「おねえちゃん! ごめん……ごめんなさい……! わたし……ううっ……ずっと……」
「全く、本当に世話の焼ける妹だよ。だけど少しは、大人になったみたいだね」
夕飛さんの胸の中で泣いている朝飛を見て、息を呑んだ。
棗朝飛は間違いなく『狩る側の存在』だった。相手の命をためらいなく奪い、蹂躙することを楽しむ存在だった。だからエミに近づけるわけにはいかなかったし、エミを守るために私の命を差し出すしかないとも思った。
だけど夕飛さんは、その『狩る側の存在』を止めた。力づくで止めたんじゃない。この世界から排除したわけでもない。思いとどまらせたんだ。それをやり遂げた。
……もし、私があの時。棗香車に対してそれが出来ていたら。もっと、私が上手くやれていたら。
「あー、あーあーあー!! なーにをしてくれてるんですかねえ、夕飛さーん!!」
怒りを孕んだその声で、私の頭が瞬時に切り替わる。今は過去の行動を後悔している場合じゃない。
「残念だったね、空木晴天。朝飛の心はこの通り返してもらったわ。アンタの『希望』は途絶えたかしら?」
「困るんですよねえ、あなたはいつもいつもボクの思い通りにならない人だなあ! 全く、告白しても了承してくれないし、ボクの邪魔ばっかりしてくれますねえ!」
空木晴天の顔は、それまでの余裕のあるものではなかった。明らかに苛立っている人間のそれだ。おそらくはさっきの曇天さんの発言が、なにかの核心に触れたのかもしれない。
「兄さん、もう諦めてくれませんか……ぐっ!」
「諦める? それは『希望』を捨てろって言うのかい? どんてんくんは、ボクにそれをしろと?」
「ぐ、ううううっ!!」
晴天の手が尚も曇天さんの首を締め上げる。ここで私がやるべきことは……
「待ちなさい、空木晴天。アンタがこれ以上曇天さんを傷つけるなら、警察を呼ぶことになるわよ」
そう、警察を呼んでしまうこと。既にエミはここから脱出してるし、朝飛も沢渡も無効化した。だったら警察を呼んだとしても、エミの身に危険が及ぶことはない。
「あー、あーあーあー!! あーもう!! 黛さん、なーんで君みたいなのが、柏さんの前に現れちゃったかなあ!」
「そんなの知らないわよ。エミの方から私に声をかけてきたんだし。だけど、アンタの『希望』は私からしてもエミからしても受け入れられないものである以上、アンタと私は敵対するしかない」
「あーはい、そうですか! だったら、今日はもう退散しますかね」
そう言って、晴天は曇天さんから手を離し、玄関から外に出た。
……いや待って。外に出た?
「……まずい!」
ひとつの可能性に思い当たった私は、晴天の後を追って外に出る。
エミはさっき、樫添さんに連れられて別荘の奥の部屋に行った。その後、樫添さんはどうするか。当然、私の意図を汲んで、別荘の窓か裏口を見つけてそこからエミと一緒に別荘を出るはずだ。
もし、エミたちがまだ別荘の近くにいるのだとしたら。
外の道路に出ると、既に辺りは暗くなっていた。そして私の視線の先に、空木晴天がいる。
そしてそのさらに奥に、エミが晴天に対峙する形で立っていた。
「エミ!」
呼びかけたけど、エミは晴天を見据えたまま逃げようとしない。
「柏ちゃん! 逃げるよ!」
彼女の腕を樫添さんが引っぱっている。それでもエミは動こうとしなかった。
「あーあーあー、柏さん。まだここにいてくれたんだ。ボクの話を聞いてくれる気になったのかなあ?」
私とエミに挟まれる形になった晴天だったが、背後の私を気にしている様子はない。やはりこの男も、エミに執着している。棗や曇天さんとは違った形で。
「ルリ。それに樫添くん。残念だが、今回ばかりは君たちの命令は聞けない。獲物として恥ずべき行為だが……」
エミは晴天に近づいていく。
「この男だけは、私が戦わなければならない相手だ」
はっきりと口にした。あのエミが、『戦わなければならない』と。
初めて会った時から、エミは自分を『獲物』と定義し、一方的に狩られる存在であると語っていた。だけど今、彼女は空木晴天と戦うと言っている。それがどんなに彼女の生き方と外れているか、私にはわかる。
自分の生き方から外れていたとしても、空木晴天は柏恵美自身が『絶望』に身を浸すために立ち向かわなければならない『敵』なのだ。
「なるほどねえ、でも柏さんはボクをどうするの?」
「どうもしない。そもそも私が君をどうにかできるはずもない。私が何を言おうと、君は『希望』に縋り続けるのだろう?」
「わかってるじゃないか。なら……」
「だが私は、君の本当の欲望を見ていない」
エミの言葉が、晴天の動きを止めた。
「君の目的がこの私につまらない『希望』を抱かせることであるとは聞いた。だがそれは、君が本来抱いていた欲望でも願望でもないはずだ。君の弟君が自らの生きづらさを解消するために私を求めたように、君が私を否定するのも、君の本当の欲望に起因するものであるはずなのだよ」
「……」
確かにエミの言う通り、曇天さんは晴天にはもっと別の『本来の願い』があると指摘していた。おそらくそれが、こいつがエミに執着する理由に繋がっている。
