【7月30日 午前8時30分】
「柏……!?」
感情を消したような表情で楢崎の腕にしがみつくその姿は、柏恵美を知ってる人間なら誰もが驚く光景だろう。
コイツが自分の身に迫る危機を喜ばないはずがない。いや、それ以上にこの女がここまで無表情なのを見たことがない。だが現実に目の前にいる柏は唐沢たちに攫われてここにいるというのに、いつもの薄笑いを浮かべることなく楢崎にしがみついている。
「お前、どうしてここに……」
思わず声をかけたが、柏は俺を見ても表情を変えずに言い放った。
「……おにいちゃんは、だれ?」
「なに?」
「クロエおねえちゃんのお知り合い、ですか? はじめまして、かしわえみ、です」
「何を言ってる? お前、俺のことを覚えてないのか?」
「……? えーと、あの、おにいちゃんもクロエおねえちゃんと一緒に、私を連れて行ってくれるひと、ですか?」
なんだこれは? 柏と話しているはずなのに、まるで柏と会話している気がしない。全く別の人間と話しているような……
まさかこれが、『本来の柏恵美』だとでもいうのか? 俺たちと出会う前の、『絶望』を求める前の、本来の姿だというのか?
「おかえりクロエちゃん。無事に柏さんを迎えられてうれしいよ」
「ここからはどうします? 私としてはエミちゃんを早く連れて行ってあげたいんですけど」
「そうだねえ、ちょっと柏さんと話をさせてもらってもいい?」
唐沢は返事を待たずに柏の前に屈んで視線を合わせた。
「こんにちは柏さん。私のことがわかるかい?」
「えーと、こんにちは。すみません、わからないです」
「うん、そうかそうかよかった。それじゃ、霧人先生……斧寺霧人さんのことは?」
「確か……クロエおねえちゃんと一緒にいたおじさん、ですか?」
「そうだよ。それでそのおじさんが私のことをどう呼んでいたかは知ってる?」
「え? えーと、ごめんなさい。わからないです」
「うん、そうだよね」
唐沢は満足そうに頷いた後、もう柏には興味を失ったかのように木之内に向き直った。
「さてと、やぐらくん。柏さんも来てくれたし、これから最終段階に入ろうか。私と一緒に一階の部屋に来てよ」
「わかりました」
「クロエちゃんは柏さんと一緒にここにいて。後で連絡するから」
「はい」
「おい、柏は来たんだから俺と生花はもう帰っていいだろ。コイツにも俺たちに手を出すなと言ってから行け」
「帰りたいなら帰っていいよ。沢渡さんがどこにいるかは知らないけどね」
「なんだと?」
「知りたいならクロエちゃんに聞きなよ。それじゃ私はもう行くね」
「おい、待て!」
質問に答える前に唐沢たちは出て行ってしまった。
さて、どうするか。携帯電話は奪われたままだし、どうにかして生花と合流しないと始まらない。さすがにこのビルの中にはいるだろう。問題は……
「さあエミちゃん。私と一緒に遊んでましょうか」
楢崎が俺を見逃してくれるかどうかだ。
コイツの前では黛も朝飛さんも無力化された。いくらなんでも腕力では俺の方が上だろうが、コイツの動きは相手を制圧するのに慣れている人間のそれだ。ここでまた縛られでもしたら目も当てられない。
そうなる前に俺がコイツを襲撃して生花の居場所を吐かせるか? 黛は奇襲を受けたから負けただけで、俺の方から仕掛ければ勝てるかもしれない。
楢崎は俺に背を向けている。今なら……
「ダメですよ」
だがそんな俺の目論見を見透かしたかのように、楢崎はこちらを見ないまま俺の腕を掴んでいた。
「そんなわかりやすく狙っちゃダメです。もっと私の想像を超えてくれないと」
「ぐ、ううっ! お、お前……!」
「ああ、いいですね。私のことが嫌いですか? 香車くんみたいに私を嫌ってくれますか? あの子が今もここにいてくれたら、会った時と同じく、私を殺しに来てくれるんでしょうねえ」
「なんだと……!?」
「香車くんって、私のことが本当に本当に嫌いだったんですよ。まあ、そうですよね。あの子にとって私は『一方的に殺せない人』でしたし、エミちゃんの次に最優先で殺さないといけない相手でしたからね」
そういえば昨日も楢崎は言っていた、『香車は初めから自分を嫌っていた』と。しかし香車は表立って他人を嫌うようなヤツじゃない。そこには必ず理由があるはずだ。
「……香車はなんでお前を殺そうとしていたんだ?」
「私のことが邪魔だったからですよ。だってそうじゃないですか、香車くんからしたら自分の本性を知られた相手なんて生かしておきたくないでしょうし。それにあの子が私を殺しに来なかったら……」
楢崎はその顔を恐怖に歪める。
「柳端くんにするつもりでしたし」
「……は?」
俺にするつもりだった? 何を?
