「……くそっ!」
苛立ちに任せて思わず電話を切ってしまったが、これではこちらに都合が悪いことが起こったとむざむざ相手に教えているようなものだ。しかし、そんなことを後悔してももう遅い。
しかし苛立ちは治まらない。それどころか余計に私の身体を焼くように駆けめぐっていく。そんな錯覚を抱きながら、私――飛天阿佐美は身につけている長髪のウィッグの毛先を握りしめていた。
「まさか、こんなことになるなんてね……」
もう関わることはないと思っていた。彼女さえ私の中から消えてしまえば、私は自分の人生を歩むことが出来る。黛瑠璃子を地獄に引きずり込むのも、そのために必要なことなのだ。
だが彼女は再び私の前に現れた。それも、よりによって柏恵美の協力者として。
「飛天、何かあったのか?」
苛立つ私を見かねたのか、今回の件の協力者――菊江教理が私に声をかけてくる。
現在、私は菊江の自宅であるマンションの一室にいる。高校生が一人で住むには贅沢とも言えるほどの間取りがあるリビングの窓際で、私はマンションの玄関前にいる柏恵美たちの姿を見下ろしていた。
そして自分の目で改めて確認する。柏恵美、樫添保奈美、そして……彼女の姿を。
「カオルコだ……」
「え?」
「柏たちに、カオルコが協力している」
「なんだと……!?」
私の出した名前を聞き、菊江は顔を背ける。こいつの過去を考えれば、当然の反応だろう。だからこそコイツは私に協力しているのだ。自分の家を、計画のアジトとして提供するほどに。
「ふふ……」
その時、張りつめた空気が漂っているリビングには不釣り合いな含み笑いが響いた。その声も、その態度も、その余裕も、全てが今の私を逆なでする。
「どうやら、アンタの予想してなかった事態が起こったようね、『レプリカ』さん?」
リビングの壁際で両腕を後ろに縛られ、両足も縛られながらも尚、黛瑠璃子はその余裕の笑みを崩さなかった。
「アンタのその様子を見ればわかる。おそらくエミは既にアンタの尻尾を掴んでいる。そしてこの時点で私たちの勝利は決まったようなもの」
「……何が言いたい?」
何故だ。何故この女はこの危機的状況でそんな表情をしていられる。お前は今、身動きが取れない状態で、自分を監禁した人間と一緒の部屋にいるんだぞ。それなのに何でお前は――
「わからない? アンタはたった一つ、予定外の出来事が起こったというだけでこれだけ動揺している。一方で私たちはこんな危機的状況はもう慣れっこなのよ。今までアンタには自分の正体を知られていないというアドバンテージがあったけど、今や条件は対等。そうなれば……」
そして黛瑠璃子は得意げに笑う。
「所詮、『レプリカ』でしかない存在が、本物に勝てるはずがない」
『レプリカ』。
おそらく柏恵美たちが私に付けた、便宜上の呼称。そこに大した意味などあるとは思えない。
だけど今の私には、その呼称がまるで呪いのように身体を縛り付けるもののように感じられた。
だから……
「黙れっ!!」
感情に流されるまま、思わず黛の顔を殴ってしまった。
「お、おい、飛天!」
菊江が私を制止しようとするが、私の苛立ちは治まらない。よりによってこの女に、私の存在を否定されたことが許せない。
「どうしてだ! もっと恐れろよ! もっと痛がれよ! 私に許しを請えよ! アンタが今するべきことは、それだろうが!」
そうだ、さっきマンションの玄関前で包丁を向けてこいつを捕らえた時にも、こいつはまるで動じなかった。まるで怯えていなかった。自分の安全が保障されているかのように。
いや待て。もしかして今のこいつの余裕はそういうことなのか?
「黛瑠璃子。もしかして、私がアンタを殺すことは出来ないとでも思ってる?」
「……」
そうだ、いくらこの女でも、私が本気だとわかれば怯え竦むはずだ。
「言っておくけど、樫添保奈美が要求を呑まなければ私は本当にアンタを殺す。いくら怯えて泣きわめいたとしても殺す。私にはその覚悟がある」
「……」
「私は本気だよ。でも鬼じゃない。アンタと樫添保奈美が柏恵美を見捨てさえすれば解放してやるさ。それでもアンタは……」
「嘘ね」
だが私の精一杯の脅しにも、黛瑠璃子は屈しなかった。そして今度は私を嘲るように笑い始める。
「アンタが私を殺す? やってみなさいよ。だけど私は今までの人生で何度も死にかけたけど、本気で命の危険を感じたのは一回だけだったわ」
「……それがどうしたって言うのさ?」
「過去に私を本気で殺そうとした男が一人だけいた。そいつと対峙した時のことは今でも覚えているわ。出会って数秒も経っていない私に躊躇無く刃を向けてきた。一つ選択を間違えれば自分があっさり死ぬということを暴力的とも言えるくらいに突きつけられた。でも命の危険を感じたのはその時だけ」
「だから、それがどうしたって言うんだよ!?」
「アンタの脅しには、少しも命の危険を感じないって言ってるのよ」
……バカを言うな。
私は、ここまでしているんだぞ。今、お前を浚って行動の自由を奪って、暴力を振るっているんだぞ。
それでもお前は、柏恵美を見捨てないと言うのか?
