二週間後。
言葉通り、華さんはアタシに眼鏡を買ってくれた。遠視用の凸レンズを使用した、丸い眼鏡だった。
だけどアタシは、それをかける気にならなかった。理由ははっきりしている。この眼鏡はアタシの努力を否定して作られたものだからだ。アタシが華さんの力になりたいという思いを壊して作られたものだからだ。
そうは言っても前がはっきり見えないのは困るから、しかたなくアタシは眼鏡を頭に乗せることにした。こうしておけば、はっきり見たい時だけ見ることができる。
一方の華さんは、眼鏡を頭に乗せるアタシを見て、こう言った。
「生花さん、眼鏡が似合うじゃないですか。もしよかったら、かけているところも見せてくれませんか?」
そう言われて、アタシは眼鏡をかけて華さんの顔を見る。
「ああよかった。やっぱり似合いますね。前の眼鏡より、私が見繕った眼鏡の方が似合いますよ」
アタシを見ながら満足げに笑う華さんの顔が、どうにも気持ち悪く見えたから、すぐに眼鏡を頭に乗せ直した。アタシが見たかったのはそんな顔じゃない。アタシは華さんが幸せそうに笑う顔であって、そんな……
そこまで考えて、アタシは考えを止めた。
眼鏡を頭に乗せるようになってから、数週間が経った。
アタシはというと、相変わらず見知らぬ男相手に一緒に食事したり、ホテルに泊まったりしてお金を稼いでいた。自分でもどうしてこんなことを続けているのかわからなかったけど、おそらくはまだ縋り付いていたのかもしれない。華さんが喜んでくれるという未来に。
真面目に努力していれば、いつか報われる。華さんの口癖は、アタシ自身にも少なからず影響を与えていたようだ。これが『真面目な努力』なのかはわからないけど。でも少なくとも、これは華さんのためにやっていることなんだと、自分自身に言い聞かせていた。
小学生の上に、頭も技術も足りないアタシができることなんて、男ウケのする身体を活用する以外ない。アタシがお金を稼げば、華さんは苦労せずに済む。そう思ってアタシは、男の相手をし続けた。
そんな日々を過ごしているうちに、なぜかアタシの遠視はどんどんひどくなっていった。眼鏡をかけずに物を見ようとすると、目が疲れて仕方がない。だけど眼鏡をかけたくなかったアタシは、疲れ目のせいか気分が悪くなることが多くなった。
ある日、アタシはついに気分の悪さに堪えかねて、学校を休んだ。そもそも昼間は学校に行って、夜は男の相手をしていたんだから、体力の限界も来ていたのかもしれない。とりあえず横になって、体力の回復を待っていた。
昼間まで眠った後、午後一時頃に目が覚めた。とりあえずは水を飲もうと、台所に向かうと、そこには華さんがいた。
「あれ、華さん? 今日は仕事じゃなかったの?」
そう声をかけたけど、返事はない。しかしこちらに振り返った華さんは、アタシを憤怒の表情で見ていた。
「……生花さん。これは、なんですか?」
よく見ると、華さんの右手にはアタシの部屋にあったカバンが握られていた。
それはアタシが今まで男を相手に稼いだ金を貯め込んでいたカバンだった。小学生であるアタシに預金通帳なんて作れなかったので、部屋に隠しておいたのだ。
「あ……それは……」
ついに見つかってしまった。だけどこれはチャンスだ。このアタシの今までの努力が報われるチャンスだ。
「華さん! 聞いておくれよ。そのお金があれば、華さんだって仕事を休めるだろ? もう華さんが頑張らなくたって、アタシが男の相手をすれば、みんな幸せになれるんだよ!」
「……男の、相手?」
アタシが必死に稼いだお金は、華さんが幸せになるために使うべきだ。そのお金さえあれば、華さんだってしばらくは仕事を休める。なんなら、どこか遊びにだっていける。そう思って、アタシは華さんに訴えかけた。
