「医大生? 君が?」
「そーうですよ。何かおかしいですか?」
「い、いや……」
俺のイメージする医療関係者は、なんというかもっと真面目さというか、真剣さがある人間だ。
しかし目の前にいる、空木と名乗った青年はなぜか真面目さを感じられない。もっと言うと、緊張感がない。
その緊張感のなさと緩い雰囲気が、どうにも病院という場所とマッチしていなかった。
「それで、その医大生の空木晴天くんが、俺になんの用なんだ?」
「そ、そうだ。勝手に入ってきて、一体なんの用なんだね!?」
医者が空木を咎めるが、当の本人はまるで気にしていないように俺に話しかけた。
「じーつはですね。さっきの女の子についてちょっと聞きたいんですよ。たまたま話が聞こえてきてたんで」
「盗み聞きしていたことを堂々と告白するなんて、大した男だな。そんなヤツに俺が言うことなんてなにもないよ」
「あーあーあー、そう言わないでくださいよ。ボクはあの子をまともな道に戻したくて話してるんですから」
「なに?」
たまたま盗み聞きしていただけの男が、恵美ちゃんを助けたいと言うのか。しかしそんな話を鵜呑みにするほど、俺はマヌケじゃないつもりだ。
そう思っていると、医者も俺と同じ意見だったのか、身を乗り出して空木の前に立ちはだかった。
「君がどこまで話を聞いていたのか知らないが、あの子は今、ある事情で精神が不安定な状態だ。医者ならまだしも、まだ学生である君がどうにかできることじゃない。そんなにあの子を助けたいなら、医師免許を取ってからにするんだな」
それはその通りだ。俺もこんなわけのわからない青年をこの件に関わらせたくはない。
そもそも俺も、あの子にとっては他人でしかない。『面倒を見ろ』とは言われたが、それはあくまで本人の希望であって、俺がそれをできるかどうかは別問題だ。
「あーあーあー、あの子は『絶望を求めている』って言ってましたよね? ボクとしてはそれがどうしても許せないんですよね」
「許せない、だと?」
「そーうじゃないですか。あんな小さな女の子が『絶望』なんてものを求めなきゃいけない状況にあった。そんな現実が、どうして許せるって言うんですか?」
「……」
言われてみれば、そうかもしれない。
恵美ちゃんは確かに『絶望を求めている』と言った。そこには何らかの理由があるはずだ。恵美ちゃんに親父の意識が流れ込んだなんて話よりも、今までの恵美ちゃんが置かれていた境遇が、彼女にそう思わせたと考えるのが自然だ。
「つまり君も、今のあの子が正常な状態じゃないと判断してるんだな?」
「そーうですよ。生きている以上、『希望』を持っていた方が幸せに決まってるじゃないですか」
確かに、言ってることは間違ってない。医者を志しているだけあって、人を救いたいと言うのは当然ではある。
だが、なぜか彼の言葉にはどこまでも真剣みが感じられない気がした。どこか借り物の言葉のような、安っぽさがあった。
もしかしたら彼の目的は別にあるのかもしれない。ただ、そうだとしてもこの空木晴天という男が恵美ちゃんを正常な状態に戻したいという意思だけは本物に思えた。
「だとしても、君に何ができる? 君はまだ医者じゃなくてただの学生なんだろ?」
「確かに今のボクには何もできません。ですが、ここに約束します」
そう言って、空木は俺に名刺を差し出した。
「もし、あなたがあの柏恵美ちゃんを引き取るなら、ボクが全面的に援助しますよ」
「は?」
「こーれからボクは医者になります。そうしたらボクはあの子の診療を必ず担当します。連絡をしてくれれば、どの患者よりも優先してあの子を診療します。ボクはそうしたいと思ってるんですよ」
「なんだと?」
この男が、俺を全面的に援助する? 今会ったばかりの人間が、そんなことを言うのか?
