あの時の記憶。俺がまだ、小学校にも入学していなかった頃の記憶。 当時の俺は、両親に愛を注がれて育ったなんて自覚はなかった。だけど母さんも陽泉さんも、俺が危ないことをしたら叱り、俺が楽しい時には笑い、そして俺が言葉を覚えたり、しっかり言えることを喜んだ。
少なくとも、俺は自分に両親がいることを当たり前のことだと思っていた。
そんなある日のことだった。母さんが仕事で帰りが遅くなると言うので、陽泉さんは外にご飯を食べに行こうと言った。
「小霧くんも、お母さんの料理が食べたいだろうけど、今日はお外で食べようね」
陽泉さんはそんなことを言って、俺を駅前の繁華街にレストランに連れて行った。外食するのは初めての経験というわけではなかったが、その時の俺は母さんの料理を夜に食べるのが当たり前だったので、レストランでの食事は新鮮だった。
「さ、小霧くん。食べたいもの選んでごらん」
陽泉さんは俺と一緒にメニューを見て、俺が食べたそうな料理を指し示してくれた。
「あ、これなんてどうかな? デミグラスハンバーグ。小霧くん、ハンバーグ好きだからねえ」
俺に対して笑いかけながら、熱心にメニューを眺める陽泉さんだったが、当時の俺はこんなことを言ってしまった。
「ぼく、おかあさんの作った料理が食べたい!」
そう、子供の頃の俺は母親にべったりであり、父親である陽泉さんに対して反抗的だったのだ。いつも夜に出される母さんの料理を楽しみにしていたし、突然それがなくなって不機嫌になっていた。だからつい、そんなことを言ったのだ。
「ああ、小霧くん。ごめんね、今日はお母さんの料理が食べられないんだ。でも、今日はこの中から好きなもの食べていいよ」
「やだ、やだ! おかあさんの料理がいいの!」
陽泉さんは困った顔で俺をなだめるが、俺はきかん坊だった。せっかくレストランで出された料理にもろくに手をつけず、陽泉さんは悲しい顔をしていた。
「小霧くん、もういいの?」
「いい! お腹いっぱい!」
「……そっか。じゃあ、帰ろうか」
陽泉さんは寂しそうな顔をしながらも、俺と一緒にレストランを出た。
店を出てからバス停に向かう途中の道でも、俺はまだ不機嫌そうに身体を揺すっていた。それでも陽泉さんは俺の手をしっかり握り、俺に微笑みかけていた。
「小霧くん、今日は残念だったけど、明日はお母さんの料理食べようね」
「ぜったいだよ!」
「うん、わかった。絶対ね」
陽泉さんはそう言って、俺の手を引こうとした。
だけどその時、俺たちの前を歩いていた中年の男性が手に持っていた空き缶を道ばたに捨てて立ち去ろうとしていた。それを見た俺は、思わず叫んでしまった。
「おじさん、空き缶ポイ捨てしちゃダメなんだよ!」
俺は母さんから、『大人でも悪いことをする人はいるから、小霧くんはそういう人にもちゃんと注意してね』と教えられていた。だからその男性にも注意することが正しいことなのだと信じていた。
だけど俺の声に反応した男性は、赤い顔をさらに赤くしながらこっちを睨んできた。
「なんだこのクソガキは! ガキのくせに俺に偉そうにしやがって!」
男性がそう叫んだことで、俺は思わず驚いてしまい、その場にへたりこんでしまった。両目から涙が出そうになったところで、陽泉さんが俺の前に出た。
「ああ、すみません。うちの息子が驚かせてしまって……」
陽泉さんはペコペコと頭を下げていたが、男性はそれでも収まらなかった。今思えば、かなり酒に酔っていたのだろう。
「てめえ、子供にどういう教育してんだ! ああ!? 年上を敬えってちゃんと教えてねえのか!?」
「いやあ、すみません。ただまあ、うちの息子も間違ったことは言ってないので」
「だったらてめえがガキの代わりに頭下げろ!」
男性は陽泉さんの頭を掴んで強引に下げさせるが、それでも陽泉さんは特に動じなかった。
だけど一方の俺は、それが許せなかった。自分はポイ捨てを注意した立場なのに、どうして陽泉さんが謝らないといけないのか。それが納得いかなかった。
