「……ありがとう」
若干、声が震えてしまったけど、弓長くんと私が隣に座り、その後ろに閂が座る形で、ジェットコースターは動き出した。
ところで私は、遊園地に来たら絶対にジェットコースターに乗りたいのかと聞かれたらそうでもない。というより、そもそも絶叫マシンそのものが大の苦手と言っても過言じゃない。
じゃあ何でジェットコースターを選んだのかというと、エミと一緒に遊園地に行った時に最初に乗ったのがそれだったからだ。エミとの思い出が私にそれを選ばせたわけだ。
そのことに私が気づいたのは、ジェットコースターが頂点に達した直後だった。
「きゃあああああああああああああっ!!」
そうだった。私って、絶叫マシン苦手だったんだ。
数分後。
「だ、大丈夫ですか? 黛さん」
「……だい、じょうぶ、よ。私はいつも通りだから」
「ひひひひひひ、ひひひひひっ、ひーひひひひっ!!」
心配そうに声をかけてくれる弓長くんの隣で、閂はずっと笑い続けていた。くそ、コイツ絶対後で潰す。
今まで何度も命の危機を経験し、それを乗り越えてきた私だけども、別に私は命の危機に瀕したいわけじゃない。そう願っているのはエミだけだ。だからジェットコースターに乗ってフラフラになるのは別におかしなことじゃない。
「黛さん。少しそこのベンチで休みましょうか」
「大丈夫、よ。私、そんな弱くないから……」
だけど今、私の横にはまだ出会って間もない男、弓長くんがいる。そいつの前でつけいるスキを見せてはいけない。だから私は、立っていないと……
「立って、いないと」
「ダメですよ」
立っていようとしていた身体は、いつの間にか弓長くんに支えられてベンチに座らされていた。
「黛さん。あなたは今、『休みたい』って思ってます。だから僕はそのオーダーに従いますよ」
そう言って、私の隣に座って左肩で私の頭を支えてくる。
不思議だった。頭では彼への警戒を解いてはいけないと思っているのに、この体勢のまま何も警戒せずに眠ってしまいたいという欲求も込み上げてしまう。
そういえば、私がこうやって他人に身を任せたのって、いつ以来のことだろうか。少なくとも、エミと出会ってからはこういうシチュエーションはなかったかもしれない。エミや樫添さんとは友達として関わっているし、エミは私に支配されたいと考えているから、私に身を任せてもいいと言ってくれる人間が隣にいるなんてことはなかった。
「僕はあなたの隣にいられるような、あなたの理想に沿えるような、そんな男になりたいんです」
だから私は少しだけ考えてしまう。もしかしたら、弓長くんは私にとって必要な人なのかもしれないと。
「ひひひ、どうやら柏先輩の方も楽しんでいらっしゃるようですね」
閂の言葉で、私は瞬時に姿勢を正した。エミにこんな姿を見せてはいけない。
前を見ると、エミと財前は出店で買い物をしていたのか、クレープとチュロスを手に持っていた。
「やあルリ、久々の遊園地だが、楽しんでいるかね?」
「う、うん」
「ふむ、そちらの……弓長くんといったか。今日はルリのことをよろしく頼むよ」
「はい。必ず僕が黛さんを支えます」
エミが弓長くんに声をかけているのを見て、当初の目的を思い出した。そもそもこの弓長くんがエミを見た時の反応が見たかったんだ。彼が本当にエミを狙っていないか見極めるのが目的だったんだ。
「あのさ、弓長くん」
「なんでしょう?」
「エミ……私の友達の柏さんなんだけど、彼女のことどう思ってる?」
「……」
私の質問に対して、弓長くんはこう答えた。
「そうですね。今日初めて会いましたけど、黛さんのことをとても大切に思ってくれている人なんだなって思いましたよ」
エミが、私のことを大切に思ってくれている?
ああ、そうだ。私はそう思いたかった。そういう実感がほしかった。私はエミのことを大切に思っているけど、エミが私を大切に思っているのかいつも不安だった。そう信じ切れていなかったから、棗朝飛に命を差し出そうともした。
エミの口からそれを直接聞いたって、私に気を遣って言っているのかもしれないと思ってしまうだろう。だけど弓長くんという第三者の口からそれを聞くと、私は安心してしまう。
私は、今は誰かにとっての大切な人間なのだと安心してしまう。
もしかして、私はこの安心感を求めていたのかもしれない。私はずっと……
「ああ、そうだ。僕からも黛さんに聞きたいことがあるのですが」
弓長くんは、私に微笑みながら質問してきた。
「どうして柏さんのことを、僕に確認したんですか?」
「え?」
「もしかして、僕が柏さんに手を出すんじゃないかって心配ですか? なら大丈夫ですよ。僕はあなたのオーダーに従って、『他人を傷つけない男』になりましたから」
「……」
その言葉に、少しの違和感を覚えた。
もし、仮に私のオーダーとやらが、違うものだったら。もっと私の理想を正直に伝えたものだったら。
彼は、どう動くのだろう。
「ねえ、弓長くん」
「なんでしょう?」
「その、例えばさ。私が君に、『私のことを認めてくれる人』っていうオーダーを……」
「ひひひひ、ここで皆様にご提案があるのですが」
私の言葉は、閂の高い声によって遮られた。
「どうです? せっかくここまで大人数で遊園地に来たのですから、何か対戦型のアトラクションでも参加しませんか?」
「あ、いいですね。私もやってみたいです! その、柏さんと一緒に……」
閂の提案に財前も同意して、いつのまにか話が進んでいく。
「ふむ、私は構わないが、ルリはどうかね? 君は少し疲れているようだが」
「大丈夫よ。行きましょう」
立ち上がって頭を振る。何かまずいことを言いそうになってしまった。これはよくない。
そんな私に対し、エミが隣に来て歩きながら囁いて来た。
「ルリ、ひとつ聞きたい。彼に何を言おうとしたのだね?」
「え?」
「……いや、なんでもない。私にこんなことを聞く権利などない。忘れてくれ」
そう言って話を終えたエミの顔は、なぜか悲しそうだった。
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