県立M高校には、定時制がある。
といっても、全日制の生徒にとって定時制の存在は『そういえばあったな』くらいの認識である。それはもちろんこの俺、柳端幸四郎も例外ではなかった。
M高校の定時制課程は、夜間定時制であり、全日制の生徒が下校した後に定時制の生徒が登校してくる。そのため、俺たち全日制の生徒と定時制の生徒が出会うことは基本的にはない。
だがその日、俺は教室に忘れ物をしたため、下校時間を過ぎたことを承知で教室に戻っていた。
「全く、我ながらドジなことをしたな」
俺はよりにもよって、明日提出の課題を教室に置いてきてしまったのだ。早朝に登校して課題を仕上げることも考えたが、予想外の事態が起きないとも限らないので、取りに戻ることにした。
既に日は沈み始めている。5月の連休が終わり、日が長くなったとはいえ、6時にもなればさすがに暗くなり始める。
「くっ……」
俺は左腕から来る痛みに呻き、思わずギブスを押さえてしまう。陽泉との一件から半月あまり経ったが、いまだに俺の左腕は完治していない。骨が折れていたのでそう簡単に治るわけではないことはわかっているが、この不便な生活からは早く脱却したい。
あれからというもの、俺は学業に専念していた。俺には萱愛のように大切な人間を幸せにする覚悟も、黛のように大切な人間を自分のエゴに付き合わせる身勝手さもない。陽泉との戦いにおいても、俺が萱愛を助けると言いつつも、実際は無様に地面に這いつくばるしかなかった。
あの時だけじゃない。俺は香車を助けることもできなかったし、閂が叔父に囚われた時も何もできなかった。俺はいつも、大事な場面でヘマばかりをしている。その結果、俺は何も成し遂げることもできずに、大切な人間を失ったまま生き続けている。
だからせめて今できることをしなければならない。そんな焦りにも似た感情から、俺は何の目的に進んでいるのかわからないまま、学校の勉強を続けていた。
しかし、俺はこれからどうする? 俺には今、何の目的もない。いや、昔からそうだった。俺は将来のことを考えてはいたものの、考えているだけで、何の結論も出せなかった。それが今の焦りを招いている。
もし、俺の隣にまだ香車がいてくれたら……そんな叶わぬ願いすら抱いてしまう。
「ちっ、何を考えているんだ俺は」
あの時痛感したはずだ。俺も香車を殺したのだと。俺はあいつの願望にも、本性にも気づかなかった。だからあいつに切り捨てられたんだ。そんな人間が、あいつにまだいてほしいなんて願う資格はない。
「あれ……柳端くん、ですか?」
その時、俺の後ろから声がかけられた。今は既に下校時間を過ぎているため、生徒はいないはずだ。まずい、教師に見つかったか?
だが俺の目に飛び込んできたのは、意外な人物だった。
「あっ……本当に、柳端くんだ」
薄暗い教室の入り口に立っていたのは、黒髪にパーマがあてられたショートカットの女子だった。私服を着ているので、おそらく定時制の生徒だろう。だが俺は、この女の顔に見覚えがあった。
「……お前、綾小路、か?」
顔を見る限り、確かに俺の目の前にいるのは、かつて俺がバイトをしていた店の同僚、綾小路佳代子だった。だが閂によって店の売り上げに手をつけていたのが暴かれたことで、こいつはバイトをクビになった上に警察のお世話になって、少年院に入れられた。
確か去年の年末には少年院を出た姿を見ていたが、こうして会うのはそれ以来のことだ。しかし……
「久しぶり、柳端くん」
「あ、ああ」
俺の知る綾小路佳代子という女は、典型的な今時の若者という性格をしていて、良く言えば自信に満ちあふれていて、悪く言えば世の中を舐めきっていた。少年院に入れられたことで多少反省したのかもしれないが、年末に会った時は少なくともまだ軽口を言うタイプの人間だった。
だが今の綾小路は、随分と慎ましやかになったというか……もっと言えば、弱々しい人間に見える。茶髪だった髪を黒く染めているから印象が変わったのかもしれないが、それ以上に覇気が無いように感じられる。まるで病人を目の前にしているような気分だった。
「というかお前、なんでここにいるんだ?」
「うん、アタシ、4月からここの定時制に編入したんだ」
「なんだと?」
「ほら、高校を退学になったからさ。どこでもいいから高校は卒業しておけって、母親に言われてさ」
「そうなのか……」
こうして話してみても、口調は確かに綾小路のものだ。しかしなんというか、以前のこいつから放たれていた強引さというか、力強さは感じられない。
「柳端くん、それ、どうしたの?」
「ん? ああ、この左腕か。ちょっと骨折しただけだ」
「そう……」
「まあ、もうじき元通りに動くだろうとは医者に言われてる。心配してくれてありがとうな」
「やっぱり、柳端くんは、アタシとは違うんだね」
「なに?」
なんだ? 綾小路は何を言っている?
「柳端くんはアタシと違って、ちゃんと未来に向かって歩いてる。歩く資格がある。でもアタシにはもうそれがない。ちょっと、寂しいな」
綾小路はフラフラとした足取りでこちらに近づいてくる。
「柳端くんはやっぱりカッコいいよ。それこそ、アタシみたいな腐った人間とは比べものにならないくらい。もう君を『コウくん』って呼ぶことはできないけど、人生の最期に会う人間は柳端くんがいいな」
「ちょ、ちょっと待て!」
なんなんだ? こいつは何を言っている?
