【7月29日 午後1時30分】
「うん、うん、わかった。じゃあこっちに合流してくれる? うん、それじゃあね」
俺の隣に座る唐沢は通話を終えると俺に向き直ってきた。
「樫添さん、私のところに来てくれるって」
「お前の仲間が強引に連れ去った、の間違いだろうが」
「人聞きの悪いことを言うね。まあ、樫添さんには柏さんと黛さんを連れてきてもらうとして、柳端くんにもやってもらいたいことがあるんだよね」
現在、俺は楢崎が運転する車の後部座席で唐沢と共に座っている状態だ。赤信号で止まった瞬間に大声を出すなりすれば脱出できるかもしれないが、リスクも高い。それに現状では樫添も捕まっている以上、俺だけが脱出したらアイツの身を危険に晒す可能性がある。
一方で唐沢のアジトに連れ込まれたら今以上に脱出が困難になるのは確かだ。今の俺は縛られているわけでもない。リスクを承知で脱出するか、様子を見るか。二択を迫られていた。
「心配しなくても、君にやってもらいたいことが済んだらすぐに帰すよ。樫添さんもね」
「信用できると思うか? 現に前に座ってるアンタの仲間はついさっき黛に襲い掛かっていたんだぞ?」
「それは許してくれよ。クロエちゃんからしたら黛さんみたいな排他的な子は恐怖の対象でしかないんだから」
「そんなヤツを黛の前に行かせる方が悪いだろ」
「確かにね。たださあ、君はそれでいいのかい?」
「なに?」
「私の隣に座っているのに、そんなに無防備なままで」
言葉の意味を理解した時には、もう遅かった。
「ぐっ!?」
腹部に微かな痛みを感じた直後、唐沢の左手に握られた何かが俺の腹に突き刺さっているのが見えた。
失敗した……バカか俺は。『スタジオ唐沢』の連中が危険なのはわかっていただろうが。逃げた後のことなんて気にせずにさっさと逃げていればこんな……
「……?」
だが、予想していた激痛はいつまで経っても感じなかった。
「痛くないだろ? こんな物当てられたってさ」
そう言いながら唐沢は手に握ったスティックタイプの消しゴムを見せてくる。腹に突き刺さったと思ったのはこれだったのか?
「このタイプの消しゴム便利なんだよね。胸ポケットにも差して使えるからさ」
「……」
「何が言いたいのかって顔してるね。じゃあ説明するけどさ、君は今、私に刃物か何かで刺されたって思っただろ?」
確かにそうだ。それも思っただけじゃない、微かだが刺されたような痛みも感じた。
「人間って不思議なもんでねえ、こんな消しゴムで突かれても痛みを感じる時があるんだよ。特に今の君みたいに気を張ってると、余計に感覚が過敏になるんだ」
「だからってお前ら相手に気を抜けとでも言うのか?」
「気を張ってて何か出来るの? もし私が持ってたのが消しゴムじゃなくて刃物だったら君は死んでたよ」
「……!」
「棗香車くんだったら、私にこんなこと言われる前に最適な行動を取ってただろうねえ。直接会ったことはないけど、彼は本当に素晴らしいって霧人先生も仰ってたよ」
「おい待て、それはどういう意味だ」
唐沢が求めている斧寺霧人という人物については、閂や萱愛からある程度聞かされている。萱愛の母方の祖父であり、幼少期の柏を庇って命を落としたのだと。だがソイツに関する情報の中に香車の名前は出てこなかった。斧寺霧人と香車は無関係のはずだ。
「おや、知りたいのかい? 霧人先生と香車くんの関係について」
「それは……」
「別に知りたくなくても話してあげるさ。ほら、もう着いたよ」
気が付けば、車はどこか建物の前に停車していた。
【7月29日 午後2時01分】
俺が通されたのは、雑居ビルの一室だった。ここも『スタジオ唐沢』の持ち物なのかは知らないが、見た感じは演劇の稽古をする空間には見えない。
代わりにあったのは、複数のアルミの棚に揃えられた膨大なファイルや本、ノートの類だった。なんだここは、倉庫か?