だったら、だったら私は……
「エミの言った通りね。アンタは所詮『レプリカ』に過ぎない。その殺意も、その姿も、そしておそらくその目的も、全てが偽物。『模造品』に過ぎないわ」
「う、ああああああああっ!」
苛立つ、その声が、その気高さが、その揺るがなさが私を苛立たせる。
だから感情のままに黛瑠璃子を殴る。菊江の制止する声にも構わず殴る。それでもコイツは揺るがない。
わかっているのだ。私の目的も、そして友情も、偽物でしかなかったということは――
※※※
一年半前。
「アサミ! 早く行こう!」
私の前で、一人の少女が真新しい制服を着てくるくると回っている。動作に合わせて、彼女のポニーテールも楽しげに揺れている。その表情から受ける印象はまさに人懐っこい女の子といったもので、これからの生活が明るく楽しいものだと確信している顔だ。
彼女こそ、私の小学校からの親友、後小橋川 薫子だ。
「カオルコ、はしゃぎすぎだよ。もう高校生になるんだからさ、落ち着きを持たないと」
「えー? 華の高校生活だよ? 楽しまないと損じゃん!」
「楽しむのと、はしゃぐのは違うのさ。ほら、ちゃんと前を見ないとぶつかるよ?」
「え? わあっ!」
後ろにいた私を振り返りながら話していたカオルコは、後頭部を電柱に思い切りぶつけ、両手でぶつけた箇所をさすっていた。
「うう、痛いー……」
「だから言っただろ? はしゃぎ過ぎだってさ」
「もう! 気づいてたなら早く言ってよ!」
「痛い目に遭わないと、カオルコは反省しないだろ?」
「う……」
私の指摘に、カオルコは図星とばかりに目を逸らし、なぜか口笛まで吹き始めた。
「え、えへへ、アサミには敵わないなあ」
「カオルコがわかりやす過ぎるのさ。さて、行くよ」
尚も口笛を吹き続けるカオルコの手を引き、私たちはこれから入学する高校へと向かう。
後ろにいるカオルコを見る。彼女は私の大切な友達だ。彼女の明るい笑顔には何度も心が救われたし、その人懐っこい性格を羨ましく思っている。私には備わっていないものだからだ。
私はどちらかというと他人に合わせることが得意ではない性格だった。間違っていると思った相手には、つい皮肉めいたことを言ってしまい、周りから疎んじられることも多かった。
だが彼女は違う。彼女は誰とでも打ち解け、誰とでも仲良くできる一種の才能を持っていた。だからカオルコは、その周りにいつも友達がいる人気者として認知されていた。
そしてなにより私が魅力的だと思うのは、彼女のその明るい笑顔だ。私は彼女の笑顔に何度も救われてきた。何度も温かい気分になれた。だから私にとって、彼女は大切な友達なのだ。カオルコは人気者だ。しかしそれでも、彼女は私と行動を共にしてくれる。彼女にとって特別な存在になれていることが、私は嬉しかった。
だから私はこれからも彼女と行動を共にし、共に助け合う関係になっていくのだろうと信じて疑わなかった。
愚かにも、何の努力もせずにその関係が保てると思っていた。
私たちが入学した高校、県立M高校。
この辺りの公立高校では一番の進学校として知られていて、それぞれの出身中学の成績自慢たちが集まっている。
私は元々勉強は出来る方だったので、中学二年の頃からこの学校への進学を希望していた。しかし一方でカオルコがここへの進学を希望したのは、中学三年の夏休みに入る直前だった。それまで彼女は家からほど近い私立高校への進学を希望していたので、突然の進路変更には驚いた記憶がある。理由を聞いても、『ちょっと挑戦してみたかった』としか言わなかった。
だけどこうして、カオルコと一緒の高校に通えるのは嬉しい。これで私は、高校で一人にならなくて済む。そんな甘い希望を抱きながら、私は彼女と共にクラス分けの名簿を見た。
「アサミ、私はA組だって!」
「う、私はC組だ……」
「別のクラスになっちゃったね……でも、休み時間とかに会おうね!」
「ああ、もちろんだ!」
カオルコと別のクラスになったのは残念だったが、彼女の言う通り休み時間になれば簡単に会えるのだ。そう悲観することではない。そう思っていた。
そして、その一ヶ月後。
私とカオルコは別のクラスでありながらも、毎朝一緒に登校し、授業が終われば一緒に下校していた。だけどそんなある日のことだった。
「え、気になる人がいる?」
「そ、そうなんだよね……」
下校中にカオルコから突然飛び出した、『気になる人がいる』という言葉。なるほど、カオルコもそういうのに興味を持つ時期になったのか。
なぜか一人娘を持つ父親みたいな感想を持ってしまった私だったが、とにかくカオルコに好きな人が出来たというのであれば、応援したい。一体、彼女の心を射止めたのはどんな男なのだろう。
「それで、相手はなんていう人なの?」
「それは……」
私は彼女が恋をすることを心から応援したいと思っていた。私は彼女の力になりたいと本気で思っていた。
「三年の、柏恵美って人なんだけど……」
――その名前を聞くまでは。
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