「そうだよ。アタシだってお金を稼げるんだ。アタシも頑張れるんだ。だから華さんがもう苦しむことなんてないんだよ。そうだ、華さん。あんな男となんて別れて、二人で暮らそうよ。アタシと華さんの二人がいれば、十分生きていけるよ!」
そうだ。よく考えてみれば、アタシたちに父親なんて必要ない。あんなヤツがいなくたって、アタシと華さんだけで幸せになれる。アタシたち二人が頑張れば、幸せな未来にたどり着けるんだ。
だけど、そんなアタシに対して、華さんの冷たい声が届いた。
「ふざけないでください」
そして、華さんの平手が、アタシの左頬に叩きつけられた。
「あぐっ!」
「なんで、なんでですか? あなた、男の相手と言いましたね?」
「い、いや、だって、アタシがお金を稼ぐには、そうするしかなかったんだよ」
もしかして、アタシが男の相手をしたことに怒っているんだろうか? そうだ、よく考えてみれば、華さんからしたら自分の子供が見知らぬ男相手に身体を売りにして稼いでいるなんてことを知ったら、怒るに決まっている。
だけど華さんの怒りの理由は、アタシの想像と異なっていた。
「男の相手? 男の相手をして、こんな大金を稼いだのですか? 生花さん。このお金は、私の二ヶ月分の手取りを上回る金額です。それを、あなたが稼いだと言うのですか?」
「え……?」
「私の頑張りは! あなたの汚らわしい行いに劣ると言うのですか!?」
そう叫んで、華さんはアタシを叩き続ける。
「私がこんなに頑張っているのに! あなたは汚らわしい行いで卑怯にも私を上回る大金を得た! なんでそんなことをするのですか!? 私の努力はなんだったのですか!?」
「や、やめて! やめてよ、華さん! やり方がまずかったのなら、もっと違うやり方を考えるよ!」
「あなたは何もしなくていいのです! 私の努力が全てなのです! 私の頑張りは! 決してあなたの汚らわしい行いに劣ってなどいないのです!」
華さんの言葉を聞いて気づいた。華さんはアタシのことを気遣っているわけじゃない。
華さんは最初から……『頑張る自分』に酔っていたんだ。
『自分が頑張ってさえいれば』『自分が真面目に努力していれば』『自分が頑張ることで、家族は救われる』。そんな自分に酔っているから、アタシが頑張ることを許さなかったんだ。
何発もアタシを殴った華さんは、はあはあと息を切らしながら、台所の棚を開ける。
そして、その右手には包丁が握られていた。
「許しません。あなたの卑怯な行いが、私の努力を上回るなんてことは、あってはならないのです」
「や、やめて、やめてよ、華さん」
「許しませんよ、生花さん!」
「ひっ!」
身の危険を感じたアタシは、玄関に向かって走り、扉を開けて外に逃げた。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
玄関を開けてアパートの階段を素早く駆け下りたアタシは、なるべく人通りの多い道路を目指して走った。慌てていたからサンダルを履いてしまったため、少し走りにくい。かといって裸足で走ったら足の痛みでスピードが落ちてしまうと思ったから、このまま逃げることにした。
「生花さん! 逃がしませんよ!」
だけど華さんはまだアタシを追ってきている。手には包丁を持って、怒りに満ちた表情で走ってきている。ダメだ、このままじゃ追いつかれる。
どうしてだろう。どうしてこうなってしまったんだろう。アタシは華さんに幸せになってほしかった。華さんが喜ぶ顔を見たくて頑張っていた。それなのに、現実では華さんはアタシに激しい怒りを向けている。
どこで間違った? どうすれば正解だった? そんな疑問が頭の中に浮かんでいくけど、とにかく逃げないとアタシの命はない。
ようやく人通りの多い道路に辿り着いた。誰かに助けを求めようとするけど、包丁を持った華さんを止めてくれそうな人はいない。そんなアタシの目に、あるものが映った。
