【7年前 7月1日】
小さい頃から、他人が自分に何をしてほしいのかを探るのが得意だった。
「母さん、お財布探してるの? はい」
「え? ああ、そうなのよ! ハルちゃんよくわかったね!」
こんな感じで、僕が相手のしてほしいことを先回りしてやっておくと、決まって相手は喜んだ。感謝されることは素直に嬉しかったし、『自分が必要とされている』という実感があった。
いつしか、自分が何をすれば家族や友達が喜ぶのかを突き止めることが日課になった。相手は僕に何を求めているのか、僕に求められてる役割は何なのか。それを探っていけば、僕は誰かと打ち解けることができた。
そして、僕を一番求めてくれたのは、兄さん……弓長竜樹だった。
兄さんは何かと僕を頼ってくれたし、求めてくれた。僕が兄さんのために掃除したり頼まれた買い物をすれば、兄さんは喜んでくれたし、僕は兄さんが喜ぶ顔が好きだ。
だから……
「波瑠樹、ハルキ、はぁーるぅーきぃー」
「……っ!」
「うん、やっぱりお前が痛みを我慢する顔は笑えるな。最高だわ」
兄さんが僕を殴りながら、心の底から笑っている顔を見るのが好きだった。
「波瑠樹ぃー、お前は殴られるのが似合うようなあ。うん、本当に、心からそう思うよ」
「ご、ほっ……ほ、本当に?」
「本当だよ。だってお前って、殴られても反抗しないもんな。例えばさあ、中学の後輩には、先輩である僕に反抗的なヤツだっているわけさ。でもお前はそうじゃない。お前は殴られても、僕に文句言うわけでも、睨むわけでもない。ただただ、僕が殴りたい時にちゃんと殴られる。僕の役に立ってくれる。だから嬉しいよ」
「あ、に、兄さん……」
兄さんは僕に笑いかけてくれる。僕の存在が自分の役に立っていると言ってくれる。それが嬉しかった。僕に求められている役割をこなせているという事実をちゃんと伝えてくれた。
兄さんが僕に求めることは、抵抗せずに殴られること。それがわかっているなら僕は殴られればいい。僕は兄さんの喜ぶ顔が見たいし、殴られていれば兄さんは僕に感謝してくれる。
ただ、兄さんに殴られていることは周りの人たちには隠さないといけなかった。兄さんがそれを望んでいないからだ。だから僕は両親や友達の前では苦しんだり痛みを堪えるような顔は決して見せないように頑張った。
兄さんは僕が苦しむことを望んでいる。殴られた僕が必死に痛みを堪えて涙を流す姿を望んでいる。だったら僕はそれに応えなきゃ。兄さんが喜んでくれるんだから。
【1年前 2月25日 午後7時12分】
だけど僕は、少しずつ兄さんの理想から外れて行ってしまった。
「波瑠樹、母さんから聞いたぞ。M高校に受かったらしいな」
「うん……」
「そうか、よくやった。父さんも鼻が高いぞ。なんたってあのM高校だからな」
父さんは僕の合格を素直に喜んでくれる。そう、受かった僕以上に喜んでいた。僕の予想通りに。
M高校を受験したのは、合格すれば父さんと母さんが喜ぶと思ったからだ。父さんと母さんは僕が『他所の家に自慢できる息子』であることを望んでいたのはわかってた。『他所へ自慢できること』として一番わかりやすく手っ取り早いのは、M高校に進学することだった。それ以外にあそこを受験した理由はない。
父さんが喜ぶ顔を見れたのはいい。だけど、それ以上に大きな問題があった。
「部屋戻ってる」
「ん? おい、竜樹! せっかく波瑠樹が高校受かったんだから、お前も何かないのか?」
「ないよ」
兄さんだけは喜んでくれなかった。これも予想通りだ。
「まったくアイツは……たまに家に帰って来ても、弟の合格も祝えないのか」
「……僕は兄さんに求められないのかな?」