いきなり人生の最期だの何だの言い始めて、こいつはどういうつもりなんだ?
「お前ちょっとおかしいぞ。もしかして、何か思い悩んでいることでもあるのか?」
「……あはは、思い悩むことなんていくらでもあるよ。でももうアタシには悩む資格すらない。だってアタシ、最低の人間なんだから」
「……」
おかしい。これがあの綾小路佳代子なのか? 自分に絶対の自信を持ち、世の中を上手く渡っていけると侮っていたあの女なのか? 今のこいつには自信の欠片も感じられない。それどころか、自分を卑下し、嫌悪しているようにすら見える。
「そうだ、せっかく柳端くんに会えたわけだし、聞いておこうか」
「な、何をだ?」
「柏恵美って人、知ってる?」
「……!!」
その名前を出したということは、こいつは俺を非日常に引きずりこむ存在だ。瞬時にそう直感した。だから俺は綾小路に警告する。
「いいか綾小路、どこでその名前を聞いたのかは知らないが、柏恵美に関わるのはやめろ。あの女に関わるとロクなことはない。お前はもう罪を償っているわけなんだから、平和に生きろ」
「平和に、生きる?」
俺としては綾小路を励ます意味合いで言った言葉だったが、予想に反して綾小路の表情はみるみる曇っていった。
「はは、柳端くんはやっぱりアタシとは違うね。アタシがまだ平和に生きられると思ってくれてるんだ」
「なんだと?」
「アタシはもう、この先に希望なんてない。だったら、理想的な死に方を迎えたい。そう思ってるんだ」
「お前……! まさか柏に何かされたのか!?」
綾小路の言動は、柏の求める『理想的な殺され方』に近い。もしこいつが柏と出会っていて、何らかの影響を受けているのであれば、すぐに柏をこいつから引き離さなければならない。
「大丈夫だよ、柳端くん。アタシは柏って人とは会ったことないよ」
「なんだと? じゃあどこでその名前を聞いたんだ?」
「ヒャハッ、その答えが気になるかい、幸四郎?」
俺の疑問に答えたのは、いつの間にか廊下から教室に入ってきていた、下卑た笑い声を放つ女だった。
いや、俺はこいつを知っている。この笑い声に、露出度の高い服装、そして頭に乗せている眼鏡。こいつは……
「生花、か?」
「久しぶりだねえ、幸四郎」
俺の前に現れたのは、同じ中学に通っていた二学年上の先輩である、沢渡生花だった。
「お前、柏と繋がりがあったのか」
「ああ、ああ、当然さね。恵美嬢はアタシの親友だからねえ」
「じゃあ、綾小路に変なことを吹き込んだのもお前か? だったら迷惑だから今すぐやめろ。こんなヤツにも生きる権利はある」
「ヒャハハ、『やめろ』と来たかい。アタシは佳代嬢を『死体同盟』に勧誘しただけさね。『死体同盟』の理念を説明したのは、うちのリーダーさ」
「『死体同盟』だと? お前、そんな怪しげな集団とつるんでいるのか?」
「おやおや、心配してくれるのかい? やっぱり幸四郎は優しいねえ」
生花は頭に乗せた眼鏡をかけて、俺を舐めるように見つめてくる。
「ヒャハッ、こうして見ると、よりカッコよくなったじゃないか。さすがアタシの元カレだ」
「……ちっ」
そう、こいつの言う通り、俺は中学時代に沢渡生花と交際していた。たったの2ヶ月で別れることとなったが。
「沢渡さん、柳端くんと付き合ってたの?」
「そうさ。中一の頃の幸四郎は、それはそれは可愛くて……」
「とにかく! お前も綾小路も、その『死体同盟』とかいうヤツらとは関わるな。話を聞く限りロクな連中じゃない」
俺は忘れ物を鞄に入れて、さっさと帰ることにした。
「幸四郎、久しぶりに会ったことだし、ちょっと昔みたいに遊ばないかい?」
「遠慮しておく。お前の遊びにはうんざりだ」
「確かにね、アンタは中学の頃からアタシより棗ってヤツに夢中だったしね」
「生花!」
さすがに香車の名前を出されては我慢ならず、俺は生花の胸ぐらを掴んでいた。
「ヒャハッ、怒ったのかい? このまま押し倒してくれてもいいんだよ?」
「……俺は、前に進もうとしているんだ。過去で俺を縛り付けるな」
「棗ってヤツはもう過去の人かい。さびしいねえ。だけどアタシにはさ……」
生花は俺の顔を見て笑う。
「アンタが、死にたがっているように見えるよ」
「……!!」
その言葉を受けて、俺は思わず生花を突き飛ばしてしまった。
「……俺は、お前らとは違う」
「まあまあ、死にたいんならいつでもアタシたちに連絡取りなよ。『死体同盟はいつでも柳端幸四郎氏をお待ちしています』だそうだからさ」
「……」
俺は生花の言葉を無視し、誘惑を振り切るように教室を飛び出した。
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