「あ、あそこなら!」
信号のある道路の向かいには交番があった。あそこに駆け込めば助かる。そう思って赤信号の横断歩道を必死に走り抜けた。
「生花さん!」
だけど華さんがアタシを見つけて叫ぶ声が聞こえてきた。ダメだ、このままじゃ交番に駆け込む前に捕まる……
「……え?」
突然、アタシの後ろから急ブレーキの音と、何かが跳ね飛ばされるような音が響き渡った。おそるおそる後ろを見ると、横断歩道を少し過ぎたところで止まっている白い車があった。
そしてその車の前には、血だらけで道路に倒れている華さんがいた。
「あ、ああ……」
あまりの光景に、アタシはその場にへたり込んでしまった。
華さんが、華さんが車にはねられちゃった。アタシのためにあんなに頑張ってくれていた華さんが死んじゃった。
「お、おい! 人がはねられたぞ! 救急車を呼べ!」
「お、俺は悪くねえ! 赤信号なのにこの女が飛び出してきたんだ!」
アタシの周りで通行人たちが騒ぐ声が聞こえてきたけど、その中の誰も、華さんに近づく人はいなかった。
華さん。なんで? 華さんはあんなに頑張っていたのに。頑張ればいつか報われるって言ってたのに。アタシが頑張れば華さんが幸せになると思っていたのに。華さんが幸せになる未来は、ついに来なかったじゃないか。
「ヒャハ、ヒャハハ……」
なぜかアタシの口から笑い声が漏れた。どうしてなのかはわからない。笑うしかないと思っていたのかもしれない。
華さんの葬式は、身内だけで行われた。
車が歩行者をはねた交通事故とはいえ、信号無視したのは華さんの方だったので、運転者からの賠償金は多くはなかったらしい。だけど、華さん自身が生命保険に入っていたおかげで、アタシたち家族には保険金が下りた。
大金を手にした父親に、華さんの死を悼んでいる様子はなかった。この男が華さんに感謝するなんて思ってなかったけど、じゃあ華さんの頑張りはなんだったのかと思ってしまう。
アタシはというと、自分が稼いだ金を改めて部屋に隠して、男相手の商売を続けていた。もう、華さんのために頑張ることはできないのに、それでも続けていた。
その理由は、アタシ自身の快楽のためだ。
「生花ちゃん。本当にいいの?」
ホテルのベッドの上で、男が不安そうに問いかけるのに対し、アタシはこう答えた。
「ヒャハハ、いいさ。アタシを気持ちよくさせてくれれば……『生きていてよかった』って思わせてさえくれれば、何したっていいよ」
華さんの死を経て、アタシの考えは大きく変わり、男相手のサービスも変わった。基本的に男がどんな行為を要求してきても、アタシはそれに応えた。
わかってしまったからだ。真面目に努力したところで幸せな未来が来るなんて保証はどこにもない。どんなに苦しい思いをしたところで、その見返りで楽しい思いができるとは限らない。なら、どうするか?
決まっている。今、この瞬間を楽しむしかない。
男がアタシの身体を堪能するのに対し、アタシも目の前の快楽を堪能した。もしかしたら、次の瞬間死んでしまうかもしれないけど、それでも構わない。来るかどうかもわからない幸せな未来より、目の前の『絶頂期』を味わいたい。アタシはそれを望んだ。
華さんのような人生は死んでもゴメンだ。アタシは華さんのように、後悔しながら死にたくない。『生きていてよかった』と思いながら死にたい。それがアタシの望みだ。
だけどアタシは、華さんが残してくれた眼鏡をまだ頭に乗せていた。華さんのような人生を送りたくはないと本気で思っているのに、かけてしまうと世界がはっきり見えてしまうのに、まだ頭に乗せていた。
その理由は、アタシ自身にもわからなかった。
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