「だから、香車くんが私を殺すつもりにならないなら、柳端くんに私を怯えさせてもらいますって言ったんですよ」
「おい、まさかお前……」
「そうしたら香車くん、『どうやら僕はあなたの存在を許せそうにありません』って言ってエミちゃんの後に私を殺しに来てくれるって約束してくれたんですよ。ああ、嬉しかったなあ。これで私はずっと香車くんに狙われて、ずっと不安になれるんだなあって感激しましたよ」
その時、俺は思いあたってしまった。
もしコイツが俺をターゲットにしていたら、コイツは二年前の時点で俺の前に現れていたはずだ。そうなれば何が起こったか。香車はコイツの何が許せなかったのか。
仮にコイツが俺の前に現れたら、香車の目を自分に向けさせるために全ての事情を俺に話していたかもしれない。
香車の本性が正真正銘の『狩る側の存在』であることを話していたかもしれない。
あの時の俺が、コイツの言葉を真に受けるとは思えない。だけど香車にとっては万が一にでも避けたい事態だったのは間違いない。
『僕は君と友達でいたかった。君と楽しい時間を過ごしたかった』
香車は俺に自分の本性を隠したまま、一緒の時間を過ごしたかったと言っていたからだ。
「……ふざけるな。要はお前は身勝手な理由で香車を煽って、後戻りできない道を進ませただけだろうが!」
「そうとも言えますね。でも、それが私の望みなんですよ。怖い人に囲まれて、何も期待せずに怖がりたい。柳端くんはそうじゃないんですか? 私に怒りをぶつけて、嫌っていたいんじゃないんですか?」
「お前の身勝手に他人を巻き込むな! 俺も香車も生花も! お前らのいざこざとは関係なかっただろうが!」
だが、その時。
「巻き込んで何が悪いの?」
楢崎の声がいつもより低く、大きなものに変わったかと思うと、俺の腕を掴む力が強くなる。
「ぐ、うう!」
「いつもそう。私の前に現れる人はいつもそう。勝手に私に期待して、勝手に私に失望する。私に対して勝手なイメージを抱いて私がそのイメージと違うと、すぐに失望する。パパもそうだった」
「お前の親父……白樺か……?」
「私に役者としての才能がないって確信したら、パパは私のことをほったらかしにしちゃいましたよ。それだったら最初から私を嫌っていればいいんです。何も期待せず、嫌っていればいいんです」
膝蹴りが俺の腹に突き刺さり、一瞬だが息が止まった。
「が、はっ!」
「エミちゃんだけですよ、私のことを安心させてくれる人は。ねえエミちゃん?」
「え? うん。だってわたし、クロエおねえちゃんのおかげでお父さんとお話しできるようになったから……」
「そうでしょうね。あなただけは私を安心させる。あなただけは私を求めてしまう」
楢崎は柏に背を向け、俺に顔を寄せて囁く。
「だからエミちゃんだけは確実に私の前から消えてもらわないと」
そう、か……
コイツは最初から……
「お前が唐沢に協力していたのは……」
「それは想像にお任せしますよ」
その時、携帯電話の着信音が鳴り響いた。俺のじゃない。これは……
「はい。え? こっちに来るんですか? わかりました」
楢崎は通話を終えて、柏の手を取る。
「エミちゃん、それじゃ私と一緒に行きましょうか」
「うん!」
柏は楽しそうに笑いながら楢崎と出て行くが、俺の予想通りだとしたら笑い事じゃない。
このままだと、柏は殺される。
「く、そ……とにかく外に出ないと……」
こうなったら生花を探すのは後だ、まずはこのビルを出て黛に連絡しなければ。
よろめく身体をなんとか動かして、部屋のドアを開けた時だった。
「……」
「っ!? お前は!?」
目の前に現れた人物に気を取られた直後、俺の視界は闇に包まれた。
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