「遠慮せずに適当に座っていいよ」
「……」
棚の横に机と椅子は複数揃えられていたが、はいそうですかと座る気分にはならない。しかし……
「あ……ひっ! あ、あの、私に何かご用でしょうか!?」
後ろには楢崎が立っている。黛を押さえたあの動きを見る限り、コイツを振り切るのは難しいだろう。
「あー、そうだ。クロエちゃん。そろそろお客さんも来てくれる時間だよね?」
「は、はい。あ、もうここの玄関に来てるみたいです」
楢崎は携帯電話で何かのメッセージを確認していた。
「お客さんというのは樫添のことか? お前らの別動隊がアイツを攫ったんだよな?」
「いや違うよ。すぐわかるから座りなよ」
「……」
椅子には座らず、机を挟んで唐沢の向かいに立って話す。
「ひとつ聞いておきたい。アンタは柏の中に斧寺霧人が潜んでいるなんて話を本気で信じているのか?」
「君は霧人先生を知らないから信じられないだろうけど、彼女の口調や『絶望』を求める心は霧人先生そのものだよ。私からしちゃ霧人先生本人からは程遠いんだけどね。それに君は、死んだはずの人間の意志が他人に乗り移る現象を身をもって体験してるんじゃなかったかな?」
「……!!」
そうだ。俺は一度、香車の声に縋って『成香』に成り果てた。なら今の柏は、それと同じ状態だというのか?
「つまり君の知っている柏さんは、最初から霧人先生の影響を受けて変わり果てた状態だったってことさ。私は彼女から霧人先生を解放したい。それが私ができる、霧人先生への最大の恩返しだ」
「こんな回りくどいことをしなくても、柏を殺したいのであれば本人に言えば喜んでここに来るぞ」
「誤解しないでくれよ、私はあの子を殺したいわけじゃないさ。柏さんが今のまま死んじゃったら、霧人先生は彼女に捕らわれたままだ」
「なら仮に、アンタの目論見通りに斧寺霧人が復活して柏が本来の状態とやらに戻ったなら、柏はそれでお役御免か?」
その時。
「そんなこと許すわけがないだろ?」
唐沢の全身から、怒りとも憎しみとも取れる異様な空気が発せられた。
なんだこれは? 唐沢は言葉を発しただけで微動だにしていない。なのに俺の心臓は勝手に鼓動を早め、この場から逃げ出したいという考えと全く動かない身体に挟まれて異様な気持ち悪さがこみあげてくる。
同じ空間に不機嫌な人間がいることで居心地の悪さを感じた経験はある。だがこれはそれとはレベルが違う。唐沢清一郎という人間がこの場所にいるというだけで、異様なまでの不安と恐怖が俺に襲い掛かってくる。
「あ、ひ、ひあ……」
小さく高い声が届いたかと思うと、楢崎は全身を震わせてその場にうずくまっていた。その目には涙を浮かべて表情は怯えきっている。それと同時に、その顔は少し笑っているようにも見えた。
「おっと、ごめんごめん。ついムキになってしまったね。それでだ、柳端くんが聞きたかったのは私の目的の他に、霧人先生と香車くんの関係だったよね?」
唐沢はわざとらしく笑顔を浮かべて友好的に話してくるが、さっきの言葉でハッキリした。
コイツは柏恵美という女を心の底から憎み、決して救われない方法で殺したいと考えている。
だからコイツからすると、今の柏が死んでしまったら困るのだ。なぜならそれは柏にとって理想にたどり着いたことを意味しているから。激しく憎んでいる相手が、望みを叶えてしまうなんて許せないから。
その時、背後のドアが開く音が聞こえた。
「おや、話している間にお客さんも来たみたいだね」
振り返って部屋に入ってきた人物を見る。そこには……
「……どういうこと? クロエちゃん」
怪訝な顔で俺と楢崎の姿を見つめる朝飛さんがいた。
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