――何が起こった?
起き上がった柏先輩は、なぜか俺のことを『小霧』と呼んだり、母さんや識霧さんの名前を出した。口調は柏先輩のものだったが、まるで別人が乗り移ったかのようだった。
いや、俺は柏先輩以外にああいう口調で話す人物を一人だけ知っていた。だけどその人物は既にこの世にはいない。
とにかく、意識を取り戻した柏先輩が、父さんを嘲るようなことを言っていたのはわかった。そしてそんな柏先輩に対し、父さんは憤怒の形相を浮かべて俺が止める暇も無く、突っ込んでいった。
そして……柏先輩に向かっていったはずの父さんは、突如として現れた猛スピードの車にはね飛ばされた。
父さんをはね飛ばした車はライトも点けずに、まるで狙い澄ましたかのように現れた。その後、ブレーキをかけることもなく、地面に倒れた父さんをタイヤが踏みつぶし、数メートル引きずっていき、そこでようやく車が止まった。
「え、え……?」
あまりに突然のことで、俺も黛さんも理解が追いついていない。しばらく車をボーッと眺めていたが、一分ほど後に、ようやく事態が動き出した。
「エミ!」
黛さんの叫びで、俺は我に帰った。見ると、先ほどまで父さんと話していた柏先輩が再び気を失ったかのように倒れている。黛さんが呼吸や脈を確認しているが、特に異常はなかったようでほっと一息をついていた。
俺はそれを確認すると、次は父さんの様子を確かめに車に走った。
「うっ……」
車の傍らで倒れる父さんは、全身から血を流し、手足があらぬ方向に曲がり、そして……
タイヤに顔を潰され……もう、息をしている様子もなかった。
「……」
何も言えない。目の前の状況に対して、どういう感情を抱いて良いのかわからない。だが、そんな俺に対して、更なる現実が突きつけられた。
父さんを轢いた車から、運転手が降りてくる。
いや、降りてくるというより、ドアを開けた直後に崩れ落ちるように車から出てきた。
車の運転手は――識霧さんは、怪我をした身体を地面に横たえていた。
「無事、だったか? 小霧」
識霧さんは自分が怪我をしているのにも関わらず、俺の無事を確認してきた。状況から考えても、識霧さんは俺たちを助けるために、車を走らせたのは明らかだった。
そう、識霧さんの行動がなければ、柏先輩や黛さん、柳端、それに閂先輩が危なかった。それは間違いない。
だけど、だけど俺は、どうしても黙っていられなかった。
「どうしてですか!?」
どうして、こんなことをしたのだと。どうして、父さんをはねたのだと。
どうして、父さんを殺したのだと。
「仕方なかった……こうするしか、なかった。そうでないと、お前も、恵美も、死んでしまうと思った。だから、こうした」
「だとしても! もっと、あったじゃないですか! 父さんが、死ぬことはなかったじゃないですか!」
「……そうだな、お前には言っておこう」
識霧さんは俺に口から血を流しながら、俺を見る。
「俺は、陽泉が許せなかった」
それは、初めて聞く識霧さんの憎しみだった。
「人の親でありながら、息子の人生を壊していく陽泉がずっと許せなかった。俺がなりたくてもなれない、人の親という立場にありながら、お前の人生を壊していくあいつが許せなかった……」
「……それが、理由ですか?」
「そうだ。ひどい叔父さんだよな。個人的な怨みを捨てきれないんだからな……」
識霧さんの本音を聞きながら、俺は涙を流した。
確かに識霧さんがこうしなかったら、みんなが死んでいたかもしれない。俺の心も壊れていたのかもしれない。だけど、だけど。
だけど、もし。識霧さんがこうしなくても、父さんが警察に自首してくれたのだとしたら。父さんが、本当の愛に気づいてくれたのだとしたら。
いや、違う。これは俺の願望だ。父さんは俺を愛していなかったし、愛を理由に暴力を振るう人間だった。しかし、そうだとしても。
俺は……父さんに、愛されたかった。父さんに、成長したのだと認められたかった。
その後。
樫添先輩が通報したことで、駐車場にはすぐに警察が来た。怪我をした識霧さんや柳端や柏先輩、それに閂先輩も救急車で運ばれていった。
識霧さんは重傷だったが、柳端は左腕の骨が折れただけで済んだらしい。閂先輩や柏先輩も、命には別状なかった。
しかし、識霧さんは父さんを故意に車ではねたと断定され、逮捕されることとなった。俺は警察で、識霧さんの行動がなければ友人が死んでいたかもしれないと証言したが、それでも罪には問われるかもしれなかった。
そして……最大の問題があった。
「陽泉さん……陽泉さぁん!」
父さんの死を知った母さんは、激しく取り乱し、さらに犯人が識霧さんだと知ると『殺してやる』と叫んだ。