一方で、医者は怒りの表情で空木を叱責した。
「なんのつもりか知らないが、たとえ思い付きでも、そんなことを言うもんじゃない。どの患者よりも優先して診療するなんてことは、医者の精神から外れているぞ」
「あーあーあー、えーと、先生のお名前はなんでしたっけ?」
「町田だ」
「じゃあ町田先生。ボクは学校で教えられたんですよ。医師であれば、どの患者を優先するか選ばなければならない時があるって。僕はその教えを守ったまでですよ」
「そうだ。緊急時には、医師は助かる命かどうかを見極めなければならない。言うなれば、命を選ばなければならない時がある。だが先ほど君が言った言葉は、意味もなく特定の患者を優遇するというものだ。それは医者の精神じゃない」
「医者の精神じゃありませんか。確かにそーうかもしれませんね」
空木は町田と名乗った医者の言葉にはあまり興味がなかったのか、つまらなそうに目を逸らした。
「ま、ご連絡をお待ちしてますよ、斧寺さん。たとえ医者じゃなかったとしても、ボクはあの子を助けたいと思ってるんですから」
そう言って、空木は俺に笑いかけて部屋を出て行った。
扉が閉まると同時に、町田が頭を下げる。
「申し訳ありません、斧寺さん。おかしな学生が失礼を働いてしまいました」
「あ、いえ。大丈夫ですよ。それより、恵美ちゃんはしばらくこの病院にいるということでよろしいんですね」
「先ほど申し上げた通り、あの子の精神状態はまだ不安定だと思われます。ただ、退院した後の身元引受人については未定の状態です。このままいくと、養護施設で面倒を見てもらうことになると思いますが……」
「……」
俺はどうしても気になっていた。
柏恵美。あの子の求める『絶望』とはなんなのか。そして、親父が求めていた『絶望』とはなんだったのか。
もし、あの子と接することでそれがわかるとなれば……
数日後。
親父の葬儀は実家近くの葬儀屋によって行われた。喪主は長男である俺で、姉は葬儀に顔を出すどころかお悔やみの電報を打つこともなかった。
だが代わりに、義兄である陽泉と姉の子である小霧は葬儀に参列した。小霧はまだ三歳であり、親父の死をきちんと認識しているかどうかはわからなかったが、二度と親父には会えないということを悟っているようには見えた。
棺に入れられた親父が火葬され、遺骨だけが残った時、俺はようやく親父が死んだと実感した。
わかっていたことではあったが、人はいつかは死ぬ。しかし俺は親父の死を看取るものだと思っていた。少なくとも、部下に裏切られて殉職するなんて終わりを迎えるなんてことを納得するはずがなかった。
『絶望こそが人を救うかもしれない』と親父は言った。だったら親父は最期に救われたのか?
「……そんなわけねえだろ!」
思わず叫んでしまったが、俺の感情は止まらなかった。
「これでいいわけねえだろ! こんな終わりでいいわけねえだろ! 親父……! もっと生きていられたはずだろうがよ!」
親父の遺骨の前で感情を爆発させる俺を咎める人間はいなかった。
親父はもっと生きていたかったはずだ。自分が死から逃れられないという『絶望』に包まれた親父は苦しかったはずだ。現に親父の死という『絶望』に直面した俺には悲しみと憤りしかない。たとえ犯人を殺したとしても、この感情は晴らせない。
こんなものが人を救うはずがない。こんなものが……
「私は満足して終わりを迎えたのだよ、識霧」
俺の後ろから聞こえた声は、子供のような高い声だった。それでいて、芝居がかった不自然な口調。これは……
振り返った俺の目に映ったのは、黒い子供用のワンピースを着た恵美ちゃんだった。
「ああ、すまないね。またも頭に浮かんだ言葉を無意識に発してしまったようだ」
「恵美ちゃん……今、なんて……?」
「ん? 今のは私の言葉ではないよ。ああ、今はこう言った方がいいのかね? 『ごめんなさい、なんか思いついたことを言っちゃったの!』」
「そうじゃない。親父は……この終わり方で満足していたのか?」
葬儀に参列している人間たちが不自然なことを言う恵美ちゃんを見てヒソヒソと話しているが、俺には他に気にするべきことがある。
もし。もし今の恵美ちゃんの言葉が親父の言葉なのだとしたら。親父は自分の死を受け入れていたというのか。
「ふむ、私は君のお父上ではないのでね。正確なことはわからないが……斧寺霧人は最期にこう言っていた」
そして、恵美ちゃんはまたもあの妖艶な微笑みを浮かべる。
「もし私の意思が続くのであれば、柏恵美を容赦ない絶望で救いたい、と」
――親父は最期に、恵美ちゃんを救いたいと思っていた。彼女を助けるために、命を落とした。
『絶望』が人を救う。親父は最期の時までその考えを捨てなかった。それどころか、自分の最期が満足のいくものだと思っていた。
俺にはまだ親父の考えはわからない。だけど、恵美ちゃんはわかっているのかもしれない。
なら、俺は……
「なあ、恵美ちゃん」
「ん、なあに?」
「一緒に、暮らさないか?」
親父は恵美ちゃんを助けたいと言っていた。恵美ちゃんを助けることが、親父を理解することにつながるかもしれなかった。
そして俺の申し出に、彼女はこう答えた。
「その申し出を待っていた。よろしく頼むよ、斧寺くん」
恵美ちゃんが差し出した右手を両手で握った時、俺と彼女は疑似的な親子となった。
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