「お父さんがなんであやまるの!? 悪いのはおじさんの方でしょ!?」
だが、俺のその言葉が引き金となった。
「うるせえぞ、クソガキが!」
逆上した男性は拳を振り上げて、俺の頭を殴った。知らない大人に殴られたという恐怖と痛みで、俺はついに泣き出してしまった。
しかし、本当の恐怖はここからだった。
「ぐがっ!?」
俺を殴ったはずの男性は、なぜか苦しそうに呻いた。俺が両目から涙を拭ってよく見ると、そこには。
「……あれ? おかしいな。あなたは僕の息子に何をしているのかなあ?」
無表情で男性の首を右手で締め上げている陽泉さんがいた。
「あ、ああああがあああああ!!」
「うーん、これはおかしいなあ。僕の愛する息子がどうして殴られるのかなあ。これは、許しておけることではないなあ」
そう呟いて、陽泉さんは男性を力尽くで地面に叩きつけた。
「ぐ、はあ!」
「あー、怖かったよねえ、小霧くん。知らない男の人に殴られて怖かったよねえ。だけど大丈夫だよ」
陽泉さんは俺に話しかけているはずなのに、俺の方を全く見ていない。そして地面に倒れる男性に馬乗りになると、そのまま右拳を振り下ろした。
「ひ、がぶっ!!」
「大丈夫だよ、小霧くん。大丈夫。僕が絶対に君を守るからね」
「ま、待て! 悪かった! 俺が悪かった!」
「うーん? 小霧くん、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
男性が許しを乞うが、陽泉さんはまるでそれが聞こえてないかのように男性を殴り続ける。
「た、たすっ! ぐぶっ!」
「ごめんね、小霧くん。怖い思いさせちゃったよねえ。怖かったよねえ」
俺を安心させるかのように語りかける陽泉さんだったが、男性を殴る手は止まらない。男子は口や鼻から血を流して、両目が腫れ上がりつつあったが、それでも陽泉さんの手は止まらない。
俺はそれを見て、子供ながらに異変を感じていた。初めは陽泉さんは俺が殴られたことで怒っているのだと思っていた。だから男性に殴りかかっていたのだと思っていた。
だけど……目の前の光景が俺のその考えを否定した。なぜなら陽泉さんは……
「あ、はははっ! 大丈夫だよ、小霧くん!」
男性を殴りながら、笑っていたのだから。
「小霧くん! 僕がいる限り、君が怖い目に遭う事なんてないよ! だって僕は、君を愛しているんだからねえ! 僕は『愛の泉』、萱愛陽泉だからねえ!」
高笑いを上げながら拳を振り下ろし続ける。男性はもう悲鳴を上げるどころか、ピクリとも動かない。それを見た俺は、確かな恐怖を感じた。陽泉さんに対する、最初の恐怖を感じた。
しばらくすると、陽泉さんは息を荒げながら、男性の状態を確認した。
「あらら、動かなくなっちゃった。まあこれで、小霧くんを怖い目に遭わせようなんてもう思わないよね?」
嬉しそうにそう呟く陽泉さんは、俺に向き直る。
「さ、帰ろうか。小霧くん」
歪な笑顔を浮かべる陽泉さんの顔は、返り血に染まっていた。
「あ、あの、おとう、さん」
「ん、なに?」
「なんで、おじさん、そんな、こと?」
俺はどうして男性をそんなに殴ったのかと聞きたかったが、上手く言葉にできなかった。しかし陽泉さんは俺の意図を汲み取り、こう答えた。
「ああ、そんなの決まってるじゃないか。僕が小霧くんを愛しているからだよ」
それを聞いた俺の中で、一つの答えが生まれてしまった。
俺の父親、萱愛陽泉は息子を殴られた怒りで人を殺したのではなく――
息子に自分の愛を示せるという喜びで、人を殺したのだと。
「きゃああああああああ!!」
血まみれで倒れる男性を見た通行人が悲鳴を上げ、その直後に制服を着た警察官が陽泉さんを取り押さえた。
俺はそれを見ながら、自分の父親が怪物であることを思い知った。
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