【7月30日 午前9時10分】
「え? 退院した?」
予定通り私たち四人は朝一番でエミが入院しているはずの病院に向かったが、受付で言われたのは『柏恵美様は既に退院されてます』という言葉だった。
「ええ、つい先ほど柏様の従姉妹と名乗る方が迎えにいらしたのですが……ご本人様もその方を名前でお呼びしてまして、身分証も確認して間違いないと……」
「そ、そう、ですか……」
平静を装って返事しようとしたけど、動揺が声に表れてしまっていた。
「あの、その人たちがどこに行ったかわかりますか?」
動揺している私に変わって樫添さんが訊いてくれたけど、受付の人は怪しんだような表情になった。
「申し訳ありません。個人情報に関わることにはお答えできません」
「そうですよね……すみませんでした」
これ以上ここに留まると余計に怪しまれるかもしれない。さっさと出よう。
病院の玄関前に場所を移して頭の中で状況を整理するけど、どんどん焦りの感情と現状への疑問が溢れてくる。
最悪だ、楢崎は既にエミを連れ去っている。確かに今のエミは楢崎を求めている状態だし、病院側が連れて行くのを止めるわけがない。
でもなんで? なんでアイツはエミが病院にいるってわかったの? 『スタジオ唐沢』の連中にそれがわかるわけが……
『わたしを安心させないで』
「……まさか!」
上着のポケットに手を入れると、見覚えのないGPS装置が入っていた。
「黛センパイ、それって……」
「ええ。私のじゃないわ」
やられた……! 昨日、大学の食堂で楢崎に襲われた時に入れられたんだ。だから楢崎はここにエミがいるって……
いや、GPSだけじゃエミが入院していることには気づかない。もうひとつ何かがある。エミが入院していると確信するための何かが。
「黛さん、たぶん柏さんの居場所教えたのこの人じゃないの?」
朝飛さんは白樺隆の首を掴んで私の前に引っ張り出す。
「……悪く思うなよ。これもクロエのためだ」
「アンタ……!」
そうだ、そもそもなんで白樺が『死体同盟』のアジトに戻って来たのかを考えるべきだった。コイツは娘が唐沢の手中にあるんだ。楢崎クロエを唐沢から解放するために、アイツと取引していてもおかしくはない。唐沢に娘を解放させるために、エミの居場所を教えたんだ。
「唐沢がエミを殺すかもしれないってわかってて、アイツと取引したの?」
「仮にそうだとしても、唐沢がクロエには手を出さないだろ。だったらそれで十分だ」
「だったら今度は私たちの言うことを聞いてもらうわ。見返りはアンタの身の安全よ」
私と樫添さん、朝飛さんに取り囲まれても白樺は平然としていた。
「舐めるなよ。女三人で俺を押さえようってのか?」
「あのさぁ……」
呆れたような声で朝飛さんが小さく呟いた直後。
「ぐっ!?」
朝飛さんは両手で白樺の頭を掴み、下から覗き込むようにして顔を寄せた。
「あんまり手間取らせないでもらえます? 私だってね、お姉ちゃんとの約束あるからこんなことしたくないんだよね」
「お、お前……! こんな場所で俺を脅そうってのか? 周りに人もいるし防犯カメラだってあるぞ」
「うん、そうだね。たぶんあのカメラにはあなたが私に覆いかぶさるような感じで映ってるよね」
「何が言いた……うっ!?」
気づくと朝飛さんの親指が白樺の喉に突き立てられていた。
「『かつては売れっ子だった俳優が中年になったら鳴かず飛ばずになって逃げるように引退し、自暴自棄になって病院にいた女性に乱暴目的で襲い掛かり、もみ合った結果打ちどころが悪くて死んじゃいました』。うん、世間的にはウケの良い『しくじり人生』でしょ?」
「ハ、ハッタリはやめろ。アンタにそんなことできっこ……」
「ないって思う? 思ってていいし後悔もしなくていいよ」
朝飛さんの顔から感情が消える。
「どうせもう何も考えられないから」
相手が本気だと悟ったのか、白樺隆は寸前で叫んだ。