「さあ、見せてみたまえ、空木晴天。君が心の底に抱いているものが私の心を動かすほど強く大きいならば、この場で君に屈服すらしようではないか」
だからエミはその『本来の願い』を暴こうとしている。自分の邪魔をするのであれば、その心の底にある欲望をぶつけて来いと言っているんだ。
その欲望が自分を屈服させるほど強いのであれば、エミは喜んで屈するだろう。
容赦なく蹂躙されることを喜ぶ『獲物』である、柏恵美ならそうする。彼女はそういう存在だ。
「……あーあーあー、本当に柏さんはボクをイライラさせるよねえ。君は本当に『希望』を抱いてくれない」
ため息をついた晴天の口から、絞り出すような低い声が発せられる。
「この世界は、『希望』に溢れてる。だってそうだろう? ボクが頑張れば頑張るほど、新たな発見があって、ボクが知れば知るほど、新たな可能性が見つかるんだ」
「ふむ。確かに君はあの病院で初めて会った時もそんなことを言っていたね」
「そうなんだよ。ボクはこの世界が本当に好きなんだ。ボクが努力を重ねれば、周りがその成果を喜んでくれる。ボクが学びを得れば、ボク自身が新たな『希望』を見い出せる。本当に楽しかったよ。この世界に存在する、ありとあらゆる『希望』を味わい尽くしたいと思ったよ。だって知れば知るほどまた新たな『希望』が見えてくるんだ。楽しくて仕方なかったさ。だけどさあ……」
その時、晴天の左手が力強く握りしめられた。
「ひとつだけ、この世界にはどうあっても消えてくれない『絶望』があるんだよねえ……」
晴天の声が先ほどと同じ、怒りを孕んだものに変わっていく。どうやら私たちは核心に近づいているようだ。
「ボクはさあ、ずっとはこの世界にいられないんだよ」
「は?」
ずっとはこの世界にいられない? そんなの当たり前じゃないか。私もエミも、そして誰もかも、いつかは必ず……
え? もしかして、コイツ……
「腹が立つよねえ……ボクはこんなに楽しく『希望』に溢れた世界で生きていたいのに、この世界にいられる時間には制限があるんだよねえ! 知れば知るほど『希望』を感じ、頑張れば頑張るほど更なる『希望』が見えてくる……だけど『死』という『絶望』だけはボクの前からどうあっても消えてくれない!」
「ア、アンタ、まさかそれが……」
「ずっとこの世界で生きていたかったさ……だけどねえ、学べば学ぶほど知ってしまうんだ……あと50年以内じゃ、人間が『死』を克服する手段は出てこないってねえ!」
「なによ、それ……」
まさか、それがコイツの『本来の願い』だっていうのか。こんな、誰もが一度は考えても、すぐにそれは無理だと考えてしまうようなことが……
「誰だって死にたくない。そしてボクはとりわけそうなんだよ。こんな『希望』に溢れた世界からいつかは去らないといけないなんて、これ以上に恐ろしいことはないよ!」
「……ふむ」
エミは晴天の叫びに対し、かすかに声を出した。
「なのにねえ、どうしてだろう? ボクの周りの人は簡単に『死にたい』なんて口にする! ボクがこんなに死にたくないのに、子供の頃も、医者になってからも、何の努力もしていないような人たちが、まるで『死』を恐れていないかのようなことを言うんだよ!」
「……」
「どんてんくんだってそうだ。彼はボクの前で『死にたい』なんて言ったんだ。許せないよねえ……ボクより努力しているわけでも成果を上げているわけでもない人間たちが、ボクが抱く苦しみも『絶望』も克服しちゃってるんだ。こんなバカなことがあるかって、そう思ったよ」
「……なるほどね、見えてきたよ」
エミの顔は、さっきより曇っていた。
「つまり、君が私に『希望』を抱かせたいというのは……殺されることを望む私への苛立ちか」
「そうだよ! 君はボクが今まで見たあらゆる人間の中でも、一番許せない子だよ! 君は死ぬことを恐れるどころか、それを望んでいる! そんなの認められるわけがないじゃないか……ボクが恐れた『絶望』を、何の努力もしてない君が克服しちゃってるなんてさあ!」
「……」
「君さえ『希望』に縋ってくれれば、ボクはこれから会う人すべてに『希望』を抱かせられるんだ……自分から『死』を選ぶ人間なんてものが、この世に存在するわけがない、ボクがそれを証明してやるんだよ!」
こんな、ことなのか。
空木晴天がエミに執着していた理由。つまりそれは……
自分が恐れている『死』を克服しているように見えるエミへの苛立ちだったというのか。
そんなことのために、あらゆる人間を巻き込んだというのか。
「……ふう」
晴天の叫びに対して、エミは小さく息を吐いた。
「全く、どこまでもつまらない男だよ君は。この期に及んで、なおも偽りを吐くとはね」
「なんだって?」
「やはり君の言葉では私の心を動かすことはできなかったよ。さて、確認も済んだことだし……」
エミは晴天に近づいていく。
「決着をつけるとしようか」
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