俺は一晩中母さんの手を握り、必死に宥めた。俺はここにいると何度も呼びかけた。それでも母さんは憔悴した様子で、父さんの名前を何度も呟いていた。
俺は一週間ほど学校を休み、ずっと母さんの面倒を見ることにした。閂先輩の見舞いにも行かず、母さんが落ち着きを取り戻すのを待った。
そして、一週間後。
俺は電話で閂先輩に自宅に来てもらうように頼み、母さんにもそのことを伝えた。連絡をして一時間ほどで、先輩は来てくれた。
「……お招きいただきありがとうございます、萱愛氏」
閂先輩はいつもの薄笑いを浮かべることなく、真剣な表情だった。俺は先輩に横に座ってもらい、母さんと向かい合う。
「こ、こーちゃん。お友達が来てくれたのはいいことだけど、母さんに話したいことってなんなの?」
母さんは戸惑いながらも、閂先輩を追い返すことはしなかった。充分落ち着いたことを確認して、俺は母さんに切り出す。
「母さん、俺は高校を卒業したら、まずは大学には行かずに一旦就職しようと思う。心配しなくても、スクールカウンセラーになるって夢は捨ててない」
「な、何を言ってるの? こーちゃん」
「私も初耳ですがねえ、萱愛氏」
そう、これが俺の出した結論だった。
まず、母さんがこれだけ弱っている中で、大学に進学するのは難しい。例え奨学金を借りたとしても、母さんが今まで通りに働けなければ、生活するのは無理だろう。
「母さん、もう一つ聞いて欲しいことがあるんだ」
「え? 今度はなに?」
「俺は……俺は今、この人と、閂香奈芽さんと交際しています」
「は……?」
これがこの場に閂先輩を招いた理由。先輩を俺の恋人であると、母さんにきちんと紹介することだ。
「こーちゃん。あのさ、今はそんな時じゃないでしょ? 父さんが亡くなって、まだ一週間くらいしか経ってないのよ? それなのに、交際なんて言ってる場合じゃないでしょ?」
「いや、俺は今だからこそ、母さんに紹介するべきだと思ったんだ。今から一週間前にあった出来事を、全部話すために、必要なことなんだ」
「必要なこと?」
そして俺は、母さんに一週間前の出来事を話した。
父さんが識霧さんや柳端、閂先輩を傷つけたこと。柏先輩を殺そうとしたこと。
そして……俺を愛していなかったこと。その全てを。
「……陽泉さんが、そんなことを?」
「萱愛氏は、嘘は言っておりませんよ」
「で、でも! 陽泉さんはこーちゃんを守るためにそうしてたんでしょ? じゃあこーちゃんを愛していなかったなんてことは……」
「いや、父さんが愛していたのは、自分自身だけだった。俺は、そう確信してる」
「そんな……」
俯いて涙を流す母さんを見て心が痛むが、俺はこの事実から逃げるわけにはいかなかった。
「母さん、だから今日、閂先輩に来てもらったんだ」
「え?」
「俺、ここで宣言するよ」
閂先輩は首を傾げているが、俺は意を決する。
「俺は将来、閂香奈芽さんと結婚する。そして、本当の愛を育んで、母さんも閂先輩も幸せにする。そう誓う」
その言葉で、閂先輩は珍しく顔を真っ赤にして、左目を見開いていた。母さんも口を開けて、信じられないと言った様子で俺を見る。
「こ、こーちゃん! 何言ってるの!? まだ高校生なのに、そんな……」
「もう決めたんだ。俺は父さんに愛されなかった。それでも俺は母さんや閂先輩を愛する。母さんが父さんを失った分、俺が必ず幸せにする」
「か、かやまな、しぃ!? あ、あの、これは、その、プロポーズ、というもの、でしょうか!?」
閂先輩はまるで別人のようにたどたどしい口調で俺に質問したが、それに俺はこう返した。
「先輩、これがあの時の質問の答えです」
「え?」
「俺は閂先輩を選びます。そう言っているんです」
「……!!」
その言葉を聞いた閂先輩は、顔を俯かせて何かをブツブツ言っていた。
「……こんなの、ずるい……」
何を言っているのかは聞こえなかったが、俺は母さんに向き直る。
「母さん、俺は母さんが認めてくれなくても、閂先輩と結婚して、母さんの元に帰ってくる。必ずそうする」
「こーちゃん……」
「だから、俺を一人前だと、認めてください!」
深々と頭を下げた俺の耳に、母さんの声が届いた。
「……ずっと、子供だと思ってた。どこかで、学校で受け持つ子供と一緒で、ずっと私が見てやらないとって思ってた」
「母さん?」
「成長、したんだね」
「……はい!」
俺と母さんは、家族の一人を失った。これからも、その傷は残ることなく在り続けるだろう。
だけど……それでも。
俺を、俺たちを愛してくれる人はいる。その人のために、俺はまだ生き続ける。
見ててくれ、父さん。俺は本当の愛を掴んでみせる。
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