「わ、わかった! アンタらに従う! 従うからこの女を何とかしてくれ!」
「だってさ。黛さん、どうしよっか?」
「とりあえず腕は掴んでおいてください。それじゃあまずアンタに最初の要求。唐沢のアジトに案内して」
「あ、ああ……全く、本当にとんでもねえ奴らだな……」
とりあえずエミを追うことはできそうだ。だけど状況は依然として不利。唐沢のアジトに着く前に作戦を組み立てないと……
「……『とんでもねえ奴ら』には私も入ってるのかな……」
「ん? 何か言った?」
「あ、その、朝飛さんのこういう手は楢崎には通用しないので、アイツは私たちで対処しましょう」
「そうね」
樫添さんの言う通り、私たちの最大の障害は楢崎クロエだ。アイツを押さえるためには、白樺隆を交渉材料として使う必要がある。
【7月30日 午前10時11分】
「お姉ちゃんには連絡したよ。槌屋さんは足が悪いから待機して、曇天さんと一緒にこっちに合流するって」
アジトに向かうためにタクシーに乗り込んだ後、朝飛さんには夕飛さんに連絡してもらった。エミが唐沢たちに連れ去られた以上、匿う場所を用意する必要は無くなった。それなら唐沢たちに対抗するために合流した方がいい。
運転手に会話を聞かれないように、私たちは携帯電話でメッセージを送りながら作戦会議を行った。
『黛センパイ、向こうに着いたらどうします?』
『まずは白樺に楢崎を押さえてもらう。問題は唐沢と沢渡ね』
仮に楢崎の動きを止められたとしても、向こうにはまだ沢渡生花がいる。なんでアイツが唐沢に協力しているのかは知らないけど、取っ組み合いに一番慣れてるのはおそらくアイツだろう。
『黛さん、それなんだけどあの子はそこまで脅威じゃないと思うよ』
『どうしてですか?』
『あの子の身体能力は確かに強みだけど、今のあの子はなんていうか余裕が無いんだよね。私からしたらそういう子の方が対処しやすいかなあ』
『だったら、沢渡のことは任せます』
正直、朝飛さんの言葉はあまり理解できなかったけど、沢渡を押さえる自信があるなら任せよう。
『柳端のことはどうします?』
『アイツがこっちに味方してくれるなら話は早いけど、あんまり当てにはできないわ。私たちが優先するのはエミの救出。柳端のことは余裕があったら助けましょう』
『わかりました』
それぞれが対峙する相手は決まった。あとは唐沢に場所を移される前に突入できるかだ。
「運ちゃん、そこのビルの前で止まってくれ」
白樺が指し示したビルの前でタクシーを降り、改めて外観を確かめる。
最低限、演劇の稽古をするスペースはあるのかもしれないけど、そこまで大きなビルではない。
「見た感じは普通の雑居ビルでしかないわね」
「私と朝飛さんも昨日このビルに入りましたけど、唐沢たちがいたのは3階でしたね」
「なら朝飛さんは白樺と一緒に先に入ってもらっていいですか?」
「わかった。じゃあ私たちはエレベーターで3階に上がるから黛さんたちは階段で上がってきて」
二手に分かれた方がどちらかが唐沢たちに会う可能性は低いだろう。
「それじゃ、行くよ!」
ビルのエントランスに入り、中の様子を確認する。大した広さはないけど照明がそこまで明るくない。襲撃されるとしたら気づきにくいかもしれな……
「……危ない!」
「きゃあっ!?」
間一髪で樫添さんの身体を引っぱれた。彼女はまだ状況を理解できてなさそうだけど、私の目の端にはハッキリと映っていた。
樫添さんの横に隠れていた人物が、彼女に襲い掛かろうとしていた姿が。
暗がりで良く見えなかったその姿が、目が慣れてきたことで見えてくる。
「……き、来た、ねえ、まゆ嬢……」
「……沢渡!!」
そこにあったのは、昨日見た時と同じく黒いレインコートを着て、眼鏡をかけた余裕のない笑顔でこちらを恨みがましく見つめる沢渡生花の姿だった。
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