「気にするな、男兄弟ならこんな時期もある。ただ、家族の幸せも喜べないのはどうかと思うがな」
父さんはビールを飲みながら笑っているけど、僕にとっては大問題だ。“また”僕は、兄さんの思い通りになれなかったんだから。
僕が中学三年生に上がると同時に、兄さんはS市立大学に入学した。実家からも十分通える距離なのに、兄さんは大学入学が決まるとすぐに一人暮らしを始めた。
理由はわかってる。僕が兄さんを裏切ってしまっているからだ。
自分の部屋に戻ると、スマートフォンに兄さんからメッセージが届いていた。
『明日、お前も一緒に来い』
その文面の意味を瞬時に悟り、僕の心にはどうしようもないほどの罪悪感が広がっていった。
【1年前 2月26日 午後3時10分】
「がっ!! くうっ……」
兄さんが住んでいるアパートに行くと、部屋に入るなり床に正座させられ、顔面を蹴られた。
「波瑠樹、ハルキ、はぁーるぅーきぃー? お前さぁ、なんでM高校受かっちゃうかなあ? 僕が受からなかった高校になんで受かっちゃうかなあ?」
「それは……受かったら父さんが喜ぶだろうなって……」
「じゃあ、僕は喜んでいるように見えるのか?」
「……見えない、です」
そう、今の兄さんは喜んでない。僕を殴っても蹴っても、全く喜ぶ顔を見せてくれない。その顔に浮かぶのは、ただただ怒りの感情だけだ。
それが辛かった。僕が兄さんを苦しめてしまっていることが、兄さんが求める弟になれてないことが、兄さんが僕に求めるものが何かわからないのが何よりも辛かった。
「うん、じゃあさ。なんで波瑠樹は僕が喜ばないのにM高校受かっちゃうの? そのせいでまた僕は周りに言われるわけじゃん。『あれ? 弟さん優秀なんですね』って」
「い、言われる、かな……あぐっ!!」
「言われるんだよ! お前のせいで! お前が僕を立てないから! 弟であるお前が僕に気を遣わないから! いっつも僕がねえ、イヤな思いするわけだよ。わかるか? お前の行動が僕をイライラさせてるんだ!」
「ひうっ! ご、ごめんな、さい……」
「謝るんだったら最初からやるんじゃねえよボケが!」
兄さんは僕を殴っても昔のように喜んでくれない。いくら殴っても笑ってくれない。なんで、なんでだ。殴られたら笑ってくれたのに、蹴られたら感謝されたのに。父さんも母さんも先生も友達も、僕に求められたことをこなせば笑ってくれるのに、兄さんだけは笑ってくれなくなっちゃった。
「なあ、波瑠樹。お前がなんで殴られてるかわかるか? わからないよな? うん、お前ってそういうの全くわからないだろうからな」
「な、なんで……?」
思わず聞いてしまったけど、その質問こそが僕の最大の過ちだった。
「お前のことなんて、誰も好きじゃないからだよ」
その時、僕は悟ってしまった。
そうだったんだ。兄さんは僕のことが好きじゃなかった。役に立たない僕のことなんて好きじゃなかった。だったらもっと役に立たないと。兄さんの役に立つには、多くの人の役に立たないと。
兄さんが僕に求めていることがわからないなら、わかるまで試せばいい。兄さんが僕に求める役割は何なのか、多くの人の役に立って探せばいい。
だからそのための手段が欲しかった。多くの人の役に立てる……いや、それじゃ足りない。
『どんな人間の理想の姿にもなれる』。僕がたどり着くべきところはそこだ。
そうすれば兄さんは僕を求めてくれる。兄さんは僕を必要としてくれるし、僕は幸せになれる。
「やあいらっしゃい、君が弓長波瑠樹くんだね」
そしてそのための手段を……唐沢先生が教えてくれたんだ。
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